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「敬語も知らなかった」“ガングロ”ギャルが知識ゼロから社長に。経営危機を乗り越えて

日刊SPA! 2024年8月1日 15時53分

 ギャルがトレンドになっている昨今。見た目だけではなく精神性にも注目が集まり、ポジティブに自分らしさを貫くマインドが支持されているという。そうした再ブームで気になるのは、かつて渋谷センター街を賑わせていたギャルたちの今だ。10代・20代を謳歌していた彼女たちは、年齢を重ねてどのような女性になっているのだろう。
 今回登場するのは、元『egg』読者モデルの塩澤麻衣さん(42歳)。90年代後半に活躍した塩澤さんは、自らを「原色人類」と名乗り独自の立ち位置を確立した。しかし00年代に入ると読者モデルを卒業し、表舞台に姿を現すことはなかった。

 それから20年以上が経った現在。彼女は数々のインフルエンサーから信頼されるエステサロン経営者として再び注目を集める存在になっていた。東日本大震災やコロナ禍といった経営の危機を乗り越えた彼女の半生とは。

◆敬語も知らないギャルが、5年後には100人の部下を育てるまでに

「エステ業界って勉強が苦手な人ほどおすすめなんです。手に職をつける!だからもし学歴のことでもう私は稼げないと思っている女性がいたら、諦めなくて大丈夫なんだってことを伝えたいんです」

 そう語る塩澤さんがエステ業界に足を踏み入れたのは些細なことからだった。

 当時19歳でギャル生活にも飽き始めていた塩澤さんは、そろそろガングロをやめて肌を白くしたいと思っていたという。そんなある日、アルバイト先の社長から「エステサロンを開業するからそこで働かないか」と声をかけられた。「私の肌も白くしてもらえて一石二鳥じゃん!」と彼女はすぐに承諾。これが天職に出合うきっかけとなった。

「ギャル時代にはいろんな業界の大人に会ってきたんです。もうそれはキラキラしてましたよ。すごい世界を見たなって感じでした。でもそれで満足しちゃって。でもこの場所にずっといたら成長はないなとと思ったんです。地に足をつけた生活をしたいという気持ちが高まっていた時期だったんですよね」

 20歳でエステティシャンとしての人生をスタートさせた塩澤さん。しかし“接客”以前にまず敬語をどう使えばいいのかわからない。

「敬語って時代劇の言葉だと思ってたんですよ!たとえば“お母様”“お父様”と呼ぶべきところで、“御母上様”“お父上様”って呼んじゃったり。気を抜けばチョベリグ〜とかいいそうにもなって(笑)。これじゃいけないと思って敬語の本を読み込みましたね」

 言葉の使い方、接客、美容知識、エステ実習……社会人として、エステティシャンとしての基本を必死で勉強する日々。一方、渋谷で個性の強いギャルや業界人たちと接していた経験からか、コミュニケーション能力は高い方だった。接客のコツを掴むとあっという間にエースとして飛躍していく。

「売上はどんどん上がるし、給料も上がるし、めちゃくちゃ楽しかったですね。入社から5年経った頃には部下が100人できてました。色んな経験をさせていただいてありがたかったです」

 25歳という若さにして大出世した塩澤さんは、徐々に独立への夢を抱くようになる。雇う側になってエステに興味を持つ女性を増やしたい……そんな思いがふつふつと湧いてきた。

 そして彼女は退職を決意。会社での地位を手放して新たな目標へと突き進んでいった。

◆自分で決めた道は絶対にやり抜く!ギャル時代から変わらない信念

 自分の道は自分で決める。塩澤さんは他人に敷かれたレールの上を歩くことはしない。

「誰に何を言われようが、自分の行きたい道に進んできました。その代わりに絶対やり抜きます。ときには弱気になることもありましたけど、どん底気分は3日間だけじっくり落ち込み反省してあとは前を向いていくこと、『雑草魂!』とこれを大切にしています」

 ギャルになると決めたときにもそうした強い意志があった。実は中学生の頃に女優を目指していた塩澤さん。劇団に所属して芝居の勉強をしていたものの、いくらオーディションを受けても採用されない。そんなときに出会ったのがギャルだった。

 ギャルになれば自分の個性が何なのかわかるかもしれない——渋谷の街を堂々と歩く女の子たちの姿を見てそう思った。あの子たちみたいに個性的になりたいと、肌を焼き始めた。しかし、女優を目指すなら過度な日焼けはできない。塩澤さんは迷った末に、女優の道を諦めてギャルになることを決めた。

 そんな彼女の決断が転機となる。渋谷に通うようになるとすぐに『egg』編集部からスカウトされ、女子高生読者モデルとして雑誌に出演することができたのだ。

 強烈な個性を持つモデルたちが勢揃いするなか、塩澤さんはガングロ肌に原色を合わせたスタイルを確立し、自らを「原色人類」と名乗るようになる。自分をどう見せたいか、そのためにはどうすればいいのか。当時から自分の見せ方についてよく考えていたという。

 その我が道を突き進む芯の強さと読者モデル時代に磨かれたプロデュース能力は、その後のエステティシャンとしての人生にも大きな影響を与えていく。

◆経営の知識ほぼゼロでエステサロン開業へ。塩澤さんに訪れた様々な困難とは

 勤めていたエステサロンを辞めた塩澤さんは、まず開業資金1000万円を貯めるべくキャバクラで働くことに。とはいえ一般的に考えれば、すぐに手に入る額ではない。さぞかし大変だったのではと想像したものの、彼女は「実家暮らしだったのであっという間でしたよ!」とあっさり。なんとわずか2年で1000万円を貯めてしまったとか。それよりも彼女にとっての困難は、さらにその先にあったようだ。

「いや〜、もう数字が苦手で!経営の知識なんて全然なかったんですよ!それがほんっとに大変でしたね。だからいろんな会社の社長さんと知り合いになって、ペンと紙を持って話を聞きにいったんです。若い子が一生懸命メモをとってるからか喜んで教えてくれましたね(笑)。このとき教えてくれた恩師には今でも感謝しています」

 エステティシャンとしてはプロでも、経営者としては素人同然。開業資金はあっという間に無くなり、しばらくは別のエステサロンのアルバイトをしながらやりくりしていたという。さらに経営の勉強、事業資金の調達、宣伝活動のためのブログ更新、HPの開設準備……と夜な夜な作業をする日々が続いた。

 それに当時、塩澤さんはまだ27歳だ。若い女性が世間から“いち経営者”として認められるには相当な苦労があったことだろう。

「銀行の融資はなかなか受けられませんでしたね。すごく厳しかったです。なので事業計画書をしっかり作って見せたりして、どうしたら信用してもらえるのか考えてました。あと、経済界のパーティーに行くと男性からひじでグイッと小突かれることとか本当にあるんですよ。負けないように笑顔でやり過ごしてましたけどね」

“元ギャル”感がでてしまうと経営はうまくいかない。身をもって痛感した塩澤さんは少しずつ経営者としてのしたたかさを身につけていく。厳しい状況は続くが、前向きに乗り切ろうとしていた。すべてはサロンを軌道にのせるため……しかしそんななかで追い打ちをかける出来事が起きた。

◆東日本大震災で経営の危機に。それでも続けた先で訪れた転機

 2011年3月11日、東日本大震災だ。当時、東京も激しく混乱していたことは記憶に新しい。電力需給は逼迫、世間は自粛ムード。キャンセルの嵐でエステ予約もゼロに。経営にも大きな影響を与え、塩澤さんの張りつめた糸はプツンと切れた。

「初めてやめようかなと思いましたね。あの頃はまだ一人経営でしたし、もういいかなと。こんなこと考えたのは後にも先にもこの時期だけですね。

 でも困ったら相談するって大事ですよね!今でも恩師の一人である方に気持ちを打ち明けてみたんです。そしたら『やめちゃだめだよ〜』と明るく一言くださって。それで1人でいたから思いつめてたんだと気がついて、サロンに励まし合える仲間=スタッフがいたらと社員を雇うことを決意しました」

 まだ諦めるには早い。塩澤さんは再び立ち上がり歩を進めることに決める。経営は引き続き苦手だったが、次に雇用の勉強を始めた。以前からカウンセリング心理学を学んでいた彼女だが、もっとわかりやすく心のケアができたらとタロット占いのメニューも追加。施術と会話で身も心も癒したい。そんな思いからだった。

 そしてついにチャンスがやってきた。塩澤さんの話を聞いた『egg』編集長が「モデルたちのメンタルを占うコーナーをやらないか」と声をかけたのだ。

「少しでもみんなが元気になってくれたらと思って引き受けました。私も昔ギャルだったので、彼女たちの気持ちがわかるんです。家族との団欒より外で得られる承認に幸せを感じたりとか。10代のこの時期だからこその悩みって本当にあるんですよね」

 そのコーナーはモデルからも反響がよかった。彼女たちの心を癒やしていくうちに、再び生まれたギャルの輪はどんどんどんどん広がっていく。

「そのコーナーは数年続けていたんですけど、そこで出会ったモデルさんたちがお店にも来てくれるようになって、ブログやSNSで紹介してくれたんです。それで少しずつ口コミが広がっていきました。“ギャルの繋がり”ありがたすぎますよね」

  エステティシャンとして貫いてきたことがようやく実を結んだようだった。リピーターは徐々に増えていき、今ではゆんころ(小原優花)さんやゆまちさんなど、数々のモデルたちが通う人気サロンとして知られている。サロンの口コミを見てみると「カウンセリングが丁寧」「親身になって話を聞いてくれた」というコメントも目立つ。

◆コロナ禍の経営危機を救った新メニュー「美尻エステ」

 開業から15年が経った現在、サロンは3店舗を構えるほどの成長を遂げた。

 2018年には新たに「美尻エステ」を開発。当時まだ日本では珍しいヒップ専門サロン「美尻研究所(R)」も開業させた。そしてその新サロンは後にやってくる新型コロナウイルスの流行による経営危機も乗り越えることとなる。

 感染対策として多くの人がマスクをするようになったことで、世の女性たちの関心は顔以外の美容に集まったのだ。さらにマスクをしたままうつ伏せで施術するため飛沫の心配も少ない。ヒップ専門サロンはコロナ禍で需要を大きく伸ばしていく。まさかの鉱脈。しかしそれは偶然というより必然だったという。

「続けていくためには、進化を続けなければならないので、次に何が来るのか常にアンテナを立てるんですよね。だからコロナ禍にも適したアイデアを考えられたのかなと思います。アンテナを立ててキャッチする、これ本当に大切ですよね」

「やめるか/続けるか」ではなく、続けるための進化を考える。これまで何度も危機を乗り越えてきた。もう突然の困難にも動じない。マイナスをむしろプラスに変える手立てを考える冷静さもある。

 そんな塩澤さんだが、ギャルの頃から大切にしてきたことは、自分の「個性」を磨くことだという。

「私が経営している株式会社マイビューティーという社名には、私の美しさ=それは「個性」という意味があるんです。お客様の個性を磨くこと、そして社員も個性を大切にしてほしい、そんな願いで立ち上げました」

 現在は店の経営にとどまらず、エステスクールの設立、エステティックグランプリの活動参加など、エステ業界の発展にも尽力しているそうだ。塩澤さんは「勉強が嫌いな私でもエステの勉強だけは楽しめた」と何度も口にした。だからこそ、私のような同じ思いの若者にエステティシャンという職業の魅力を広めていきたいのだ、と。

 そして最後に今後の展望について聞くと、このように語ってくれた。

「エステシャンを“なりたい職業”1位にさせたい!エステ業界を流行らせたいです!特に若い人たちにこの楽しさを伝えたくて。いつか高校の職業講話もやりたいんですよね。エステティシャンになりたいという人が増えれば、世の中には強くてキラキラした女性がもっと増える。これからもっと盛り上げていきたいですね」

【塩澤麻衣】
1981年生まれ、A型、天秤座、エステシャン歴23年。高校時代に雑誌『egg』の読者モデルとして活動後、美容業界に。大手エステサロン幹部として経験を積み、タイとインドネシアにマッサージ留学後、2008年に開業。「一般社団法人美容心理協会」代表理事も務める。
Instagram:@shiozawa_mai
X(旧Twitter):@mai_shiozawa

<取材・文/奈都樹、撮影/長谷英史>

【奈都樹】
1994年生まれ。リアルサウンド編集部に所属後、現在はフリーライターに。『リアルサウンド』『日刊サイゾー』などで執筆。またnoteでは、クォーターライフクライシスの渦中にいる20代の声を集めたインタビューサイト『小さな生活の声』を運営している。

―[“ギャル”のその後]―

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