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「戻らない日々のどれもがかけがえのない瞬間」恋も夢も掴めずに生きる29歳女性は泣きながら発光する/『恋とか夢とかてんてんてん』書評

日刊SPA! 2024年9月24日 8時48分

 世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。
 結婚してみて良かったことのひとつに、もう恋愛をしなくて良くなった、というのがある。恋愛はきつい。もう絶対やりたくない。晴れて恋人同士になれても辛いことは山ほどあるのに、それがどうやっても成就しそうにない片思いだった場合、ほとんど地獄である。相手の一挙手一投足に何か意味があるのではと探ったり、嫉妬と後悔でのたうち回ったりしたこともあったが、そんな出来事も遠い昔のよう。

 今の私は無敵と言ってもよい。失恋ソングを聴いても、月9ドラマを見ても「あらあら可愛い」とすっかり他人事である。そんな私が思わず頭を抱え、封印していた過去を思い出し、息も絶え絶えになるほど打ちのめされた漫画が、この『恋とか夢とかてんてんてん』だ。

 主人公は、一流企業の社員食堂でアルバイトをする29歳・貝塚道子こと「カイちゃん」。イラストレーターになることを夢見て仲間たちと上京し早10年がたつが、絵をアップするSNSのフォロワーはたったの26人。純粋に楽しいと思えていた絵を描くことも、今では人に認められたいという気持ちが先走って上手くいかない日々を過ごしている。就職や出産を機に遠い存在になってしまった友人たちとも距離ができ、ひとりインスタントラーメンを啜る夜。

 だが、そんなカイちゃんに転機が起きる。アルバイト先に客として訪れるイケメンのエリートサラリーマン、通称「高円寺くん」に恋をしてしまったのだ。話しかける勇気もないまま、裏アカを探して特定することに成功したカイちゃんは、高円寺くんが大阪に異動になることを知る。つまらない生活の中で唯一の光だった、高円寺くんをバイト先でこっそり見つめること。
「きみがいなくなった東京 満開の桜も 意味がない! なんも意味ない!!」
 恋をした人間の行動力とは計り知れないものだが、カイちゃんのそれは凄まじい。住む世界が違う人ということはわかっていても、諦めきれないカイちゃんは、これまでのままならない自分を変えようと大阪行きの夜行バスに飛び乗った。

 今作の2巻では、大阪に引っ越し、どうにか高円寺くんと繫がって一緒にお茶をする約束を取り付けたカイちゃんのその後が描かれる。高円寺くんには、実は結婚前提で付き合っている遠距離恋愛中の彼女がいた。ショックを受けながらも、ただ散歩してお茶を飲んだり、朝までお酒を飲み歩いて遊ぶ関係を捨てることなんて出来ない。私がカイちゃんの友達なら「彼女持ちのくせに、思わせぶりな男なんかやめときって!!」と肩のひとつでも叩いてやれるのだが、そんなことは出来ないし、何よりその沼にハマってしまった人間は他人のアドバイスなんて聞く耳を持たないのが常である。カイちゃんの恋の行方やいかに。

 この漫画の魅力は、何と言ってもリアリティーのあるキャラクターと、繊細な心理描写に尽きる。時に訪れる、胸に刺さるような切ないシーンと裏腹に、柔らかなタッチで描かれるコマは、ファンタジックでどこか懐かしい。
 さらに凄いのはそのディテールである。とりわけ街の描写が丁寧で、そのどれもが実際にある街並みなのだ。吹き出しに書かれた台詞以外の背景から、言葉には表せない情緒が読み取れて、この作品が漫画という形で生み出されたことに嬉しくなる。阪急梅田の歩道橋にある謎のモニュメントや、淀川を渡る阪急電車の車内。梅田のヨドバシカメラ、福島、十三。20代の半ばまでを大阪で過ごした私にとって、この漫画の風景はあまりにも私のすべてだった。大失恋して阪急梅田駅を号泣しながら歩くカイちゃんと全く同じ経験をもつ私は、思わず自分がモデルなんじゃないかと思ったほどだ。土地の寛容さがそうさせるのかもしれないが、大阪は大人が泣きながら歩いていても許される街である。
 
 タイトルの通り、人生においては夢を摑むことも重要なミッションだ。恋愛で人生の一発逆転を狙うのはかなり難しい。自分を幸せに出来るのは、他者ではなくて自分自身だからである。「カイちゃん、絵を描くんや! 今からでも夢追って、仕事で成功して、自己肯定感あげるんや!」とまた肩を叩きたくなるが、今のカイちゃんには聞き入れてもらえそうにない。けれど、30歳の誕生日を迎えた24時、ある現実に直面したショックからヤケで飛び乗った自転車ですっ転び、前歯を折って泣くカイちゃんを一体誰が笑えるだろう。

 7年前、立ち直れないくらいの失恋をしてすぐに東京に引っ越した。逆カイちゃんである。それから仕事に打ち込んだり、結婚したりして楽しく暮らしているわけだが、この漫画を読んでしまってからというものの、折にふれて大阪でのことを思い出す。河原町のサンマルクで別れ話を切り出されたとき、号泣しながら手癖で紙ナプキンをびりびりと破いていたら、その彼に「もう破くとこないやん」と言われて、2人で笑ったこと。笑いながら、あ、今ならまだ戻れるかも、とその時少しだけ思ったけど、やっぱり戻れなかったこと。そんな取るに足らないことを、街の風景と共に思い出す。きっと誰の記憶の中にもこんなエピソードはあって、普段は忘れて暮らしている。『恋とか夢とかてんてんてん』のページを捲るたびに、もう戻らない日々のどれもが、かけがえのない瞬間だったことを思い知る。

評者/市川真意
1991年、大阪府生まれ。ジュンク堂書店池袋本店文芸書担当。好きなジャンルは純文学・哲学・短歌・ノンフィクション。好きな作家は川上未映子さん。本とコスメと犬が大好き

―[書店員の書評]―

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