緑色×赤文字で「源」と彩られたネオンを、銀座で目にした人は多いだろう。夜の社交場として知られ、主がこの世を去るまで銀座に8棟を構えた銀座丸源ビル。時価400億円とも推算されるこの不動産を巡って、人知れず“銭争”が起きていた。
◆「丸源ビルは美術館にする」叶わなかったオーナーの遺志
銀座の超一等地として知られる、並木通り。その一角に電気の灯りが消え、老朽化が進み、まるで幽霊ビルのように廃れた建物がある。
往年はスナックやキャバレー、バーといった夜の社交場が軒を連ね、銀座の夜を彩った銀座丸源31ビルだ。
このビルのオーナーとして名を馳せたのは、川本源司郎氏(享年91)。北九州の小倉出身、不動産業で財を成した銀座の顔役は、銀座に8棟のビルを所有し、栄華を極め、’24年2月に亡くなった。
そんな川本氏の人生は晩年、暗転する。
「節税が趣味」と公言するほど税金を嫌い、さまざまなスキームを駆使していた川本氏は、’13年に脱税容疑で逮捕されると、最高裁まで争うも’21年に懲役4年の実刑判決が確定。刑務所行きとなったのだ。
◆突然の死去、400億円規模の相続の行方は
高齢での服役生活を余儀なくされた川本氏が抱えていた資産は、銀座に所有する8棟だけでも400億円規模と目され、勢い、その相続に注目が集まった。ジャーナリストの伊藤博敏氏が語る。
「取材の過程で偶然、川本氏が今年2月に亡くなり、個人や法人で所有していた銀座の丸源ビルを6人の親族が相続。そこから、短期間で同一の不動産会社を通じて売却されていたことが判明しました。物件は不動産ファンドや上場企業に即日販売されており、あらかじめ売却先が決められていたかのような手際の良さに驚きました」
だが、これにて一件落着、とはいかなかった。一世を風靡した川本氏の死は本来、ニュースで伝えられてしかるべきはずだが、そうはならなかった。
それどころか、近しい関係者にすら知らされず、なぜか誤った形で「生きてる」ことにされる始末。まるで幽霊ビルとして今も銀座に鎮座する丸源31ビルのような妖しい物語を死後も紡いだのだ。
◆死んだはずの川本氏が「庭で竹刀を振った」証言
前述の通り、川本氏が死んだのは今年2月のこと。
だが『週刊新潮』’24年5月2日号では、川本氏の後を継ぐ形で「丸源」の社長に就任したという人物が登場し、「川本さんが亡くなったという噂は私も聞きました。でも、葬式の案内も来ていないし、よくわからんのです」とコメント。
この後任社長は相続に関して川本氏から直接依頼を受けたと語っており、死亡から2か月以上がたってその死を知らないとは考えづらい立場だ。
『週刊新潮』の記事ではさらに、近隣住民による川本氏の目撃談を掲載。
「(植木屋に)竹刀を振り回しながら命令していました」
というエピソードを紹介している。死んでいるはずの川本氏を、近隣住民は見たことになっているのだ。
まるで生きているかのように書かれた記事は、意外な波紋を呼んだ。投資ファンド関係者が困惑気味に話す。
「この記事を見て、富裕層の間で『丸源を買いたい。窓口を探せないか?』という動きが一時、活性化したのは事実。8棟の坪数と所有法人が記載されたリストが出回りました。このときは『川本氏には法定相続人がいないので、このまま死んだら国庫に入るだけ。その前に、なんとか売ってもらえるように口説きたい』という話だったのですが、まさかすでに死んでいて、相続もなされていたとは」
◆“チャイナマネー”も当然注目を
同様の証言は在日中国人界隈からも聞こえてきた。
「今は帰化しているが、もともとは大陸出身の人間がいて、『川本とパイプのある代議士の秘書が取りまとめるので、中国本土からも資本を集めよう』って話になっていました。5月か6月頃だったと思います。結局、この秘書がまとめきれずに話は破談になったと聞かされてましたが、実際は転売も済んでいたとは……」
降って湧いた巨額のビル群転売の話に、不動産ブローカーたちは踊らされた。それが虚構だと気づく者は、この時はいなかったのだ。
「新潮の記事が確信犯で書かれたデマだとは思えないが、値段をつり上げたい勢力があえて流した情報に基づいている可能性は否定しきれない。記事が出た5月は、売り手と最終交渉に入っていた頃でしょうから。8棟のうち7棟が3月から6月にかけて所有権が移転しており、なんらかの思惑が交錯したのでは」
前出の投資ファンド関係者はそう語る。果たして、この相続は川本氏の遺志なのか──。生前、川本氏と親しくしていた丸源関係者に話を聞くことができた。
「生涯独身だった川本さんに、相続人がいることを知る人間はごく一部でした。ただ、小倉や熱海のビルはともかく、銀座の丸源ビルを手放すような指示を彼がしたとは思えません。彼にとって銀座は聖域で、愛着も並大抵ではない。収監前によく、『俺は120歳までは生きる。短かったとしても110歳までは生きる。丸源はこの後、美術館にしたい。ニューオータニにあるような滝を銀座につくるってのは、どうだ?』。こんな話を、繰り返ししていましたから」
昭和、平成、令和にわたり、銀座の顔役として君臨し続けた丸源ビルオーナーの、川本源司郎氏。最後に残した夢が叶うことは、なかった。
取材・文/週刊SPA!編集部 写真/時事通信フォト
―[銀座・丸源ビル[400億円相続]の行方]―
◆「丸源ビルは美術館にする」叶わなかったオーナーの遺志
銀座の超一等地として知られる、並木通り。その一角に電気の灯りが消え、老朽化が進み、まるで幽霊ビルのように廃れた建物がある。
往年はスナックやキャバレー、バーといった夜の社交場が軒を連ね、銀座の夜を彩った銀座丸源31ビルだ。
このビルのオーナーとして名を馳せたのは、川本源司郎氏(享年91)。北九州の小倉出身、不動産業で財を成した銀座の顔役は、銀座に8棟のビルを所有し、栄華を極め、’24年2月に亡くなった。
そんな川本氏の人生は晩年、暗転する。
「節税が趣味」と公言するほど税金を嫌い、さまざまなスキームを駆使していた川本氏は、’13年に脱税容疑で逮捕されると、最高裁まで争うも’21年に懲役4年の実刑判決が確定。刑務所行きとなったのだ。
◆突然の死去、400億円規模の相続の行方は
高齢での服役生活を余儀なくされた川本氏が抱えていた資産は、銀座に所有する8棟だけでも400億円規模と目され、勢い、その相続に注目が集まった。ジャーナリストの伊藤博敏氏が語る。
「取材の過程で偶然、川本氏が今年2月に亡くなり、個人や法人で所有していた銀座の丸源ビルを6人の親族が相続。そこから、短期間で同一の不動産会社を通じて売却されていたことが判明しました。物件は不動産ファンドや上場企業に即日販売されており、あらかじめ売却先が決められていたかのような手際の良さに驚きました」
だが、これにて一件落着、とはいかなかった。一世を風靡した川本氏の死は本来、ニュースで伝えられてしかるべきはずだが、そうはならなかった。
それどころか、近しい関係者にすら知らされず、なぜか誤った形で「生きてる」ことにされる始末。まるで幽霊ビルとして今も銀座に鎮座する丸源31ビルのような妖しい物語を死後も紡いだのだ。
◆死んだはずの川本氏が「庭で竹刀を振った」証言
前述の通り、川本氏が死んだのは今年2月のこと。
だが『週刊新潮』’24年5月2日号では、川本氏の後を継ぐ形で「丸源」の社長に就任したという人物が登場し、「川本さんが亡くなったという噂は私も聞きました。でも、葬式の案内も来ていないし、よくわからんのです」とコメント。
この後任社長は相続に関して川本氏から直接依頼を受けたと語っており、死亡から2か月以上がたってその死を知らないとは考えづらい立場だ。
『週刊新潮』の記事ではさらに、近隣住民による川本氏の目撃談を掲載。
「(植木屋に)竹刀を振り回しながら命令していました」
というエピソードを紹介している。死んでいるはずの川本氏を、近隣住民は見たことになっているのだ。
まるで生きているかのように書かれた記事は、意外な波紋を呼んだ。投資ファンド関係者が困惑気味に話す。
「この記事を見て、富裕層の間で『丸源を買いたい。窓口を探せないか?』という動きが一時、活性化したのは事実。8棟の坪数と所有法人が記載されたリストが出回りました。このときは『川本氏には法定相続人がいないので、このまま死んだら国庫に入るだけ。その前に、なんとか売ってもらえるように口説きたい』という話だったのですが、まさかすでに死んでいて、相続もなされていたとは」
◆“チャイナマネー”も当然注目を
同様の証言は在日中国人界隈からも聞こえてきた。
「今は帰化しているが、もともとは大陸出身の人間がいて、『川本とパイプのある代議士の秘書が取りまとめるので、中国本土からも資本を集めよう』って話になっていました。5月か6月頃だったと思います。結局、この秘書がまとめきれずに話は破談になったと聞かされてましたが、実際は転売も済んでいたとは……」
降って湧いた巨額のビル群転売の話に、不動産ブローカーたちは踊らされた。それが虚構だと気づく者は、この時はいなかったのだ。
「新潮の記事が確信犯で書かれたデマだとは思えないが、値段をつり上げたい勢力があえて流した情報に基づいている可能性は否定しきれない。記事が出た5月は、売り手と最終交渉に入っていた頃でしょうから。8棟のうち7棟が3月から6月にかけて所有権が移転しており、なんらかの思惑が交錯したのでは」
前出の投資ファンド関係者はそう語る。果たして、この相続は川本氏の遺志なのか──。生前、川本氏と親しくしていた丸源関係者に話を聞くことができた。
「生涯独身だった川本さんに、相続人がいることを知る人間はごく一部でした。ただ、小倉や熱海のビルはともかく、銀座の丸源ビルを手放すような指示を彼がしたとは思えません。彼にとって銀座は聖域で、愛着も並大抵ではない。収監前によく、『俺は120歳までは生きる。短かったとしても110歳までは生きる。丸源はこの後、美術館にしたい。ニューオータニにあるような滝を銀座につくるってのは、どうだ?』。こんな話を、繰り返ししていましたから」
昭和、平成、令和にわたり、銀座の顔役として君臨し続けた丸源ビルオーナーの、川本源司郎氏。最後に残した夢が叶うことは、なかった。
取材・文/週刊SPA!編集部 写真/時事通信フォト
―[銀座・丸源ビル[400億円相続]の行方]―