介護保険制度は、高齢者の介護を社会全体で支え合うことを目的に、2000年4月にスタートした。介護サービスは、「居宅サービス」「施設サービス」「地域密着型サービス」の3つに大別される。
介護保険制度がスタートする前に、東京都の某区の区役所職員として、居宅サービスを担っていた、藤原るかさん(69歳)に話を聞いた。現在は、東京都三鷹市にあるNPO法人グレースケア機構の登録ヘルパーとして働いている。るかさんは、2023年7月に、坂本孝輔氏と共著で『認知症の人の「かたくなな気持ち」が驚くほどすーっと穏やかになる接し方』を上辞し、台湾語訳も出版されるほど好評だ。また、ヘルパーの処遇改善を国に求める「ホームヘルパー国家賠償請求訴訟」の原告の1人だ。
◆ターザンのような自然児
るかさんは、1955年に産まれ、神奈川県横浜市で育つ。シングルマザーの長女に産まれ、1歳下の妹と3歳下の弟がいた。
「母は働きに行かないとならなかったので、5歳の私を頼っていました。母のために色々なことをしなきゃならなかったのでませた子でした」
母は、るかさんに早期教育をし、字の読み書きも人より早くできたという。
「今でも身長は小さいですが、昔はもっとチビでした。小さな子が鋭い指摘をするなど、周りの大人からは面白がられていました。だけど、幼稚園や保育園では子ども扱いされる。それが嫌でした。みんなと同じことなんかやっていられるか!と思っていました」
型にはまらなかった、るかさんは、幼稚園・保育園でも先生たちの手に余る存在で、退園させられている。
「当時の横浜市は山の中のような場所でした。自分を受け入れてくれる場所がないと、山にこもって、タケノコを採ったり、山小屋を作ったりするようなターザンのような自然児でした」
◆大学は2部に通い初めて知った差別
中・高校時代は一転、母の管理は緩くなり、遊ぶ範囲が広がった。大学は立正大学文学部史学科の2部に通う。昼間は印刷会社に勤務するが、その時に初めて学歴差別を知る。
「本が好きだったので、編集者になろうと思っていました。だけど、編集職は大卒の人だけが就けて、私が配置されたのは、総務・人事部でした」
そんなるかさんは、元々、おてんば娘だったことを活かして体育の教師を目指していた。だが、それはかなわず、ボランティアで水泳のコーチをしていた。34歳の時に人からの紹介で、ヘルパーの仕事を知る。それが、福祉の世界との出会いだった。
◆高倍率をくぐり抜けて地方公務員としてホームヘルパーに
そんな34歳のとき東京の某区で、地方公務員としてホームヘルパーを募集していることを知る。
「介護保険制度がスタートするまでは、ホームヘルパーは公務員でした。某区で、体力測定・面接・小論文の試験を受けると地方公務員になれました」
反骨精神の強いるかさんは「公務員なんて」とバカにしていたが、24倍の倍率をくぐり抜けて、地方公務員として採用される。その後、2年は「退職不補充」で採用が見送られたため、特別支援学校で介助員として働きながら、区からの連絡を待った。
36歳の時に採用の知らせを受け取ったるかさんは、某区の「福祉部障害者福祉課家庭奉仕委員係」の配属となる。主に障害者のケアをホームヘルパーとして行っていたが、徐々に、高齢者のサービスと統合されていった。
◆新人ヘルパーとして先輩から受けた洗礼
「採用された頃は、ホームヘルパーは、生活保護世帯にしか行けませんでした。利用料はタダです。その後、制度が変わり、生活保護世帯以外にも訪問できるようになりました。当時のホームヘルパーは、1人親家庭・障害者家庭・高齢者家庭のどの家庭にも入っていました」
そのため、サービスの対象は0歳~80歳位までと幅広かったという。トータルで8年間勤務するが、その間で孤独死された5人を発見することになる。
「そういった孤独死に遭遇したのは、全員、公務員時代のことです」
褥瘡(床ずれ)は骨まで見えるほどひどい人が多く、新人教育では、先輩たちから度胸試しをされた。
「外した入れ歯を素手で受け取ったり、普段は自転車移動するところをを徒歩で歩かされたりと、度胸や体力がなければできないので、適性検査のようなものだったんでしょうね」
◆お風呂に入れることすらできなかった当時の介護サービス
「今では利用者さんに主治医がいるのが当たり前ですが、当時は、高齢者に多い、高血圧・心臓病・糖尿病などの疾患があることも分かりません。通院すらしていない人が多かったです。血圧を測るにも、水銀式血圧計しかない時代だったので、医療従事者でなければ使えませんでした。利用者さんがどんな病気を持っているかも分からない状態でのケアでした」
そんな中で、入浴してもらうことは命にも関わってくる。自宅でお風呂に入れることができなかった。
「だけど、私は利用者さんからのリクエストである、入浴に応えたかった。職場で意見をすると『10年早い!』と言われました。先輩たちには『誰が責任を取るの!』と言われましたが、国の基準として、刑務所の入浴基準を見つけ出したんです。
刑務所の受刑者の入浴時間は、週2回・15分でした。『先輩、刑務所の受刑者の基準はこれなんですよ!』と憲法25条の“健康で文化的な最低限度の生活を営む権利”を持ち出し、説得しました」
るかさんは、生活保護・高齢者・障害者のケースワーカーに相談し、保健所の保健師やドクターと議論する場を設け、入浴介助のサービスをする権利を勝ち取った。
◆公務員ヘルパー時代のサービス時間は180分(3時間)
「介護保険サービスが始まる前は、今のように連日、利用者を訪問することはできませんでした。当時は週2回・1回3時間が平均的でした。だから、『訪問している時間以外に不便がないように、何をするかはその利用者と一緒に考えなさい』と先輩から言われました」
例えば、訪問していないときにもきちんと食事ができるように、カレーや豚汁など、日持ちをするメニューを作り置きしておくなどの工夫をしたという。
「昔より今のほうが訪問の頻度があるので、生活リズムはできやすいかもしれません」
また、障害者・高齢者向けサービスの間の垣根がなかったことや公務員であることで、介護拒否する高齢者の家庭にも入ることができた。
「今でも、ヘルパーが家に入ることに抵抗がある高齢者だとしても、区の職員ならば訪問を歓迎してくれる人がいます。また、高齢の母と精神障害がある息子の組み合わせなどは一緒に訪問することができました。今では、障害者のケアと高齢者のケアは財源も違えば、法律も違い、同じ事業所やヘルパーが対応することが難しい」
そんな公務員ヘルパー生活にも終わりが訪れた。2000(平成12)年から、現行の介護保険法が施行されることになった。
「介護保険制度がスタートすると、ホームヘルパーサービスは民間の事業所に委託されます。それなので、1995年頃に、今後、どうするかの面談がありました。だけど、私は生活支援の有効性を立証したかったので、現場から離れられず退職しました」
そのまま公務員として定年退職まで勤めれば、退職金は2,000万円近く支給された。だけど、それよりも介護現場で人と接することを、るかさんは選んだ。
◆若い世代に伝えたいこと
最後に若い世代に伝えたいことを聞いた。
「自分の家でも家事もしないのに、高齢者宅の家事を支援できるのか不安に思う人も多いです。私自身も自宅での家事は好きではないです。仕事を通じて、その人1人1人の家事のやり方を教えてもらえる。生活文化を知ることが面白さです。経済力や知識も含むその方の生きてきた道や、現状を伝えてくださるので、丸裸の人として受け入れてもらわないとできない仕事ですが、そこが面白さや緊張感につながります」
2024年度の介護報酬改定では、訪問介護は、サービス時間も単価も下がり改悪された。だけど、施設や病院ではなく、住み慣れた自宅で最期を迎えたい高齢者は多い。高まるニーズと苦しくなる訪問介護事業所の経営。るかさんらが提訴した国家賠償請求訴訟は、その現状を変えるきっかけとなるか。
<取材・文/田口ゆう>
【田口ゆう】
ライター。webサイト「あいである広場」の編集長でもあり、社会的マイノリティ(障がい者、ひきこもり、性的マイノリティ、少数民族など)とその支援者や家族たちの生の声を取材し、お役立ち情報を発信している。著書に『認知症が見る世界 現役ヘルパーが描く介護現場の真実』(原作、吉田美紀子・漫画、バンブーコミックス エッセイセレクション)がある。X(旧ツイッター):@Thepowerofdive1
介護保険制度がスタートする前に、東京都の某区の区役所職員として、居宅サービスを担っていた、藤原るかさん(69歳)に話を聞いた。現在は、東京都三鷹市にあるNPO法人グレースケア機構の登録ヘルパーとして働いている。るかさんは、2023年7月に、坂本孝輔氏と共著で『認知症の人の「かたくなな気持ち」が驚くほどすーっと穏やかになる接し方』を上辞し、台湾語訳も出版されるほど好評だ。また、ヘルパーの処遇改善を国に求める「ホームヘルパー国家賠償請求訴訟」の原告の1人だ。
◆ターザンのような自然児
るかさんは、1955年に産まれ、神奈川県横浜市で育つ。シングルマザーの長女に産まれ、1歳下の妹と3歳下の弟がいた。
「母は働きに行かないとならなかったので、5歳の私を頼っていました。母のために色々なことをしなきゃならなかったのでませた子でした」
母は、るかさんに早期教育をし、字の読み書きも人より早くできたという。
「今でも身長は小さいですが、昔はもっとチビでした。小さな子が鋭い指摘をするなど、周りの大人からは面白がられていました。だけど、幼稚園や保育園では子ども扱いされる。それが嫌でした。みんなと同じことなんかやっていられるか!と思っていました」
型にはまらなかった、るかさんは、幼稚園・保育園でも先生たちの手に余る存在で、退園させられている。
「当時の横浜市は山の中のような場所でした。自分を受け入れてくれる場所がないと、山にこもって、タケノコを採ったり、山小屋を作ったりするようなターザンのような自然児でした」
◆大学は2部に通い初めて知った差別
中・高校時代は一転、母の管理は緩くなり、遊ぶ範囲が広がった。大学は立正大学文学部史学科の2部に通う。昼間は印刷会社に勤務するが、その時に初めて学歴差別を知る。
「本が好きだったので、編集者になろうと思っていました。だけど、編集職は大卒の人だけが就けて、私が配置されたのは、総務・人事部でした」
そんなるかさんは、元々、おてんば娘だったことを活かして体育の教師を目指していた。だが、それはかなわず、ボランティアで水泳のコーチをしていた。34歳の時に人からの紹介で、ヘルパーの仕事を知る。それが、福祉の世界との出会いだった。
◆高倍率をくぐり抜けて地方公務員としてホームヘルパーに
そんな34歳のとき東京の某区で、地方公務員としてホームヘルパーを募集していることを知る。
「介護保険制度がスタートするまでは、ホームヘルパーは公務員でした。某区で、体力測定・面接・小論文の試験を受けると地方公務員になれました」
反骨精神の強いるかさんは「公務員なんて」とバカにしていたが、24倍の倍率をくぐり抜けて、地方公務員として採用される。その後、2年は「退職不補充」で採用が見送られたため、特別支援学校で介助員として働きながら、区からの連絡を待った。
36歳の時に採用の知らせを受け取ったるかさんは、某区の「福祉部障害者福祉課家庭奉仕委員係」の配属となる。主に障害者のケアをホームヘルパーとして行っていたが、徐々に、高齢者のサービスと統合されていった。
◆新人ヘルパーとして先輩から受けた洗礼
「採用された頃は、ホームヘルパーは、生活保護世帯にしか行けませんでした。利用料はタダです。その後、制度が変わり、生活保護世帯以外にも訪問できるようになりました。当時のホームヘルパーは、1人親家庭・障害者家庭・高齢者家庭のどの家庭にも入っていました」
そのため、サービスの対象は0歳~80歳位までと幅広かったという。トータルで8年間勤務するが、その間で孤独死された5人を発見することになる。
「そういった孤独死に遭遇したのは、全員、公務員時代のことです」
褥瘡(床ずれ)は骨まで見えるほどひどい人が多く、新人教育では、先輩たちから度胸試しをされた。
「外した入れ歯を素手で受け取ったり、普段は自転車移動するところをを徒歩で歩かされたりと、度胸や体力がなければできないので、適性検査のようなものだったんでしょうね」
◆お風呂に入れることすらできなかった当時の介護サービス
「今では利用者さんに主治医がいるのが当たり前ですが、当時は、高齢者に多い、高血圧・心臓病・糖尿病などの疾患があることも分かりません。通院すらしていない人が多かったです。血圧を測るにも、水銀式血圧計しかない時代だったので、医療従事者でなければ使えませんでした。利用者さんがどんな病気を持っているかも分からない状態でのケアでした」
そんな中で、入浴してもらうことは命にも関わってくる。自宅でお風呂に入れることができなかった。
「だけど、私は利用者さんからのリクエストである、入浴に応えたかった。職場で意見をすると『10年早い!』と言われました。先輩たちには『誰が責任を取るの!』と言われましたが、国の基準として、刑務所の入浴基準を見つけ出したんです。
刑務所の受刑者の入浴時間は、週2回・15分でした。『先輩、刑務所の受刑者の基準はこれなんですよ!』と憲法25条の“健康で文化的な最低限度の生活を営む権利”を持ち出し、説得しました」
るかさんは、生活保護・高齢者・障害者のケースワーカーに相談し、保健所の保健師やドクターと議論する場を設け、入浴介助のサービスをする権利を勝ち取った。
◆公務員ヘルパー時代のサービス時間は180分(3時間)
「介護保険サービスが始まる前は、今のように連日、利用者を訪問することはできませんでした。当時は週2回・1回3時間が平均的でした。だから、『訪問している時間以外に不便がないように、何をするかはその利用者と一緒に考えなさい』と先輩から言われました」
例えば、訪問していないときにもきちんと食事ができるように、カレーや豚汁など、日持ちをするメニューを作り置きしておくなどの工夫をしたという。
「昔より今のほうが訪問の頻度があるので、生活リズムはできやすいかもしれません」
また、障害者・高齢者向けサービスの間の垣根がなかったことや公務員であることで、介護拒否する高齢者の家庭にも入ることができた。
「今でも、ヘルパーが家に入ることに抵抗がある高齢者だとしても、区の職員ならば訪問を歓迎してくれる人がいます。また、高齢の母と精神障害がある息子の組み合わせなどは一緒に訪問することができました。今では、障害者のケアと高齢者のケアは財源も違えば、法律も違い、同じ事業所やヘルパーが対応することが難しい」
そんな公務員ヘルパー生活にも終わりが訪れた。2000(平成12)年から、現行の介護保険法が施行されることになった。
「介護保険制度がスタートすると、ホームヘルパーサービスは民間の事業所に委託されます。それなので、1995年頃に、今後、どうするかの面談がありました。だけど、私は生活支援の有効性を立証したかったので、現場から離れられず退職しました」
そのまま公務員として定年退職まで勤めれば、退職金は2,000万円近く支給された。だけど、それよりも介護現場で人と接することを、るかさんは選んだ。
◆若い世代に伝えたいこと
最後に若い世代に伝えたいことを聞いた。
「自分の家でも家事もしないのに、高齢者宅の家事を支援できるのか不安に思う人も多いです。私自身も自宅での家事は好きではないです。仕事を通じて、その人1人1人の家事のやり方を教えてもらえる。生活文化を知ることが面白さです。経済力や知識も含むその方の生きてきた道や、現状を伝えてくださるので、丸裸の人として受け入れてもらわないとできない仕事ですが、そこが面白さや緊張感につながります」
2024年度の介護報酬改定では、訪問介護は、サービス時間も単価も下がり改悪された。だけど、施設や病院ではなく、住み慣れた自宅で最期を迎えたい高齢者は多い。高まるニーズと苦しくなる訪問介護事業所の経営。るかさんらが提訴した国家賠償請求訴訟は、その現状を変えるきっかけとなるか。
<取材・文/田口ゆう>
【田口ゆう】
ライター。webサイト「あいである広場」の編集長でもあり、社会的マイノリティ(障がい者、ひきこもり、性的マイノリティ、少数民族など)とその支援者や家族たちの生の声を取材し、お役立ち情報を発信している。著書に『認知症が見る世界 現役ヘルパーが描く介護現場の真実』(原作、吉田美紀子・漫画、バンブーコミックス エッセイセレクション)がある。X(旧ツイッター):@Thepowerofdive1