Infoseek 楽天

「平安京への遷都(794年)」の理由は“怨霊”だった…学生時代に習った日本史は間違っている?

日刊SPA! 2024年9月3日 8時50分

 学生時代、テストや受験のために必死に日本史の年号や出来事を覚えた人はたくさんいるはず。しかし、その覚えたことが違っていたとしたら……。
 高校教師歴27年、テレビなどにも多数出演している歴史研究家で多摩大学客員教授などを務める河合敦先生によると、歴史研究が進んだことにより、今の歴史教科書と30年くらい前の歴史教科書では、記述が変わっているところがたくさんあるのだとか。

 例えば、「イイクニ」として語呂合わせで覚えた1192年に開かれたという鎌倉幕府については、全国に守護・地頭を置いて武家政権を獲得したのが1185年、1192年は源頼朝が征夷大将軍になった年であり、いつ鎌倉幕府が成立したかについては諸説あって、教科書でも2段階にわけて紹介している。

 そこで、教科書を切り口にした歴史の新説や、教科書では紹介されない不都合な日本史などを河合先生から教えてもらった。

(この記事は、『逆転した日本史~聖徳太子、坂本龍馬、鎖国が教科書から消える~』河合 敦 著より一部を抜粋し、再編集しています)

◆怨霊のせいで都が移ったのはホント?

 オカルト番組は大好きなのに、これまで一度も霊や化け物というものを見たり感じたりしたことがなく、残念ながら霊感はないという河合先生。しかし、霊魂の存在は信じているし、実際、悪霊や怨霊が古代では歴史をたびたび動かしているのだという。

「そんな馬鹿な……とあきれる方もいるかもしれないが、これは本当のことなのです。たとえば平安京への遷都、これも怨霊の仕業なのです」(以下、すべて河合先生)

 かなり衝撃的な話だが、河合先生は以下のように説明する。

「桓武天皇は、政治に介入する大寺院の影響力を断つべく、784年に奈良の平城京から山背国の長岡京へ遷都。以降、桓武は長岡に住むようになったが、まだ都の造営は続いていました。

 ところが翌年9月25日、都づくりの責任者であった藤原種継が何者かに射殺(いころ)されたのです。やがて犯人たちが逮捕されましたが、いずれも皇太子で弟の早良(さわら)親王の関係者でした。

『早良はかつて僧侶だったので、大寺院や一部の貴族と結んで遷都に反対するために種継を殺したのだ』そう信じた桓武天皇は、皇太子の地位を剥奪して淡路島へ流すことに決めたのでした。しかし早良は断固無罪を主張して一切の飲食を断ち、淡路島へ送られる船中で息絶えたのです」

◆早良の死後、桓武の周りで不幸が相次ぐ

 そして早良の死後、次々と不幸な出来事が起きる。

「早良の遺体は淡路島に葬られたが、やがて桓武の身の回りで不幸が相次ぎます。

 夫人の藤原旅子(りょし)、母親の高野新笠(にいがさ)、皇后の藤原乙牟漏(おとむろ)、夫人の坂上又子(またこ)と、次々と親族が亡くなり、皇太子となった息子の安殿親王(あてのみこ)が原因不明の病にかかってしまいます。そのうえ天候不順による凶作となり、天然痘が猛威をふるい、長岡京も二度の大洪水にみまわれました」

 あまりにも不幸が続いたため、桓武は占いをすることにした。

「桓武天皇が卜筮(ぼくせい)で占わせると「すべては早良親王の崇(たたり)りである」との卦(け)が出たのでした。驚いた桓武はすぐに淡路島に使者を遣わして早良の墓を清掃し、供養してその霊を慰めました」

 けれど以後も悪いことは一向に収まりません。

「桓武天皇は早良の祟りだと信じ、神経をすり減らしていきました。たとえば宮門が倒れて牛が下敷きになって死ぬと、「私は丑年生まれゆえ、自分の死を暗示しているのだ」とか、寝ながら屋根の雨音を聞いていて、突然「土が降っている」と言って外へ飛び出すなど、神経過敏な状態になってしまうのです。

 こうして、とうとう長岡京を捨てて平安京へ再遷都することにしたのです」

◆教科書にも遷都は怨念の仕業と記述されている

 これは、すでに研究によって知られていた事実だが、昔の教科書は、科学的でないと考えたのか、平安京遷都の理由を長岡京が二度の洪水に見舞われたからとしていた。しかし、近年は以下のように記されている。

「早良親王はみずから食を断って死に、その後、桓武天皇の母や皇后があいついで死去するなどの不幸が早良親王の怨霊によるものとされた。そのほか、長岡京がなかなか完成しなかったことも、平安遷都の理由とされている」(『詳説日本史B』山川出版社 2018年)

 このように教科書も遷都は怨霊の仕業としているのである。

◆道真の祟りに苦しめられた醍醐天皇

 ちなみに桓武天皇のほかにも、怨霊に苦しんで死んでいった歴史上の人物はたくさんいると、河合先生が言う。

「醍醐天皇は、『右大臣の菅原道真が娘婿の斉世(ときよ)親王(醍醐の弟)を即位させようと企んでいる』という左大臣・藤原時平の讒言(ざんげん)を信じて道真を大宰府に左遷しました。

 しかし、道真の死後に天変地異が相次ぎ、時平も若くして急死、宮中にはたびたび雷が落ち貴族が死んでしまいました。

 このため朝廷は道真が怨霊(雷神)化したと恐れ、その鎮魂のために北野天満宮や大宰府天満宮を建立した。なお、醍醐天皇も息子や孫を失い、それを道真の祟りだと信じて失意のうちに亡くなっています」

◆藤原道長も怨霊の犠牲者だった!?

 摂関政治の全盛期を築いた藤原道長も怨霊に苦しんだとか。

「権力を握ってからたびたび胸に激痛を覚えるようになるが、道長は、これは自分が蹴落とした貴族たちの怨霊だと信じました。とくに藤原延子(えんし)の仕業ではないかと疑ったのです。

 延子は、三条天皇の東宮(皇太子)である小一条院敦明(あつあきら)親王の妻だったが、敦明は道長によってその地位を降ろされました。延子が三人の皇子や皇女を産んでいたので、敦明が即位すると、延子の父・左大臣藤原顕光が外戚として権力をにぎると危惧したのです。

 ただ、道長は政争の犠牲になった敦明親王を憐れみ、自分の娘・寛子(かんし)を彼に嫁がせました」

◆延子の霊が寛子に乗り移って……

 すると敦明は寛子に夢中になり、延子のもとを訪れなくなったという。

「このため延子は道長を憎悪したまま亡くなったのです。だから道長は病を癒やすため、剃髪して延子らの霊を慰めました。

 けれども1025年7月、娘の寛子が拒食症によって死んでしまいます。道長が見舞ったさい寛子は『お前の敦明親王への措置はひどい! その恨みで私が死ななくてはならなかったことは悔しい!』と叫んだそうです。

 それは、延子の霊が寛子に乗り移ったのだと。それから一月も経たない8月5日、今度は娘の嬉子(きし)が死んでしまいます。二年後には息子の顕信(あきのぶ)が急死、同年の9月には娘で皇太后の妍子(けんし)も病死しました。道長はこれにショックを覚え、同年12月に亡くなってしまったのです」

◆日本最大の怨霊、崇徳上皇の壮絶な最期

 日本最大の怨霊ともいわれるのが崇徳(すとく)上皇。

「崇徳は後鳥羽上皇の長男で、保元(ほうげん)の乱で後白河天皇方に敗れ、讃岐国(香川県)に流されました。その後、崇徳は都に戻りたいと後白河に哀願するが、拒絶されてしまいます。

 絶望した崇徳は「我、生きていても無益なり」(『保元物語』)と叫び、以後、髪も爪も伸びるにまかせ、天狗のような姿となり、まもなく息絶えました。

 ただ、死の直前に五部大乗経を手に、「日本国の大魔縁(だいまえん)(大悪魔)となりて、皇(皇室)を取って民(庶民)となし、民を皇となさん」(『保元物語』)と魔界と契約をかわし、舌を噛み破って流れ出た血で経典に呪詛(じゅそ)の文言を書き付け、荒れ狂う海に投じたといいます」

◆怨霊という存在の影響力

 その結果、武士の平清盛が太政大臣となり、やがて孫の安徳を即位させて外戚となると、後白河法皇を幽閉し権力を奪ってしまった。「皇を取って民となし、民を取って皇となす」という崇徳の呪いが成就したと人々は考えたのである。

「後白河も崇徳の呪いを恐れ、その魂を鎮めるため、保元の乱の戦場跡に粟田宮を建立したが、その後『後白河は怪異におびえて自邸を引き払った』という記録も残っています。

 さらに1191年、重病に侵された後白河は、病は崇徳の祟りと信じ、崇徳を荼毘(だび)にふした白峰山に頓証寺殿(とんしょうじでん)を建立しました。寺の建物は朝廷の紫宸殿(ししんでん)を模した壮麗なものでした。しかし、それから三カ月後、後白河は崩御してしまったのです」

 このように古代においては、怨霊という存在が日本史に大きな影響を与えているのだ。改めて、怨霊の怖さを歴史によって感じてしまう。

文/河合敦 構成/日刊SPA!編集部

【河合 敦】
歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965 年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』『日本史の裏側』『殿様は「明治」をどう生きたのか』シリーズ(小社刊)、『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』(青春新書)、『絵と写真でわかる へぇ~ ! びっくり! 日本史探検』(祥伝社黄金文庫)など著書多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017 年に上梓。

この記事の関連ニュース