日本史を勉強していた人なら「士農工商」という言葉は誰でも知っているはず。江戸時代の身分制度として習ったと思う。しかし、その制度がなかったとしたら!?
高校教師歴27年、テレビなどにも多数出演している歴史研究家で多摩大学客員教授などを務める河合敦先生によると、歴史研究が進んだことにより、今の歴史教科書と30年くらい前の歴史教科書では、記述が変わっているところがたくさんあるのだとか。
そこで、教科書を切り口にした歴史の新説や、教科書では紹介されない不都合な日本史などを河合先生から教えてもらった。
(この記事は、『逆転した日本史~聖徳太子、坂本龍馬、鎖国が教科書から消える~』より一部を抜粋し、再編集しています)
◆「士農工商」は、よくできたウソだった
小学校のとき、学校の先生から「江戸時代には士農工商という四つの身分があって、それぞれ厳しい上下関係になっている」と教わった人がたくさんいると思う。さらに次のように士農工商を詳しく解説されたものだ。
「一番上の士は武士(侍)のことで、農工商を支配するんだ。農は農民(百姓)、工は職人、商は商人だよ。
どうして農民が二番目に地位が高いかというとね、幕府や大名などの支配者が、お前たちは武士の次に偉いんだ、だからきちんと年貢を払うんだと、重税を課せられる彼らにプライドを持たせるためだったんだ。商人を一番下にしたのも、彼らは金持ちで贅沢しているけど、身分は一番下なんだよと農民たちを納得させるためだったんだ」
しかし河合先生によると、この話、よくできたウソなのだという。
◆「士農工商」の概念はどこから浮上したのだろうか
じつは江戸時代、士農工商なんていう身分制度は存在しなかったのである。ならば誰がこのつくり話を思いついたのだろうか?
「確かに昔の教科書には、確かに士農工商という身分制度は明記されていました。
私が高校生だった41年前の教科書には、『幕藩体制を維持し強固にするためには、社会秩序を固定しておく必要があった。そのために士農工商の身分の別をたて、支配者としての武士の地位を高め、農工商とのあいだには厳格な差をつけた』(『詳説日本史』山川出版社 1983年)とあります。
また、1997年の山川出版社の教科書(『詳説日本史』)でも、『近世社会は身分の秩序を基礎に成り立っていた。武士は政治と軍事を独占し、(略)さまざまの特権を持つ支配身分で、(略)被支配身分としては、農業を中心に林業・漁業に従事する百姓、手工業者である諸職人、商業をいとなむ商人を中心とした都市の家持町人の三つがおもなものとされた。こうした身分制度を士農工商とよんでいる』と記されています」(以下、すべて河合氏)
◆2000年代に入ると、教科書の「士農工商があった」という表記に変化が……
しかし2002年になると、教科書の記述の最後が「こうした身分制度を士農工商とよぶこともある」(『詳説日本史B』)となっていいて、「よんでいる」(1997年)から「よぶこともある」(2002年)へと、5年後に断言するのをやめている。
「別の教科書(『日本史B』実教出版 2018年)では『武士・百姓・職人・商人は士農工商(四民)といわれ、江戸時代では社会を構成する中心的な身分と考えられていました。
士は苗字・帯刀や切捨御免などの特権をもち、農工商に優越する身分であったが、農工商の順は必ずしも身分序列ではなかった。しかし、儒者などによってしだいに身分序列とみなす傾向が強まっていった』とあります。
さらに注書きに『農工商の各身分は、厳密に固定されていたわけではなく、百姓が都市に出て商人になるように、相互間の身分変更は、ある程度可能であった。また、百姓や商人が武士にとりたてられた例や、御家人株の購入により商人が御家人の養子となった例のように、被支配者身分の者が武士になることも、少数ながらあった』と補足されています」
そして、東京書籍の教科書(『新選日本史B』2018年)では「江戸時代の社会では、武士と百姓、町人(商人と職人)が、それぞれの職能によって区分された身分を形づくった」とあるだけで、「士農工商」という言葉自体が教科書から消えてしまっている。
◆そもそも「士農工商」という概念は古代中国のものだった
「じつは士農工商という概念は古代中国のもので、四つの身分というより“あらゆる人々”を意味しています。それを江戸時代に儒学者が、強引に日本の社会にあてはめ、それが誤った形で明治以降に伝わっていったのです。
正確には、江戸時代の身分には、支配者の武士と被支配者の百姓・町人という二つがあるだけで、百姓と町人については、村に住むのが百姓、町(主に城下町)に住むのが町人(職人と商人)というように居住区や職業別にすぎないのです」
しかも驚くべきことに、身分間での移動もできたのだとか。
「たとえば勝海舟の曽祖父は越後の農民だったが、お金持ちになって武士の権利を買っています。作家の曲亭(滝沢)馬琴も、金で孫のために武士の株を購入しましたし、正確な地図をつくった伊能忠敬や新選組の近藤勇は、その功績で幕臣(武士)に取り立てられています。
いっぽう三菱をつくった岩崎弥太郎の家は武士でしたが、その権利を売って農村で農民身分(土佐では地下(じげ)浪人と呼んだ)になっていました。しかし、弥太郎はのちに武士の権利を買い戻しています。
江戸や京都の大店(豪商)は、先祖の地に住む農民の子を多く店員として雇用し、その中から立派な商人になるものも少なくありませんでした」
身分間の移動ができたことも驚きだが、私たちがこれまで当然だと思っていた「士農工商」という概念が間違っていたことが一番の衝撃かもしれない!
文/河合 敦 構成/日刊SPA!編集部
【河合 敦】
歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965 年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』『日本史の裏側』『殿様は「明治」をどう生きたのか』シリーズ(小社刊)、『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』(青春新書)、『絵と写真でわかる へぇ~ ! びっくり! 日本史探検』(祥伝社黄金文庫)など著書多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017 年に上梓。
高校教師歴27年、テレビなどにも多数出演している歴史研究家で多摩大学客員教授などを務める河合敦先生によると、歴史研究が進んだことにより、今の歴史教科書と30年くらい前の歴史教科書では、記述が変わっているところがたくさんあるのだとか。
そこで、教科書を切り口にした歴史の新説や、教科書では紹介されない不都合な日本史などを河合先生から教えてもらった。
(この記事は、『逆転した日本史~聖徳太子、坂本龍馬、鎖国が教科書から消える~』より一部を抜粋し、再編集しています)
◆「士農工商」は、よくできたウソだった
小学校のとき、学校の先生から「江戸時代には士農工商という四つの身分があって、それぞれ厳しい上下関係になっている」と教わった人がたくさんいると思う。さらに次のように士農工商を詳しく解説されたものだ。
「一番上の士は武士(侍)のことで、農工商を支配するんだ。農は農民(百姓)、工は職人、商は商人だよ。
どうして農民が二番目に地位が高いかというとね、幕府や大名などの支配者が、お前たちは武士の次に偉いんだ、だからきちんと年貢を払うんだと、重税を課せられる彼らにプライドを持たせるためだったんだ。商人を一番下にしたのも、彼らは金持ちで贅沢しているけど、身分は一番下なんだよと農民たちを納得させるためだったんだ」
しかし河合先生によると、この話、よくできたウソなのだという。
◆「士農工商」の概念はどこから浮上したのだろうか
じつは江戸時代、士農工商なんていう身分制度は存在しなかったのである。ならば誰がこのつくり話を思いついたのだろうか?
「確かに昔の教科書には、確かに士農工商という身分制度は明記されていました。
私が高校生だった41年前の教科書には、『幕藩体制を維持し強固にするためには、社会秩序を固定しておく必要があった。そのために士農工商の身分の別をたて、支配者としての武士の地位を高め、農工商とのあいだには厳格な差をつけた』(『詳説日本史』山川出版社 1983年)とあります。
また、1997年の山川出版社の教科書(『詳説日本史』)でも、『近世社会は身分の秩序を基礎に成り立っていた。武士は政治と軍事を独占し、(略)さまざまの特権を持つ支配身分で、(略)被支配身分としては、農業を中心に林業・漁業に従事する百姓、手工業者である諸職人、商業をいとなむ商人を中心とした都市の家持町人の三つがおもなものとされた。こうした身分制度を士農工商とよんでいる』と記されています」(以下、すべて河合氏)
◆2000年代に入ると、教科書の「士農工商があった」という表記に変化が……
しかし2002年になると、教科書の記述の最後が「こうした身分制度を士農工商とよぶこともある」(『詳説日本史B』)となっていいて、「よんでいる」(1997年)から「よぶこともある」(2002年)へと、5年後に断言するのをやめている。
「別の教科書(『日本史B』実教出版 2018年)では『武士・百姓・職人・商人は士農工商(四民)といわれ、江戸時代では社会を構成する中心的な身分と考えられていました。
士は苗字・帯刀や切捨御免などの特権をもち、農工商に優越する身分であったが、農工商の順は必ずしも身分序列ではなかった。しかし、儒者などによってしだいに身分序列とみなす傾向が強まっていった』とあります。
さらに注書きに『農工商の各身分は、厳密に固定されていたわけではなく、百姓が都市に出て商人になるように、相互間の身分変更は、ある程度可能であった。また、百姓や商人が武士にとりたてられた例や、御家人株の購入により商人が御家人の養子となった例のように、被支配者身分の者が武士になることも、少数ながらあった』と補足されています」
そして、東京書籍の教科書(『新選日本史B』2018年)では「江戸時代の社会では、武士と百姓、町人(商人と職人)が、それぞれの職能によって区分された身分を形づくった」とあるだけで、「士農工商」という言葉自体が教科書から消えてしまっている。
◆そもそも「士農工商」という概念は古代中国のものだった
「じつは士農工商という概念は古代中国のもので、四つの身分というより“あらゆる人々”を意味しています。それを江戸時代に儒学者が、強引に日本の社会にあてはめ、それが誤った形で明治以降に伝わっていったのです。
正確には、江戸時代の身分には、支配者の武士と被支配者の百姓・町人という二つがあるだけで、百姓と町人については、村に住むのが百姓、町(主に城下町)に住むのが町人(職人と商人)というように居住区や職業別にすぎないのです」
しかも驚くべきことに、身分間での移動もできたのだとか。
「たとえば勝海舟の曽祖父は越後の農民だったが、お金持ちになって武士の権利を買っています。作家の曲亭(滝沢)馬琴も、金で孫のために武士の株を購入しましたし、正確な地図をつくった伊能忠敬や新選組の近藤勇は、その功績で幕臣(武士)に取り立てられています。
いっぽう三菱をつくった岩崎弥太郎の家は武士でしたが、その権利を売って農村で農民身分(土佐では地下(じげ)浪人と呼んだ)になっていました。しかし、弥太郎はのちに武士の権利を買い戻しています。
江戸や京都の大店(豪商)は、先祖の地に住む農民の子を多く店員として雇用し、その中から立派な商人になるものも少なくありませんでした」
身分間の移動ができたことも驚きだが、私たちがこれまで当然だと思っていた「士農工商」という概念が間違っていたことが一番の衝撃かもしれない!
文/河合 敦 構成/日刊SPA!編集部
【河合 敦】
歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965 年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』『日本史の裏側』『殿様は「明治」をどう生きたのか』シリーズ(小社刊)、『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』(青春新書)、『絵と写真でわかる へぇ~ ! びっくり! 日本史探検』(祥伝社黄金文庫)など著書多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017 年に上梓。