中小企業コンサルタントの不破聡と申します。大企業から中小企業まで幅広く経営支援を行った経験を活かし、「有名企業の知られざる一面」を掘り下げてお伝えしていきます。
千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館の行方に注目が集まっています。20世紀の貴重な美術品を収蔵していますが、株主からの圧力にさらされて運営効率を高めることが求められているのです。
規模を縮小して東京に移転する計画も立ちあがりました。美術界からは移転に反対する署名活動も行われています。前澤友作氏が収蔵品の作品購入に意欲を見せるなど、多方面に影響を与えています。
◆社会貢献か? 株主の利益の最大化か? 企業に突き付けられる難問
一連の騒動は、企業(特に上場企業)の在り方を問うものとして、非常に興味深い内容です。
欧米を中心に、企業が資金を拠出して文化・芸術活動を支えるメセナが重視されてきました。豊かな社会の創造に企業が寄与するべきだという考え方が根底にあり、活動の見返りを求めることよりも、社会貢献の一環として捉えられることがほとんど。
日本でもバブル期にメセナが活発化しました。1987年に安田火災海上保険(現・SOMPOホールディングス)がゴッホの「ひまわり」を58億円で落札したのは有名。新宿駅から徒歩5分で、世界的に有名な絵画を誰でも気軽に鑑賞できることは、メセナの恩恵だといえるでしょう。
一方、東京証券取引所は現在、各上場企業に対して資本コストや株価を意識した経営を実現するよう求めています。PBR1倍割れの会社に対しては、厳しく改善を求めているのです。
PBRとは株価純資産倍率のこと。株価を1株当たりの純資産で除して求めるもので、1倍を下回るということは、解散価値の方が高いと判断されてしまうのです。
つまり、企業は見返りを求めずに社会貢献をするべきか、株主価値を最大化するべきか、という相反する命題のはざまで揺れているのです。そしてDIC川村記念美術館はその踏み絵となりました。
◆売却で得られる利益は計り知れない
DIC川村記念美術館は印刷インキ大手のDICが運営しています。美術館は総合研究所施設内に設立されました。収蔵品は簿価ベースで総額112億円。これはあくまで簿価で、実際はもっと高くなるだろうという見方がほとんど。美術館にはマーク・ロスコという画家の専用展示室が設けられており、複数の絵画があります。
2015年のクリスティーズのオークションで、マーク・ロスコの絵画一点が8190万ドル(当時のレートで97億6000万円)で落札されました。
たとえ収蔵作品の一部の売却であっても、得られる利益は計り知れません。
そこに目をつけたのか、香港を拠点とするアクティビストであるオアシス・マネジメントがDICの株式6.9%を取得しました。DICは2023年12月期にカラー&ディスプレイ事業が1割近い減収となり、事業単体で89億円の営業赤字を計上しました。アメリカやヨーロッパで進行したインフレの影響で、塗料用顔料などの出荷が停滞。2021年6月に買収したC&E顔料事業ののれんの減損損失197億円を計上するなど、不調が鮮明になりました。この期に398億円の純損失を出しています。
◆103億円の売却益でリストラに必要な費用を賄った?
DICのPBRは0.7倍。過去3年を振り返ってもPBRが1倍を上回ったことはありません。
通常、美術館は財団法人によって運営され、会社の経営からは切り離されます。しかし、DICはバランスシート上に保有する美術品を資産として計上しています。
DIC川村記念美術館は、2013年にアメリカの画家バーネット・ニューマンの「アンナの光」という作品を売却。DICは2013年12月期に103億3500万円の「美術品売却益」を計上しました。
当時、DICはヨーロッパの出版向けインキ減産に悩まされており、大規模なリストラを実施していました。2013年12月期は固定資産処分損とリストラ関連退職損失で合計55億円の損失を出しています。この期は前期と同じ191億円の純利益を出していますが、絵画を売却しなければ、大幅な減益に見舞われていたことは間違いありません。
すなわち、美術品を会社が所有することによって、業績悪化の埋め合わせが行える都合のいい存在となっていたことは否めないのです。それが美術館の運営を切り放さなかった理由の一つなのではないでしょうか。
◆積み立てた年金の資金が入っているに等しいDIC株
美術界からは、DIC川村記念美術館の縮小や移転は、日本という国レベルの損失だという声も聞こえてきます。確かに、日本でマーク・ロスコやジャクソン・ポロック、フランク・ステラなどの抽象画を常設で鑑賞できる場所は限られます。収蔵品の希少性は極めて高く、専用の展示ルームを設けるなど美術館そのものの(帳簿にのりきらない)資産価値も高いといえるでしょう。
しかし、DICは日経平均株価を構成する225銘柄の一つ。そして筆頭株主は日本マスタートラスト信託です。日本マスタートラスト信託は、資産管理業務に特化した金融機関。年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)からの資金を預かっています。つまり、日本国民の年金の一部がDICの株式によって運用されているのです。
仮に美術館の問題が表沙汰にならず、DICが引き続き美術館の運営を続けていれば、株価は中長期的に停滞する可能性がありました。それはつまり、積み立てNISAなどで購入する日経平均連動型の投資信託の投資成果や、将来的に受け取れる年金を圧迫する要因にもなっていたはず。美術品の売却や運営の効率化はアクティビストを利するだけというイメージを持つ人も多いですが、積み立てた年金などとして国民全体を潤すのも事実です。
DIC対アクティビストというものではなく、もっと根深い企業の在り方を問われているのです。
<TEXT/不破聡>
【不破聡】
フリーライター。大企業から中小企業まで幅広く経営支援を行った経験を活かし、経済や金融に関連する記事を執筆中。得意領域は外食、ホテル、映画・ゲームなどエンターテインメント業界
千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館の行方に注目が集まっています。20世紀の貴重な美術品を収蔵していますが、株主からの圧力にさらされて運営効率を高めることが求められているのです。
規模を縮小して東京に移転する計画も立ちあがりました。美術界からは移転に反対する署名活動も行われています。前澤友作氏が収蔵品の作品購入に意欲を見せるなど、多方面に影響を与えています。
◆社会貢献か? 株主の利益の最大化か? 企業に突き付けられる難問
一連の騒動は、企業(特に上場企業)の在り方を問うものとして、非常に興味深い内容です。
欧米を中心に、企業が資金を拠出して文化・芸術活動を支えるメセナが重視されてきました。豊かな社会の創造に企業が寄与するべきだという考え方が根底にあり、活動の見返りを求めることよりも、社会貢献の一環として捉えられることがほとんど。
日本でもバブル期にメセナが活発化しました。1987年に安田火災海上保険(現・SOMPOホールディングス)がゴッホの「ひまわり」を58億円で落札したのは有名。新宿駅から徒歩5分で、世界的に有名な絵画を誰でも気軽に鑑賞できることは、メセナの恩恵だといえるでしょう。
一方、東京証券取引所は現在、各上場企業に対して資本コストや株価を意識した経営を実現するよう求めています。PBR1倍割れの会社に対しては、厳しく改善を求めているのです。
PBRとは株価純資産倍率のこと。株価を1株当たりの純資産で除して求めるもので、1倍を下回るということは、解散価値の方が高いと判断されてしまうのです。
つまり、企業は見返りを求めずに社会貢献をするべきか、株主価値を最大化するべきか、という相反する命題のはざまで揺れているのです。そしてDIC川村記念美術館はその踏み絵となりました。
◆売却で得られる利益は計り知れない
DIC川村記念美術館は印刷インキ大手のDICが運営しています。美術館は総合研究所施設内に設立されました。収蔵品は簿価ベースで総額112億円。これはあくまで簿価で、実際はもっと高くなるだろうという見方がほとんど。美術館にはマーク・ロスコという画家の専用展示室が設けられており、複数の絵画があります。
2015年のクリスティーズのオークションで、マーク・ロスコの絵画一点が8190万ドル(当時のレートで97億6000万円)で落札されました。
たとえ収蔵作品の一部の売却であっても、得られる利益は計り知れません。
そこに目をつけたのか、香港を拠点とするアクティビストであるオアシス・マネジメントがDICの株式6.9%を取得しました。DICは2023年12月期にカラー&ディスプレイ事業が1割近い減収となり、事業単体で89億円の営業赤字を計上しました。アメリカやヨーロッパで進行したインフレの影響で、塗料用顔料などの出荷が停滞。2021年6月に買収したC&E顔料事業ののれんの減損損失197億円を計上するなど、不調が鮮明になりました。この期に398億円の純損失を出しています。
◆103億円の売却益でリストラに必要な費用を賄った?
DICのPBRは0.7倍。過去3年を振り返ってもPBRが1倍を上回ったことはありません。
通常、美術館は財団法人によって運営され、会社の経営からは切り離されます。しかし、DICはバランスシート上に保有する美術品を資産として計上しています。
DIC川村記念美術館は、2013年にアメリカの画家バーネット・ニューマンの「アンナの光」という作品を売却。DICは2013年12月期に103億3500万円の「美術品売却益」を計上しました。
当時、DICはヨーロッパの出版向けインキ減産に悩まされており、大規模なリストラを実施していました。2013年12月期は固定資産処分損とリストラ関連退職損失で合計55億円の損失を出しています。この期は前期と同じ191億円の純利益を出していますが、絵画を売却しなければ、大幅な減益に見舞われていたことは間違いありません。
すなわち、美術品を会社が所有することによって、業績悪化の埋め合わせが行える都合のいい存在となっていたことは否めないのです。それが美術館の運営を切り放さなかった理由の一つなのではないでしょうか。
◆積み立てた年金の資金が入っているに等しいDIC株
美術界からは、DIC川村記念美術館の縮小や移転は、日本という国レベルの損失だという声も聞こえてきます。確かに、日本でマーク・ロスコやジャクソン・ポロック、フランク・ステラなどの抽象画を常設で鑑賞できる場所は限られます。収蔵品の希少性は極めて高く、専用の展示ルームを設けるなど美術館そのものの(帳簿にのりきらない)資産価値も高いといえるでしょう。
しかし、DICは日経平均株価を構成する225銘柄の一つ。そして筆頭株主は日本マスタートラスト信託です。日本マスタートラスト信託は、資産管理業務に特化した金融機関。年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)からの資金を預かっています。つまり、日本国民の年金の一部がDICの株式によって運用されているのです。
仮に美術館の問題が表沙汰にならず、DICが引き続き美術館の運営を続けていれば、株価は中長期的に停滞する可能性がありました。それはつまり、積み立てNISAなどで購入する日経平均連動型の投資信託の投資成果や、将来的に受け取れる年金を圧迫する要因にもなっていたはず。美術品の売却や運営の効率化はアクティビストを利するだけというイメージを持つ人も多いですが、積み立てた年金などとして国民全体を潤すのも事実です。
DIC対アクティビストというものではなく、もっと根深い企業の在り方を問われているのです。
<TEXT/不破聡>
【不破聡】
フリーライター。大企業から中小企業まで幅広く経営支援を行った経験を活かし、経済や金融に関連する記事を執筆中。得意領域は外食、ホテル、映画・ゲームなどエンターテインメント業界