過去にはNHK『バリバラ』などに出演し、舞台などを中心に活躍する女優がいる。“3本足の女優”を自称する、愛澤咲月さんだ。3本目の足は、松葉杖。生まれ持って脳性麻痺があり、14歳頃から松葉杖を使用するようになったという。現在、日常生活では、車椅子での移動をメインとしつつ、松葉杖も手放さない。
愛澤さんはなぜ演技の世界にのめり込み、観る人に何を伝えたいのか。壮絶ともいえる半生のなか、それでも笑顔でいられる彼女の活力の源泉に迫る。
◆歩き方を真似された小学校時代
愛澤さんは京都府で生まれ育った。真っ直ぐな瞳の印象が強い女性だ。切ないエピソードも、平然と笑顔で話す。たとえばこれは小学生時代の話だ。
「小学生のころは松葉杖も使っておらず、脚に装具をしていただけでした。たぶん、私の歩き方がおかしかったんでしょうね。すれ違いざまに、私の歩き方を真似して、大きく揺れながら歩く子とかがいて。私は『そこまでへんな歩き方じゃないわ!』とか言ってましたけど(笑)。でもあのくらいから、道行く人の目を気にして、すれ違いざまに真似されているかどうか確認するくせはついたように思います」
◆「被害者になっている現実」を受け入れられなかった
脳性麻痺を患う愛澤さんが脚に装具をつけたのは、4〜5歳のとき。健常者よりも歩き方がぎこちないことは自覚しつつも、持ち前の気丈さで友達のからかいを受け流していた。だが子ども同士の残酷な世界において、異質なことは排除の対象になる。徐々に孤立を深めた。
「脚の疼痛がひどくなってしまい、10歳のころに手術をすることになりました。でも、期待していたほど改善しなかったんです。結果として、この頃から松葉杖を使用するようになりました。
もうその頃には、いじめがエスカレートしていたんでしょうね。クラスメイトがわざと手すりを塞ぐように立っていて『手すりなしで降りてみぃや。階段の練習や』と言われました。私は、手すりがないと階段を降りることができません。他にも筆箱でぶたれたり、黒板の前に立たされてスカートを降ろされたこともありましたね。松葉杖を隠されたこともあります。
私は、ヘラヘラしながら『やめてぇ』というだけで精一杯でした。きっと、いじめの被害者になっている現実を受け入れられなかったんですね。ただみんなと遊んでいるだけだと思いたかったのでしょう」
◆一緒に移動してくれる人が誰もいない
いじめではなく、一緒に遊んでいるだけ。そう思い込もうとしても、ふとしたときに現実を直視する。
「中学校の専科の授業は、教室移動があるじゃないですか。そのとき、私と一緒に移動してくれる人が誰もいないんですよ。一人で松葉杖をついて、時間をかけて移動するしかない。結局、戯れていたのではなくて、いじめられていたんだなって認めるしかないですよね」
その辛さに向き合う日々に疲れ果て、愛澤さんは不登校になった。
「最初は元気に『いってきまーす』って家を出るんですが、ある地点までくると身体が進まないんですよね。教室移動の授業がある日、『もう休もう』と決めました。家族は、特に『行きなさい』とは言わなかったですね」
◆「養護学校への進学」が転機に
結局、中学校2年生の途中から不登校になり、健康面に課題を抱える子どもたちを多く入院させている病院の院内学級で中学校卒業を迎えたという。高校以降の進路についても、かなり頭を悩ませた。
「普通の高校への進学は諦めていました。定時制高校に進学しようかとも思いましたが、中学校時代の先生から肢体不自由を伴う生徒が多く在籍している養護学校への進学を勧められました。正直に言うと、最初はかなり戸惑いました。自分が障害者だという事実と向き合うことを、避けていたんだと思います」
だが愛澤さんは入学し、この選択を「正解でした」と心底からの笑顔で語る。尊い出会いがあったからだ。
「高校で『ヘレン・ケラー』のお芝居をする機会があったんです。主役のヘレン・ケラーをやらないかと担任から打診されたときは、絶対に無理だと思いました。それまで精神状態が閉じこもりがちだったこともあって、人前に立つなんて恐れ多いと思ったんです。それに、私はセリフを暗記するのが苦手だったんです」
◆健常者に生まれ変わったら…と思っていたが
だが最終的に愛澤さんは打診を引き受け、喝采を浴びた。その理由について「セリフが『ウォーター!』だけだったから(笑)」と茶目っ気たっぷりに話すが、もちろんそれだけではない。
「先生たちが私に向き合って『主役を任せたい』と思ってくれたなら、引き受けたいと思いました。学生時代を思い返しても、初めて周囲の人から褒めてもらえた体験かもしれません。そのとき、演劇の持つ力を知って、携わりたいなと思ったんです」
とはいえ、すぐに女優の道へ進もうと決めたわけではない。当時は、こんなふうに考えていた。
「舞台やドラマを見るのは昔から好きでしたし、高校時代のお芝居での成功体験も自分のなかの宝物です。でもそれは養護学校の生徒として演じたから褒めてもらえたんだと思っていました。それこそ、『健常者に生まれ変わったら女優を目指したい』くらいに考えていて、今この身体でやれるとは思っていなかったんです」
それでも女優として踏み出した背景には、自分の“今の姿”で伝えたいことがあるからだという。
「私は脳性麻痺という障害がありますが、世の中には病気以外にもつらいことがごまんとあります。人ぞれぞれ辛いことを抱えながら生きています。私がそうであったように、ときに人生の意味がわからなくなってしまう場面もあるでしょう。でも、必ず陽のあたる道に繋がっているんだと信じて、私も今日まで生きてきました。私の姿をみて、何かしら感じるところがあれば、心から嬉しく思います」
◆妊娠を報告された交際相手の反応は…
愛澤さんと話していると、その前向きな思考に驚かされる。だが、ポジティブさを強みとする愛澤さんにさえ、今なおその辛さと向き合い続ける思い出がある。
「5年ほど前、交際していた男性との間に子どもを宿しました。このことは、妊娠できない身体であると言われ続けてきた私にとって、非常に嬉しい驚きでした」
しかし喜びは長く続かなかった。
「交際相手に報告したその席で、彼はいきなり立ち上がり、走って逃げていってしまったんです。それ以来、音信不通です。交際期間中、私にはもったいないくらいの人だと思っていました。配慮が行き届いて、温厚な性格の男性でした。それだけに、彼が逃走したとき、あっけにとられてしまったんです。当時、松葉杖での移動だった私は、突然の彼の行動に動くことさえできませんでした」
◆妊娠からわずか14週間で悲劇が訪れる
耳を疑う交際相手の行動も、「自分のなかで一人で生み育てる覚悟が決められたので、むしろ感謝している」のだと愛澤さんは言う。本当の悲劇は、そのすぐあとに起きた。
「急激な腹痛に襲われて受診したところ、『子宮内が血液で満たされている。子どもが流れてしまったかもしれない』と言われました。結局、膣内に留まってくれていて、亡くなった我が子とは対面することができました。彼がお腹のなかにいてくれたのは、わずか14週間でした。
本当は、今車椅子を使っているのも、出産・子育てをするうえで車椅子の生活に慣れておこうと思って移行したんです」
現在、“天使ママ”として、流産や死産の経験者が集まる交流会にも参加しているという愛澤さんは、我が子の死を通してみえてくる社会の有様についてこう話す。
「天使ママになってからは、妊婦さんを見るのが精神的につらかったり、亡くなった子どもとちょうど同い年くらいの他の子どもを見ると悲しい気持ちになったりしました。
何より違和感を覚えるのは、社会では生きている子どもの話はするのに、お腹のなかで亡くなった子どもの話はされないんですよね。私も“ママ”なのに、お腹の中で亡くなった子についてはなかったことにされているように感じて、とても悲しくなるんです」
◆子どもを「なかったこと」にしたくない
妊娠中の喪失を公言しない、あるいは言及を忌避する風潮はたしかに強い。だが愛澤さんは、これからも発言をしていく。それにはこんな意図があるという。
「ひとつは、私の子どもを『なかったこと』にしないためです。それから、似た状況で悲しんでいる人たちが、『言ってもいいんだ』と思ってくれるように。お腹のなかで潰えた命だとしても、愛している我が子だという事実は変わらないし、悲しみを隠さなくていいと私は考えています」
苦しみや悲しみによって受傷した心は、簡単に癒えない。時薬――時間が薬――という言葉もあるが、回復するのに一生分の時間で到底きかない傷もあろう。気の持ちようだけで乗り切れない慟哭も存在する。だからこそ、愛澤さんは“演じる”のではないか。治ることのない障害、いじめによる不登校、我が子の死――女優として舞台に立ち続けることが、観る人を勇気づけると信じて。
「いつか必ず道は拓ける」――そう鼓舞し続ける愛澤さんでさえ、その開拓のなかば。だが必ず、多くの人々の魂を震わせる演劇の真髄に届くだろう。悲しみに打ち勝ったタフな人よりも、悲しみとともに生きる人にこそ、福音は訪れる。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki
愛澤さんはなぜ演技の世界にのめり込み、観る人に何を伝えたいのか。壮絶ともいえる半生のなか、それでも笑顔でいられる彼女の活力の源泉に迫る。
◆歩き方を真似された小学校時代
愛澤さんは京都府で生まれ育った。真っ直ぐな瞳の印象が強い女性だ。切ないエピソードも、平然と笑顔で話す。たとえばこれは小学生時代の話だ。
「小学生のころは松葉杖も使っておらず、脚に装具をしていただけでした。たぶん、私の歩き方がおかしかったんでしょうね。すれ違いざまに、私の歩き方を真似して、大きく揺れながら歩く子とかがいて。私は『そこまでへんな歩き方じゃないわ!』とか言ってましたけど(笑)。でもあのくらいから、道行く人の目を気にして、すれ違いざまに真似されているかどうか確認するくせはついたように思います」
◆「被害者になっている現実」を受け入れられなかった
脳性麻痺を患う愛澤さんが脚に装具をつけたのは、4〜5歳のとき。健常者よりも歩き方がぎこちないことは自覚しつつも、持ち前の気丈さで友達のからかいを受け流していた。だが子ども同士の残酷な世界において、異質なことは排除の対象になる。徐々に孤立を深めた。
「脚の疼痛がひどくなってしまい、10歳のころに手術をすることになりました。でも、期待していたほど改善しなかったんです。結果として、この頃から松葉杖を使用するようになりました。
もうその頃には、いじめがエスカレートしていたんでしょうね。クラスメイトがわざと手すりを塞ぐように立っていて『手すりなしで降りてみぃや。階段の練習や』と言われました。私は、手すりがないと階段を降りることができません。他にも筆箱でぶたれたり、黒板の前に立たされてスカートを降ろされたこともありましたね。松葉杖を隠されたこともあります。
私は、ヘラヘラしながら『やめてぇ』というだけで精一杯でした。きっと、いじめの被害者になっている現実を受け入れられなかったんですね。ただみんなと遊んでいるだけだと思いたかったのでしょう」
◆一緒に移動してくれる人が誰もいない
いじめではなく、一緒に遊んでいるだけ。そう思い込もうとしても、ふとしたときに現実を直視する。
「中学校の専科の授業は、教室移動があるじゃないですか。そのとき、私と一緒に移動してくれる人が誰もいないんですよ。一人で松葉杖をついて、時間をかけて移動するしかない。結局、戯れていたのではなくて、いじめられていたんだなって認めるしかないですよね」
その辛さに向き合う日々に疲れ果て、愛澤さんは不登校になった。
「最初は元気に『いってきまーす』って家を出るんですが、ある地点までくると身体が進まないんですよね。教室移動の授業がある日、『もう休もう』と決めました。家族は、特に『行きなさい』とは言わなかったですね」
◆「養護学校への進学」が転機に
結局、中学校2年生の途中から不登校になり、健康面に課題を抱える子どもたちを多く入院させている病院の院内学級で中学校卒業を迎えたという。高校以降の進路についても、かなり頭を悩ませた。
「普通の高校への進学は諦めていました。定時制高校に進学しようかとも思いましたが、中学校時代の先生から肢体不自由を伴う生徒が多く在籍している養護学校への進学を勧められました。正直に言うと、最初はかなり戸惑いました。自分が障害者だという事実と向き合うことを、避けていたんだと思います」
だが愛澤さんは入学し、この選択を「正解でした」と心底からの笑顔で語る。尊い出会いがあったからだ。
「高校で『ヘレン・ケラー』のお芝居をする機会があったんです。主役のヘレン・ケラーをやらないかと担任から打診されたときは、絶対に無理だと思いました。それまで精神状態が閉じこもりがちだったこともあって、人前に立つなんて恐れ多いと思ったんです。それに、私はセリフを暗記するのが苦手だったんです」
◆健常者に生まれ変わったら…と思っていたが
だが最終的に愛澤さんは打診を引き受け、喝采を浴びた。その理由について「セリフが『ウォーター!』だけだったから(笑)」と茶目っ気たっぷりに話すが、もちろんそれだけではない。
「先生たちが私に向き合って『主役を任せたい』と思ってくれたなら、引き受けたいと思いました。学生時代を思い返しても、初めて周囲の人から褒めてもらえた体験かもしれません。そのとき、演劇の持つ力を知って、携わりたいなと思ったんです」
とはいえ、すぐに女優の道へ進もうと決めたわけではない。当時は、こんなふうに考えていた。
「舞台やドラマを見るのは昔から好きでしたし、高校時代のお芝居での成功体験も自分のなかの宝物です。でもそれは養護学校の生徒として演じたから褒めてもらえたんだと思っていました。それこそ、『健常者に生まれ変わったら女優を目指したい』くらいに考えていて、今この身体でやれるとは思っていなかったんです」
それでも女優として踏み出した背景には、自分の“今の姿”で伝えたいことがあるからだという。
「私は脳性麻痺という障害がありますが、世の中には病気以外にもつらいことがごまんとあります。人ぞれぞれ辛いことを抱えながら生きています。私がそうであったように、ときに人生の意味がわからなくなってしまう場面もあるでしょう。でも、必ず陽のあたる道に繋がっているんだと信じて、私も今日まで生きてきました。私の姿をみて、何かしら感じるところがあれば、心から嬉しく思います」
◆妊娠を報告された交際相手の反応は…
愛澤さんと話していると、その前向きな思考に驚かされる。だが、ポジティブさを強みとする愛澤さんにさえ、今なおその辛さと向き合い続ける思い出がある。
「5年ほど前、交際していた男性との間に子どもを宿しました。このことは、妊娠できない身体であると言われ続けてきた私にとって、非常に嬉しい驚きでした」
しかし喜びは長く続かなかった。
「交際相手に報告したその席で、彼はいきなり立ち上がり、走って逃げていってしまったんです。それ以来、音信不通です。交際期間中、私にはもったいないくらいの人だと思っていました。配慮が行き届いて、温厚な性格の男性でした。それだけに、彼が逃走したとき、あっけにとられてしまったんです。当時、松葉杖での移動だった私は、突然の彼の行動に動くことさえできませんでした」
◆妊娠からわずか14週間で悲劇が訪れる
耳を疑う交際相手の行動も、「自分のなかで一人で生み育てる覚悟が決められたので、むしろ感謝している」のだと愛澤さんは言う。本当の悲劇は、そのすぐあとに起きた。
「急激な腹痛に襲われて受診したところ、『子宮内が血液で満たされている。子どもが流れてしまったかもしれない』と言われました。結局、膣内に留まってくれていて、亡くなった我が子とは対面することができました。彼がお腹のなかにいてくれたのは、わずか14週間でした。
本当は、今車椅子を使っているのも、出産・子育てをするうえで車椅子の生活に慣れておこうと思って移行したんです」
現在、“天使ママ”として、流産や死産の経験者が集まる交流会にも参加しているという愛澤さんは、我が子の死を通してみえてくる社会の有様についてこう話す。
「天使ママになってからは、妊婦さんを見るのが精神的につらかったり、亡くなった子どもとちょうど同い年くらいの他の子どもを見ると悲しい気持ちになったりしました。
何より違和感を覚えるのは、社会では生きている子どもの話はするのに、お腹のなかで亡くなった子どもの話はされないんですよね。私も“ママ”なのに、お腹の中で亡くなった子についてはなかったことにされているように感じて、とても悲しくなるんです」
◆子どもを「なかったこと」にしたくない
妊娠中の喪失を公言しない、あるいは言及を忌避する風潮はたしかに強い。だが愛澤さんは、これからも発言をしていく。それにはこんな意図があるという。
「ひとつは、私の子どもを『なかったこと』にしないためです。それから、似た状況で悲しんでいる人たちが、『言ってもいいんだ』と思ってくれるように。お腹のなかで潰えた命だとしても、愛している我が子だという事実は変わらないし、悲しみを隠さなくていいと私は考えています」
苦しみや悲しみによって受傷した心は、簡単に癒えない。時薬――時間が薬――という言葉もあるが、回復するのに一生分の時間で到底きかない傷もあろう。気の持ちようだけで乗り切れない慟哭も存在する。だからこそ、愛澤さんは“演じる”のではないか。治ることのない障害、いじめによる不登校、我が子の死――女優として舞台に立ち続けることが、観る人を勇気づけると信じて。
「いつか必ず道は拓ける」――そう鼓舞し続ける愛澤さんでさえ、その開拓のなかば。だが必ず、多くの人々の魂を震わせる演劇の真髄に届くだろう。悲しみに打ち勝ったタフな人よりも、悲しみとともに生きる人にこそ、福音は訪れる。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki