旅行は非日常の体験の場だ。何気ない行為が想定外の出来事を生み、それが後の人生に影響を与えることも少なくはない。岸本純一さん(仮名・38才)も旅行中の偶然に身を任せた結果、忘れられない思い出を作った。
岸本さんは群馬の不動産会社で働く営業マンだ。休日でも内見の依頼などが入る多忙の職場で、入社してから長期の休みを何年もとっていなかったという。
「社員が十人ぐらいしかない小さな会社なんですが、めちゃくちゃ忙しくて。そのせいか新入社員も数ヶ月で辞めてしまうのが続いていて、休むのが難しかったんです。学生の頃から旅行は好きでした。でも、旅行に行ってきます、なんて言える空気感ではなくて」
◆旅行先でヒッチハイクの青年と出会う
入社して5年ほどだったころ、仕事に少し余裕が生まれてきた。8月に有給が使えるか打診したところ、すんなり許可が降りたのだ。この機会を逃すまいと、岸本さんは旅行に行くことに決めた。
目的地は千葉の房総。学生の頃にやっていたサーフィンをやろうと、その日ためにボードも新調した。
「楽しみでしたね。事前に計画をしっかり作って、行きたい飲食店のリストも作ったりして」
レンタカーで群馬から車で房総へ行き、思う存分にサーフィンを楽しんだ。連休最終日に思いつきで銚子市に寄り、それから群馬に戻ろうと車を走らせていた時だった。
「インターの入口付近ですかね、陽に焼けた若い男の子がボードを掲げて立っていたんです。ヒッチハイクだ、ってすぐにわかりました。段ボールに目的地を書いて、ほんとテレビで見るような感じで。そういう子を見たのは初めてですし、僕も旅行でテンションが上がっていたので彼を乗せたんです」
◆古びた食堂で食事をご馳走してあげたが…
ヒッチハイクの青年は20歳の大学生で、智樹(仮名)と名乗った。Tシャツにブルージーンズ、そして小さなナイキのリュックサック。絵に描いたようなバックパッカーだった。夏休みを利用して国内中を旅行しているといい、今は大阪に向かっているとのこと。
「エネルギーに満ち溢れている感じがして羨ましく思えました。ヒッチハイクって男の夢みたいなところあるじゃないですか。でも、人見知りの僕には絶対にできないことなので」
岸本さんは初対面の青年にシンパシーと尊敬の念を覚え、できる限りのことをしてあげたいと思った。腹が減っているかと聞くと、減っています、と首を縦に振る。そこで岸本さんは彼に食事をご馳走してあげることに決めた。
近くにあった古びた食堂に入り、海鮮丼と刺身の盛り合わせを注文した。食堂はエアコンの効きが悪く、店内は生暖かい空気で満ちていた。それでも青年はヒッチハイク中にあった出来事を楽しそうに話し、ダラダラと1時間ほどかけて食事をした。どうやら、どうやらそれがいけなかったようだ。
◆二人そろって腹痛に苦しめられることに
高速道路に入ってしばらくすると、岸本さんは腹部に違和感を覚えた。内臓を掴まれているような鋭い痛みが走る。
助手席の青年を見ると、手で腹を押さえている。足を組み、下唇を噛んでいる。当たった、直感でそう思った。
「刺身が良くなかったのかな」と岸本さんは青年に声をかける。
「そうかもしれないですね」と青年は答えたが、表情は笑顔だ。しばらくは大丈夫そうだ。
「次のパーキングエリアに入るから、それまで頑張ろうぜ」
ラジオを付け、気を紛らわせることにした。エアコンを弱め、できるだけ腹に刺激を与えないよう注意する。
「僕、野球部だったんで根性はあるんですよ。三日間徹夜とかもしたことあるし。だから余裕で我慢できます」
「パーキングまでそんなに遠くないと思う」
「アクセル全開でお願いします」
◆なぜ途中で高速を降りなかったのか
あまり高速道路を利用しない岸本さんは圏央道のトイレ事情に詳しくはなかった。江戸崎パーキングを超えると、次の菖蒲パーキングまで1時間ほどかかることも知らなかった。
そのため、いくら車を走らせてもパーキングの表記が見えてこない。二人の額に冷や汗が走る。岸本さんは下唇を噛み、追い越し車線を走り続けることしかできなかった。
20分ほど車を走らせるが、腹痛は収まるどころかより一層激しくなる。これまで経験したことがない刺すような痛みだ。最初はあった楽しげな会話もなくなり、「頑張ろうぜ」とか「もう少しだと思う」という励ましだけが交わされていた。
高速を途中で降りるという選択肢もあったはずだ。一般道に出てコンビニに寄れば問題はすんなり解決する。どうしてそうしなかったのかと尋ねると、岸本さんから意外な答えが返ってきた。
「意地、ですかね。例えば知らないおじさんと同じタイミングでサウナに入ったとするじゃないですか。そういうときって、先に出た方が負け、みたいになりません? 先に出た人の背中を見ると、勝ったって思っちゃうんですよね」
◆耐え抜いた結果、奇妙な友情が芽生える
先に降りたら負け、という気持ちがあったということか。岸本さんはヒッチハイクで旅をする青年に対して、『我慢できなくなった方が負け』という悪魔のようなルールを設けていた。
「僕も大人なので、彼には何度か聞きましたよ。本当に我慢できなくなったら高速を降りるから言ってほしいって。でも彼も負けず嫌いなのか、頷くけど絶対に降りたいとは言わなかったんですよね」
我慢デスゲームに強制参加させられた青年に同情してしまう。漏らすだけならまだしも、それ以上の代償を負う可能性だってあったはずだ。
我慢に我慢を重ねた結果、二人は1時間近く耐えることに成功した。菖蒲パーキングで車を止め、同時に車から降りた。
「変な話ですけど、トイレで用を足した後に、コーヒーを買って二人で一服していたんですね。その時、すごく達成感があったんですよ。この数年で一番といっていいほどの。あの状態を乗り切れたのって、おそらくこの世界で僕と彼だけだと思うんです」
その一件が二人の絆を生んだようだ。数年経った今でも、岸本さんとヒッチハイクの青年は時々食事をする仲になっているようだ。
<TEXT/山田ぱんつ>
岸本さんは群馬の不動産会社で働く営業マンだ。休日でも内見の依頼などが入る多忙の職場で、入社してから長期の休みを何年もとっていなかったという。
「社員が十人ぐらいしかない小さな会社なんですが、めちゃくちゃ忙しくて。そのせいか新入社員も数ヶ月で辞めてしまうのが続いていて、休むのが難しかったんです。学生の頃から旅行は好きでした。でも、旅行に行ってきます、なんて言える空気感ではなくて」
◆旅行先でヒッチハイクの青年と出会う
入社して5年ほどだったころ、仕事に少し余裕が生まれてきた。8月に有給が使えるか打診したところ、すんなり許可が降りたのだ。この機会を逃すまいと、岸本さんは旅行に行くことに決めた。
目的地は千葉の房総。学生の頃にやっていたサーフィンをやろうと、その日ためにボードも新調した。
「楽しみでしたね。事前に計画をしっかり作って、行きたい飲食店のリストも作ったりして」
レンタカーで群馬から車で房総へ行き、思う存分にサーフィンを楽しんだ。連休最終日に思いつきで銚子市に寄り、それから群馬に戻ろうと車を走らせていた時だった。
「インターの入口付近ですかね、陽に焼けた若い男の子がボードを掲げて立っていたんです。ヒッチハイクだ、ってすぐにわかりました。段ボールに目的地を書いて、ほんとテレビで見るような感じで。そういう子を見たのは初めてですし、僕も旅行でテンションが上がっていたので彼を乗せたんです」
◆古びた食堂で食事をご馳走してあげたが…
ヒッチハイクの青年は20歳の大学生で、智樹(仮名)と名乗った。Tシャツにブルージーンズ、そして小さなナイキのリュックサック。絵に描いたようなバックパッカーだった。夏休みを利用して国内中を旅行しているといい、今は大阪に向かっているとのこと。
「エネルギーに満ち溢れている感じがして羨ましく思えました。ヒッチハイクって男の夢みたいなところあるじゃないですか。でも、人見知りの僕には絶対にできないことなので」
岸本さんは初対面の青年にシンパシーと尊敬の念を覚え、できる限りのことをしてあげたいと思った。腹が減っているかと聞くと、減っています、と首を縦に振る。そこで岸本さんは彼に食事をご馳走してあげることに決めた。
近くにあった古びた食堂に入り、海鮮丼と刺身の盛り合わせを注文した。食堂はエアコンの効きが悪く、店内は生暖かい空気で満ちていた。それでも青年はヒッチハイク中にあった出来事を楽しそうに話し、ダラダラと1時間ほどかけて食事をした。どうやら、どうやらそれがいけなかったようだ。
◆二人そろって腹痛に苦しめられることに
高速道路に入ってしばらくすると、岸本さんは腹部に違和感を覚えた。内臓を掴まれているような鋭い痛みが走る。
助手席の青年を見ると、手で腹を押さえている。足を組み、下唇を噛んでいる。当たった、直感でそう思った。
「刺身が良くなかったのかな」と岸本さんは青年に声をかける。
「そうかもしれないですね」と青年は答えたが、表情は笑顔だ。しばらくは大丈夫そうだ。
「次のパーキングエリアに入るから、それまで頑張ろうぜ」
ラジオを付け、気を紛らわせることにした。エアコンを弱め、できるだけ腹に刺激を与えないよう注意する。
「僕、野球部だったんで根性はあるんですよ。三日間徹夜とかもしたことあるし。だから余裕で我慢できます」
「パーキングまでそんなに遠くないと思う」
「アクセル全開でお願いします」
◆なぜ途中で高速を降りなかったのか
あまり高速道路を利用しない岸本さんは圏央道のトイレ事情に詳しくはなかった。江戸崎パーキングを超えると、次の菖蒲パーキングまで1時間ほどかかることも知らなかった。
そのため、いくら車を走らせてもパーキングの表記が見えてこない。二人の額に冷や汗が走る。岸本さんは下唇を噛み、追い越し車線を走り続けることしかできなかった。
20分ほど車を走らせるが、腹痛は収まるどころかより一層激しくなる。これまで経験したことがない刺すような痛みだ。最初はあった楽しげな会話もなくなり、「頑張ろうぜ」とか「もう少しだと思う」という励ましだけが交わされていた。
高速を途中で降りるという選択肢もあったはずだ。一般道に出てコンビニに寄れば問題はすんなり解決する。どうしてそうしなかったのかと尋ねると、岸本さんから意外な答えが返ってきた。
「意地、ですかね。例えば知らないおじさんと同じタイミングでサウナに入ったとするじゃないですか。そういうときって、先に出た方が負け、みたいになりません? 先に出た人の背中を見ると、勝ったって思っちゃうんですよね」
◆耐え抜いた結果、奇妙な友情が芽生える
先に降りたら負け、という気持ちがあったということか。岸本さんはヒッチハイクで旅をする青年に対して、『我慢できなくなった方が負け』という悪魔のようなルールを設けていた。
「僕も大人なので、彼には何度か聞きましたよ。本当に我慢できなくなったら高速を降りるから言ってほしいって。でも彼も負けず嫌いなのか、頷くけど絶対に降りたいとは言わなかったんですよね」
我慢デスゲームに強制参加させられた青年に同情してしまう。漏らすだけならまだしも、それ以上の代償を負う可能性だってあったはずだ。
我慢に我慢を重ねた結果、二人は1時間近く耐えることに成功した。菖蒲パーキングで車を止め、同時に車から降りた。
「変な話ですけど、トイレで用を足した後に、コーヒーを買って二人で一服していたんですね。その時、すごく達成感があったんですよ。この数年で一番といっていいほどの。あの状態を乗り切れたのって、おそらくこの世界で僕と彼だけだと思うんです」
その一件が二人の絆を生んだようだ。数年経った今でも、岸本さんとヒッチハイクの青年は時々食事をする仲になっているようだ。
<TEXT/山田ぱんつ>