7月に新札が発行されたが、ちょっと年が上の人ならお札といえば聖徳太子という人も多いはず。
十人の言葉を一度に聞き分けるほど聡明で、皇太子になると、摂政として叔母の推古天皇を助け、天皇への忠誠と人々の「和」を説いて国内をまとめ、隋という巨大帝国との対等外交を成功させた。そんなスゴい人だと習ったのではないかと思う。
しかし、「聖徳太子は実はいなかったのでは?」という説もあるのだとか。
高校教師歴27年、テレビなどにも多数出演している歴史研究家で多摩大学客員教授などを務める河合敦先生によると、歴史研究が進んだことにより、今の歴史教科書と30年くらい前の歴史教科書では、記述が変わっているところがたくさんあるのだとか。
そこで、教科書を切り口にした歴史の新説や、教科書では紹介されない不都合な日本史などを河合先生から教えてもらった。
(この記事は、『逆転した日本史~聖徳太子、坂本龍馬、鎖国が教科書から消える~』より一部を抜粋し、再編集しています)
◆聖徳太子は推古天皇の補佐役?
河合先生にとっても、子ども心に聖徳太子はヒーローで、高校の教師になってからも、授業では聖徳太子の活躍は熱を入れて語ったものだという。
「ところが、2002年、改訂された教科書を読んで愕然としました。それは、聖徳太子がまったく別人のように変化していたからです」(以下、すべて河合氏)
以前(1999年)の教科書では、「推古天皇は、翌年、甥の聖徳太子(厩戸皇子うまやどのおうじ)を摂政とし、国政を担当させた」、「604年に聖徳太子は憲法十七条を制定し、豪族たちに、国家の役人として政務にあたるうえでの心がまえを説くとともに、仏教をうやまうこと、国家の中心としての天皇に服従することを強調した」(『詳説日本史』山川出版社)と、太子が推古朝の政治の中心だったと書かれていた。
◆新たな学説の登場で太子研究に激震
ところが、2002年の教科書では、次のように変わってしまった。
「推古天皇が新たに即位し、国際的緊張のもとで蘇我馬子や推古天皇の甥の厩戸王(聖徳太子)らが協力して国際組織の形成を進めた。603年には冠位十二階、翌604年には憲法十七条が定められた」(『詳説日本史』山川出版社)
「主語が推古天皇に取って代わり、太子は単なる政治の協力者に成り下がってしまったのです。驚くべき変化ですね。いったい何が原因だったのかというと、新たな学説の登場により、太子研究に激震がおこっていたのです。
1999年、中部大学名誉教授の大山誠一氏が『〈聖徳太子〉の誕生』(吉川弘文館)を刊行したのがきっかけでした。大山氏は同書で、聖徳太子の実在を明確に否定したのです。
推古朝に厩戸という名の皇子はいたが、政治の中心になるような人ではなかった。聖徳太子は、権力者である藤原不比等や長屋王などによって『日本書紀』で創作された聖人であると明快に断じたのです」
◆じつは戦前からあった、聖徳太子不在説
聖徳太子がフィクションだなんて信じがたい。そう思う読者も多いはず。
が、じつは、これは戦前から言われてきたことなのだという。歴史家の久米邦武氏や津田左右吉氏、福山敏男氏などは、太子に関する史料は信憑性に乏しいとして、史実としての太子の業績に疑問を投げかけていた。
しかし、瀧川政次郎氏や坂本太郎氏といった歴史の大家が強く実在説をとなえ、とくに坂本氏が歴史教科書に深く関わったため、聖徳太子の実在説は定着したとされる。
いずれにせよ、大山氏の説が出ると、これに反発する学者たちも続々と登場、太子の存在をめぐって大論争が勃発した。
ただ、教科書の記述を見ればわかるとおり、大山氏ほど「太子不在説」を強く打ち出していないものの、有力な皇族だが太子が政治の主導者ではないことをはっきり理解できる文章になっている。つまり、学界の主流は大山説に傾いたことがわかる。
◆小学校ではヒーロー、高校では脇役と教えられる聖徳太子
しかし、もう一つ摩訶不思議(まかふしぎ)なことがある、と河合先生。現在の小学校社会科の教科書では、従来のように聖徳太子を偉人として扱っているのだ。
それには理由がある。文科省の学習指導要領に、「次に掲げる人物を取り上げ、人物の働きを通して学習できるよう指導すること」とあり、取り上げるべき四十二名の歴史上の人物の中に聖徳太子が含まれているのである。
「これは、2017年3月に公示され、2020年から完全実施された学習指導要領でも同じです。
飛鳥時代の大陸文化の摂取に関して『聖徳太子が法隆寺を建立し、小野妹子らを遣隋使として隋(中国)に派遣することにより、政治の仕組みなど大陸文化を積極的に摂取しようとしたことなどが分かる』よう指導せよと述べています。
このため、小学校では現在も、そしてこれからもヒーローなのですが、高校生になると、推古天皇の単なる脇役としての聖徳太子と出会うことになるのです。この矛盾を防ぐためには、小学校学習指導要領の学習するべき偉人の項目から聖徳太子を除いてしまえばいいのですが、それも簡単にはできないのですね」
◆「厩戸王」の呼称に批判殺到
文科省でも、こうした矛盾を少しでも解決しようと考えたようで、新しい小・中学校の学習指導要領では「聖徳太子」は死後の呼称なので、存命中の名・厩戸王を登場させ、中学校では「厩戸王( 聖徳太子)」、小学校では「聖徳太子( 厩戸王)」と表記すると発表した。2017年2月のことだ。
ところが翌月、文科省はこれを撤回する。これについて国民からパブリック・コメントを求めたところ、批判が殺到したからだ。
「しかしながら、近年、やはり聖徳太子は政治的に大きな力を持っていたという論文がいくつも発表され、太子の業績が再評価され始めています。今後、もしかすると高校日本史の教科書のほうが修正される可能性が出てきている。まさに歴史研究の面白さと言えます」
◆法隆寺に所蔵されていた聖徳太子蔵、本当は誰?
聖徳太子は不在だったかもしれない……。とすると、法隆寺に所蔵されていた聖徳太子像と、お札にもなったあの有名な肖像画は誰なのだろう?
太子が初めて紙幣になったのは1930年のこと。高額の百円札だった。その後も続けて紙幣の肖像となり、1963年に伊藤博文が千円札の肖像に採用されるまで、紙幣4種のうち3つが聖徳太子だった。まさに聖徳太子がお札の代名詞だったことがわかる。
初めて紙幣に使用した太子の原画は、大蔵省造幣局図案官の磯部忠一氏が描いたもの。宮内省所蔵の「唐本御影(とうほんみえい)(聖徳太子二王子像)」を参考に、歴史家や服飾家の意見を聞きながら絵を完成させたという。
以後、お札に登場する太子像はすべて、この原画がお手本とされることになった。
◆高校の日本史の教科書から消えた「聖徳太子像」
「原画のもとになった『唐本御影』は、もともと法隆寺に所蔵されていた絵画でしたが、明治時代に皇室に寄贈されました。
寺側の伝承では、画中三人の真ん中が聖徳太子本人だといいます。このため、昔の教科書では『唐本御影』を『聖徳太子像』と紹介していました。
しかし最近は、高校の日本史の教科書からこの像は消え、中学校の歴史教科書も『聖徳太子(574~622)と伝えられる肖像画』(『新編新しい社会 歴史』東京書籍2017年)と、かなり自信なさげな言い方になっています。
なぜなら、『唐本御影』に描かれたこの人物が、太子本人であるかどうか、かなり怪しいと考えられるようになったからです」
きっかけは、東京大学名誉教授で仏教史に詳しい故・今枝愛真(あいしん)氏が、1982年の朝日新聞紙上に「『唐本御影』はかつては川原寺にあったもので、聖徳太子の肖像として描いたという蓋然性は少ない」と発表したのがきっかけだった。
これについては反発する声も大きかった。
◆聖徳太子は「あの肖像」の姿ではなかったのかも
ただ、追手門学院大学教授の武田佐知子氏は、その著書『信仰の王権 聖徳太子』(中公新書)で、絵のモデルは太子以外に考えにくいとしつつも、「唐本御影」は八世紀半ば(奈良時代)に描かれたものだと論じた。
その根拠は、肖像の人物が身につけている服や冠が、太子時代よりずっとあとのもので、とくに手に持っている笏(しゃく)は、まだ一般的ではなかったからだとする。
「これが事実であれば、少なくとも太子が亡くなってから百年以上経って描かれたのが『唐本御影』ということになります。写真もビデオもない時代ですから、おそらくこの肖像は、実際の太子本人の姿とまったく違ってしまっているでしょう。
けれど、あの肖像の容貌こそが聖徳太子だと信じて疑わなかった私にとって、死後百年後に描かれ、似ていない可能性が高いというのは、なんとなく気落ちしてしまうものです」
文/河合 敦 構成/日刊SPA!編集部
【河合 敦】
歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965 年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』『日本史の裏側』『殿様は「明治」をどう生きたのか』シリーズ(小社刊)、『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』(青春新書)、『絵と写真でわかる へぇ~ ! びっくり! 日本史探検』(祥伝社黄金文庫)など著書多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017 年に上梓。
十人の言葉を一度に聞き分けるほど聡明で、皇太子になると、摂政として叔母の推古天皇を助け、天皇への忠誠と人々の「和」を説いて国内をまとめ、隋という巨大帝国との対等外交を成功させた。そんなスゴい人だと習ったのではないかと思う。
しかし、「聖徳太子は実はいなかったのでは?」という説もあるのだとか。
高校教師歴27年、テレビなどにも多数出演している歴史研究家で多摩大学客員教授などを務める河合敦先生によると、歴史研究が進んだことにより、今の歴史教科書と30年くらい前の歴史教科書では、記述が変わっているところがたくさんあるのだとか。
そこで、教科書を切り口にした歴史の新説や、教科書では紹介されない不都合な日本史などを河合先生から教えてもらった。
(この記事は、『逆転した日本史~聖徳太子、坂本龍馬、鎖国が教科書から消える~』より一部を抜粋し、再編集しています)
◆聖徳太子は推古天皇の補佐役?
河合先生にとっても、子ども心に聖徳太子はヒーローで、高校の教師になってからも、授業では聖徳太子の活躍は熱を入れて語ったものだという。
「ところが、2002年、改訂された教科書を読んで愕然としました。それは、聖徳太子がまったく別人のように変化していたからです」(以下、すべて河合氏)
以前(1999年)の教科書では、「推古天皇は、翌年、甥の聖徳太子(厩戸皇子うまやどのおうじ)を摂政とし、国政を担当させた」、「604年に聖徳太子は憲法十七条を制定し、豪族たちに、国家の役人として政務にあたるうえでの心がまえを説くとともに、仏教をうやまうこと、国家の中心としての天皇に服従することを強調した」(『詳説日本史』山川出版社)と、太子が推古朝の政治の中心だったと書かれていた。
◆新たな学説の登場で太子研究に激震
ところが、2002年の教科書では、次のように変わってしまった。
「推古天皇が新たに即位し、国際的緊張のもとで蘇我馬子や推古天皇の甥の厩戸王(聖徳太子)らが協力して国際組織の形成を進めた。603年には冠位十二階、翌604年には憲法十七条が定められた」(『詳説日本史』山川出版社)
「主語が推古天皇に取って代わり、太子は単なる政治の協力者に成り下がってしまったのです。驚くべき変化ですね。いったい何が原因だったのかというと、新たな学説の登場により、太子研究に激震がおこっていたのです。
1999年、中部大学名誉教授の大山誠一氏が『〈聖徳太子〉の誕生』(吉川弘文館)を刊行したのがきっかけでした。大山氏は同書で、聖徳太子の実在を明確に否定したのです。
推古朝に厩戸という名の皇子はいたが、政治の中心になるような人ではなかった。聖徳太子は、権力者である藤原不比等や長屋王などによって『日本書紀』で創作された聖人であると明快に断じたのです」
◆じつは戦前からあった、聖徳太子不在説
聖徳太子がフィクションだなんて信じがたい。そう思う読者も多いはず。
が、じつは、これは戦前から言われてきたことなのだという。歴史家の久米邦武氏や津田左右吉氏、福山敏男氏などは、太子に関する史料は信憑性に乏しいとして、史実としての太子の業績に疑問を投げかけていた。
しかし、瀧川政次郎氏や坂本太郎氏といった歴史の大家が強く実在説をとなえ、とくに坂本氏が歴史教科書に深く関わったため、聖徳太子の実在説は定着したとされる。
いずれにせよ、大山氏の説が出ると、これに反発する学者たちも続々と登場、太子の存在をめぐって大論争が勃発した。
ただ、教科書の記述を見ればわかるとおり、大山氏ほど「太子不在説」を強く打ち出していないものの、有力な皇族だが太子が政治の主導者ではないことをはっきり理解できる文章になっている。つまり、学界の主流は大山説に傾いたことがわかる。
◆小学校ではヒーロー、高校では脇役と教えられる聖徳太子
しかし、もう一つ摩訶不思議(まかふしぎ)なことがある、と河合先生。現在の小学校社会科の教科書では、従来のように聖徳太子を偉人として扱っているのだ。
それには理由がある。文科省の学習指導要領に、「次に掲げる人物を取り上げ、人物の働きを通して学習できるよう指導すること」とあり、取り上げるべき四十二名の歴史上の人物の中に聖徳太子が含まれているのである。
「これは、2017年3月に公示され、2020年から完全実施された学習指導要領でも同じです。
飛鳥時代の大陸文化の摂取に関して『聖徳太子が法隆寺を建立し、小野妹子らを遣隋使として隋(中国)に派遣することにより、政治の仕組みなど大陸文化を積極的に摂取しようとしたことなどが分かる』よう指導せよと述べています。
このため、小学校では現在も、そしてこれからもヒーローなのですが、高校生になると、推古天皇の単なる脇役としての聖徳太子と出会うことになるのです。この矛盾を防ぐためには、小学校学習指導要領の学習するべき偉人の項目から聖徳太子を除いてしまえばいいのですが、それも簡単にはできないのですね」
◆「厩戸王」の呼称に批判殺到
文科省でも、こうした矛盾を少しでも解決しようと考えたようで、新しい小・中学校の学習指導要領では「聖徳太子」は死後の呼称なので、存命中の名・厩戸王を登場させ、中学校では「厩戸王( 聖徳太子)」、小学校では「聖徳太子( 厩戸王)」と表記すると発表した。2017年2月のことだ。
ところが翌月、文科省はこれを撤回する。これについて国民からパブリック・コメントを求めたところ、批判が殺到したからだ。
「しかしながら、近年、やはり聖徳太子は政治的に大きな力を持っていたという論文がいくつも発表され、太子の業績が再評価され始めています。今後、もしかすると高校日本史の教科書のほうが修正される可能性が出てきている。まさに歴史研究の面白さと言えます」
◆法隆寺に所蔵されていた聖徳太子蔵、本当は誰?
聖徳太子は不在だったかもしれない……。とすると、法隆寺に所蔵されていた聖徳太子像と、お札にもなったあの有名な肖像画は誰なのだろう?
太子が初めて紙幣になったのは1930年のこと。高額の百円札だった。その後も続けて紙幣の肖像となり、1963年に伊藤博文が千円札の肖像に採用されるまで、紙幣4種のうち3つが聖徳太子だった。まさに聖徳太子がお札の代名詞だったことがわかる。
初めて紙幣に使用した太子の原画は、大蔵省造幣局図案官の磯部忠一氏が描いたもの。宮内省所蔵の「唐本御影(とうほんみえい)(聖徳太子二王子像)」を参考に、歴史家や服飾家の意見を聞きながら絵を完成させたという。
以後、お札に登場する太子像はすべて、この原画がお手本とされることになった。
◆高校の日本史の教科書から消えた「聖徳太子像」
「原画のもとになった『唐本御影』は、もともと法隆寺に所蔵されていた絵画でしたが、明治時代に皇室に寄贈されました。
寺側の伝承では、画中三人の真ん中が聖徳太子本人だといいます。このため、昔の教科書では『唐本御影』を『聖徳太子像』と紹介していました。
しかし最近は、高校の日本史の教科書からこの像は消え、中学校の歴史教科書も『聖徳太子(574~622)と伝えられる肖像画』(『新編新しい社会 歴史』東京書籍2017年)と、かなり自信なさげな言い方になっています。
なぜなら、『唐本御影』に描かれたこの人物が、太子本人であるかどうか、かなり怪しいと考えられるようになったからです」
きっかけは、東京大学名誉教授で仏教史に詳しい故・今枝愛真(あいしん)氏が、1982年の朝日新聞紙上に「『唐本御影』はかつては川原寺にあったもので、聖徳太子の肖像として描いたという蓋然性は少ない」と発表したのがきっかけだった。
これについては反発する声も大きかった。
◆聖徳太子は「あの肖像」の姿ではなかったのかも
ただ、追手門学院大学教授の武田佐知子氏は、その著書『信仰の王権 聖徳太子』(中公新書)で、絵のモデルは太子以外に考えにくいとしつつも、「唐本御影」は八世紀半ば(奈良時代)に描かれたものだと論じた。
その根拠は、肖像の人物が身につけている服や冠が、太子時代よりずっとあとのもので、とくに手に持っている笏(しゃく)は、まだ一般的ではなかったからだとする。
「これが事実であれば、少なくとも太子が亡くなってから百年以上経って描かれたのが『唐本御影』ということになります。写真もビデオもない時代ですから、おそらくこの肖像は、実際の太子本人の姿とまったく違ってしまっているでしょう。
けれど、あの肖像の容貌こそが聖徳太子だと信じて疑わなかった私にとって、死後百年後に描かれ、似ていない可能性が高いというのは、なんとなく気落ちしてしまうものです」
文/河合 敦 構成/日刊SPA!編集部
【河合 敦】
歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965 年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』『日本史の裏側』『殿様は「明治」をどう生きたのか』シリーズ(小社刊)、『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』(青春新書)、『絵と写真でわかる へぇ~ ! びっくり! 日本史探検』(祥伝社黄金文庫)など著書多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017 年に上梓。