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月60万円稼いだ45歳元パチプロ。「闇スロ」との出会いが“破滅の序章”に…

日刊SPA! 2024年7月27日 15時54分

 朝から晩までパチンコやパチスロを打ち、勝ち金で生活をするパチプロ。20代ならまだしも、30代、40代となるにつれ、世間の風当たりの強さに足を洗う者も多い。気ままな稼業の代名詞とも言われる彼らは、一体どんな人生を歩んでいるのだろうか。
◆田舎のヤンキー、パチスロに出合う

 パチプロ界における“二刀流”といえば、誰もが「パチンコとパチスロ」と考えがちだが、彼は表と裏、昼は地元のホールで立ち回り、夜は闇スロ。いわゆる違法スロット店で立ち回りシノギを削ったという。現在、九州地方のある都市で内装業を営む加藤修さん(仮名・45歳)に話を聞いた。

「高校中退して、バイク乗ったりしてブラブラしてたの。一応、働かなきゃってことで、先輩の紹介で内装屋で働いてたけど、まぁ、田舎のヤンキーの典型例だよね。そのときにパチスロ覚えて打つようになったんだ。当時は大花火とかが人気でよく打ったけど、そんなに目押しも得意じゃなかったから、今考えたら損してたなぁって。その頃はまだ誘われてたまに打つくらいな感じだったね」

 その後、加藤さんは18歳になると、地元の先輩に誘われて鹿児島市内のラウンジでボーイを始めることになる。

「内装屋も社長が親分肌な人で、すごく面倒見がいい人だったから居心地はよかったんだけど、若い頃ってヤンチャしたいじゃない。それで誘われるまま夜の世界へ……ね。そこで2年くらい働いてたんだけど、今度は知り合いから東京の店で働かないかって誘われたんだ。若かったから勢いだけはあってさ、じゃあ行っちゃえ! って。六本木と歌舞伎町で都合3年働いたかな。東京出てきて初めてもらった給料をパチスロでスッちゃって、それがもう悔しくてさ。カネがないから次の給料まで何にもできないじゃない。なけなしのカネでパチスロ雑誌買い漁って、すり切れるまで読み込んだんだよ」

 昼はパチスロ、夜はボーイという二足のわらじを履いた生活は若き日の加藤さんにとって、充実した毎日だったという。

「仕事終わって朝まで飲んで、そのまま開店に並んで夕方まで打って、そこから店に行って……なんてこともよくやってた。今考えるとよくあんなに体力あったなぁって。ただ、あの頃は勝ってたというよりも、あんまり負けなかったっていうのが正解かな」

◆トラブルで逃げるように地元へ……

 しかし、とある事情から加藤さんは地元に戻ることとなる。

「お店のコとデキちゃったことが店にバレて……。そのコは店を辞めて別の店に行っちゃったの。そしたら、そのコがオレの悪口を散々言ってたみたいで、そのことが上の人の耳に入っちゃって……。呼び出されて『テメェがテキトーなことやったから、別の店に飛んだだろうが!』ってボコボコ(笑)。結局、この一件でものすごい揉めちゃって、逃げるようにして鹿児島に戻ってきたわけよ」

◆良好な出玉状況を見て“宮崎移住”を決断

 その後、しばらくは実家の工務店で手伝いをしていたのだが、友人に誘われて行った宮崎で運命が変わるのであった。

「地元のツレが宮崎で働いてて、遊びに行ったんだ。一晩飲んで朝起きて、ツレは仕事に行って、夜までやることがないからパチンコ屋に行ったら、スゲェ出てんの。当時はちょうど4号機から5号機に移行する頃で、4号機の連チャン機は最後っ屁みたいにリリースされまくってて、6号機もいろんな台が出てカオスだった。でも、みんな出玉率、連チャン性の高い4号機を好んで打ってて、5号機の島は明らかに高設定の台がゴロゴロ捨てられてる状況。4号機もちょっと粘ればオイシイゲーム数の台を拾うことができて、ものすごい甘い状況だったワケ。

 結局、ツレの家に1週間泊まり込んで、閉店のゲーム数とかチェックして、翌日は朝から狙い台を絞って打ったら、1週間で20万近く勝ったんだ。こんな甘い状況ならしっかり打てばかなり稼げんじゃないかって思って、その翌週には宮崎で仕事が見つかったって親に言って、“移住”しちゃった」

 こうして、加藤さんはパチプロとしてデビューを果たしたのである。基本的な立ち回りは、閉店間際にゲーム数をチェックして、朝から狙い台を絞って打ち、途中でホール内を徘徊してゲーム数をチェック、オイシイ台を見つけたら打つという、オーソドックスな立ち回りをしていたと振り返る。

◆5号機への移行で思い切ってパチンコにシフト

 加藤さんによれば、当時の宮崎はまさにブルーオーシャン。クギも設定も状況はよく、プロにとってはオイシイ環境だったという。

「宮崎市内の繁華街もまぁまぁ状況はよかったけど、田舎は郊外店が強いんだよ。メインにしてたのは市内から少し離れた大型店。ここを中心に朝から打って、ダメそうなら移動して打てる台を見つけたら打つスタイル。4号機も5号機も関係なしで、この頃は東京時代と違って狙った台で出すことのほうに嬉しさを感じてた。稼働は週4〜5日。週に1〜2日はツレの紹介で知り合った元ラウンジ嬢がやってるスナックみたいな店でバーテンの真似事をしてて、まぁ、完全なロクデナシだよね(笑)。収支なんかつけてなかったけど、バーテンのカネも含めると月に60万円くらいは稼いでたと思う」

◆パチンコ「マックス機」が全盛期に

 だが、2007年9月に4号機が撤去されると状況は変わる。負けはしないが、勝ち金がなかなか増えない状況に陥ってしまったのだ。

「4号機がなくなって、半年くらいはなかなか大きく勝てなくてキツかった。さてどうしようかと思ってたら、パチンコのマックスタイプのブームが来たんだ。たまたま初代花の慶次を打って、コレはすごい!って。それでクギを覚えるようになったんだよ。パチスロの設定は外から見てもわかんないけど、パチンコのクギって見ればわかるじゃない。クギの空いてる台を見つけて、確変中の止め打ちとオーバー入賞狙いを駆使して打ち込んでたけど、当時の宮崎じゃそこまでして打ってるヤツなんかいなかったから、完全にブルーオーシャン状態。初代、花の慶次なんかチョロ打ちで回転率がスゲぇ上がったから、かなりオイシイ思いができたなぁ」

◆クギが読めるようになりプロの自覚が芽生える

 そして加藤さんはパチスロからパチンコへと主戦場を移し、プロとしても充実した日々を送ることとなる。

「クギを読めるようになったことで、『プロだな』って思えるようになった。オレはコレでメシ食ってるんだぞ!って実感はすごくあったね。当時の宮崎は本当に状況が甘くて、2〜3軒回れば確実に打てる台を拾うことができて、海物語の島なんて、じいさんとばあさんばっかで、ライバルもいないしクギは甘いし、プロからしたら本当にブルーオーシャン(笑)。困ったら海物語だ!って、何度助けられたことか」

 4号機がなくなってもパチンコがある……。そんな変わり身の早さで加藤さんは、パチンコに安住の地を求め、プロとして足場を固めていくことになった。

◆闇スロとの出合いは突然に

 そんなある日、加藤さんは遂に闇スロと出合うことに……。

「2009年頃だったかな。バーテンやってる店の客から4号機が打てるゲーセンがあるって聞いたんだよ。しかもそのゲーセンは換金してくれると。おいおい、それはゲーセンじゃねぇ! 闇スロだろ!って(笑)。それでその人に連れてってもらったんだけど、オレがバイトしてた店の裏に番長とかのポスター貼ってる店があって、スロット好きが飲み屋でも始めたのかなぁって思ってたら、そこが闇スロだったの」

◆ホールでは打てない4号機に大興奮

「店に入ったら北斗の拳とか番長、秘宝伝、キンパルとか、爆裂台が15台くらいあって、台の上にはデータカウンターも付いてんの。横にサンドがあってカネを入れるとゲームセンターのスロットみたいにクレジットが50って出て、払い出しがあるとそのカウンターが上がっていくわけ。もう、ラインナップ見て、すげぇ興奮しちゃったよ。北斗の拳とかキングパルサーとか打ちまくった。懐かしい! あの連チャンがまた味わえる!って」

 結局、その日は散々打ち散らかしてしまい、3万円の負けとなったが、常連客に聞くと宮崎市内には全部で4軒ほどの闇スロが営業していることがわかった。そこで加藤さんはそれらの闇スロを回り、しばらくの間、往時を懐かしんで4号機を打ち込んだという。だが、気がつけば1か月でマイナス30万円。

 その後、闇スロにどっぷりとハマっていくことに……。加藤さんの人生は、ここからさらに大きく変わっていくことになる。

取材・文/谷本ススム

【谷本ススム】
グルメ、カルチャー、ギャンブルまで、面白いと思ったらとことん突っ走って取材するフットワークの軽さが売り。業界紙、週刊誌を経て、気がつけば今に至る40代ライター

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