朝から晩までパチンコやパチスロを打ち、勝ち金で生活をするパチプロ。20代ならまだしも、30代、40代となるにつれ、世間の風当たりの強さに足を洗う者も多い。気ままな稼業の代名詞とも言われる彼らは、一体どんな人生を歩んでいるのだろうか。
今回は前回に引き続き、200万円の借金を返済するためにパチプロとして活動していた岡本昌さん(仮名・48歳)のインタビュー後編をお届けする。
岡本さんは、大学卒業後に友人の紹介でパチンコ攻略誌の編集部で働き始めた。3年ほど働くも、ブラックな職場環境などを理由に退職し、その後フリーライターとして活動することに。しかし、バイトとして働いていたバーのオーナーに金銭面で騙され、総額200万円の借金を背負ってしまう。
そこで借金を返済するべくパチプロ転身を決めた岡本さんは、プロがあまりいない下北沢などを中心に立ち回りを始めることにした——。
◆たまたま打ったマイナーな台が転機に
パチプロとして稼働を始めるも、思うように収支を伸ばすことができず、軍資金として用意した20万円も底をつきそうになる。そんな状況で転機となったのは、一台のマイナーなパチンコ台だった。
「ライバルが少ない下北沢のパチンコ店は、そもそも高設定がほとんど入っていない店ばかりで、そりゃスロット打っても勝てるワケがない(笑)。ある日、2万円程のマイナスで店を出ようとしたんですが、たまにはパチンコでも打つかぁ〜なんて軽い気持ちで座ったのが、CR松浦亜弥でした。特に松浦亜弥が好きだったワケでもないんですが、試しに打ってみたところ、なんとこれが千円で32個くらい回るんです。とにかくステージのクセがよくて、ワープからステージにいけばほぼ確実にヘソに入りました。こりゃとんでもなお宝台を見つけたな、と思いましたね」
結局この日は夕方から閉店まで粘り、1万発弱の出玉を手にし、スロットの負けを取り戻すことに成功。翌日もクギはそのまま、朝からタコ粘り3万発オーバーの大勝ちを収めることに成功した。
◆“毎日打ち続けないこと”も勝つためのコツ
普通の人ならば毎日通って徹底的に打ち込むだろうが、岡本さんはこのオイシイ状況をいかに長く続けていけるかを模索することにした。
「さすがに毎日打って出しちゃうと、怪しまれるだけでなく差玉でもおかしなことになりますからね。そこで考えついたのはローテーション作戦です。あややが設置されていたA店は、近所のおじいちゃんとおばあちゃんのお客さんが多かったこともあってか、パチンコは海物語と新台が基本的に甘めの傾向でした。だから週明けの月〜火曜はパチンコの新台狙い、水曜は朝から松浦亜弥、木〜金曜は若者が多くスロットに力を入れているB店で朝から狙い台を打つ。土曜、日曜は基本的に稼働はナシだけど、気が向いたらあややと戯れる……というローテーションを組みました」
こうして店員の目をそらしながら、あややとの逢瀬を重ねること4か月。岡本さんは借金を大幅に圧縮。実に150万円近くを返済することに成功したのである。
「結局、撤去されるまで4か月くらい打ち込みました。さすがに最後の方は締められていましたが、それでも1000円で25個はあったと記憶しています。その間、プロは一人もバッティングしませんでしたね。当時は千歳船橋や笹塚に強い店があったんで、みんなそっちに行ってましたし、そもそもプロからしたらCR松浦亜弥は何もオイシイポイントがなかったんです。だから、私からするとライバルはゼロ。たまにオバチャンが先に座って取られていることもありましたが、その時は幸せのおすそ分けみたいな気分で『オバチャンもキッチリ抜いてくれや』くらいの気持ちでいました(笑)」
◆プロ不毛の地だからオイシイ
岡本さんにとって、出玉状況云々よりもプロがいないことが大きなアドバンテージになったという。
「下北沢の印象は、ちょっとスロット好きな若者が知った顔で打っている街といった感じですね。シビアに打ち込まないので、そこそこチャンスなゾーンが転がっていたり、当時は2007年に撤去を迎える4号機が最後の花火を打ち上げていた頃だったので、明らかに高設定っぽい5号機が落ちてることも珍しくなかったんです。でも、こういう状況もプロがいたら争奪戦ですからね」
◆別れはある日突然に……
だが、そんなあややと蜜月は突然終わりを告げられることになる。ある朝ホールに向かうと、いつもある島には別の台が新台として導入されていたのであった。
「導入されて2か月くらいした頃から“撤去されてしまう恐怖”みたいなのがあって、ローテーションを変えたんです。新台は月曜日に導入されるので、週が明けたらいなくなってるかもしれないから、週末はひたすらあややを打ち込みましたね。週が明け、ひょっとして……と思いながらホールに行き、あややと会ったときにホッとする瞬間、これがもう本当に心臓に悪くて。だから、なくなった日の喪失感といったらもう、言葉じゃ言い表せないものがありました……」
◆パチプロをやめて働くことに…
とにかく回る“勝てる台”を失い、その後は「千円22回の台でも回らないと感じるようになっていきました」という岡本さん。そんなときに知り合いの広告制作会社から声が掛かったことをきっかけに、パチプロをやめて働くことに。そこからは仕事に没頭する毎日を送り、肝心の借金もその後1年で完済に成功したという。
「仕事を始めてからの2年間は、ほとんどパチンコ・パチスロは打ってないんですよ。仕事が本当に忙しくて、打つ時間よりもストレス発散で飲みに行ったりする時間が増えました。また打つようになったのは東北の震災の後くらいですね。でも、最近はとんとご無沙汰です。もう、スマパチとか、スマスロとかよくわかんないし、出玉も減って“怖くて打てない”なぁって。今は完全に5スロ、1パチの人ですね。それも月に1回打つくらいです」
◆もっとまったり打てる台が出てほしい
なお、岡本さんは現在、とある出版社で働いているという。そんな彼に今のパチンコ業界はどう映るのだろうか。
「パチンコ・パチスロの歴史は規制の歴史って言われるくらいの業界ですが、ここ数年の締め付けは異常としか思えないですね。これじゃあ新しいファンの獲得も難しいでしょう。昔と違って娯楽が多様化している昨今、これから這い上がるのはなかなか厳しいんじゃないでしょうか。私としては、昔の現金時短機のような1/200くらいで大当たり出玉は2000〜2200個、大当り後は時短が100回くらいついてくるような台をのんびり打ちたいんですけどね……」
◆思い出の一台は違法にチューニングされた沖スロ
では、最後に岡本さんに思い出の一台を聞いた。その台はマックスアライドの「ゴールデンルーキー-30」だという。
「沖スロって性に合わなくてほとんど打たなかったんですが、これだけは別でしたね。状態に入るとリプレイが異様に偏るんです。通常時、リプレイが揃い始めるとチャンスで、おっ! そろそろ来るかぁ〜ってかまえてると、カキーン!って。パチンコ・パチスロ雑誌時代にこの台の解析やってもらうように、もっと強く言えばよかったなぁと思っています」(※メーカーと裏モノは一切関係ございません。)
その後、筆者に熱くゴールデンルーキー-30について語ってくれた岡本さん。こんなプロもいるんだなぁと思いながら、あっという間に2時間のインタビューは終わったのであった。
取材・文/谷本ススム
【谷本ススム】
グルメ、カルチャー、ギャンブルまで、面白いと思ったらとことん突っ走って取材するフットワークの軽さが売り。業界紙、週刊誌を経て、気がつけば今に至る40代ライター
今回は前回に引き続き、200万円の借金を返済するためにパチプロとして活動していた岡本昌さん(仮名・48歳)のインタビュー後編をお届けする。
岡本さんは、大学卒業後に友人の紹介でパチンコ攻略誌の編集部で働き始めた。3年ほど働くも、ブラックな職場環境などを理由に退職し、その後フリーライターとして活動することに。しかし、バイトとして働いていたバーのオーナーに金銭面で騙され、総額200万円の借金を背負ってしまう。
そこで借金を返済するべくパチプロ転身を決めた岡本さんは、プロがあまりいない下北沢などを中心に立ち回りを始めることにした——。
◆たまたま打ったマイナーな台が転機に
パチプロとして稼働を始めるも、思うように収支を伸ばすことができず、軍資金として用意した20万円も底をつきそうになる。そんな状況で転機となったのは、一台のマイナーなパチンコ台だった。
「ライバルが少ない下北沢のパチンコ店は、そもそも高設定がほとんど入っていない店ばかりで、そりゃスロット打っても勝てるワケがない(笑)。ある日、2万円程のマイナスで店を出ようとしたんですが、たまにはパチンコでも打つかぁ〜なんて軽い気持ちで座ったのが、CR松浦亜弥でした。特に松浦亜弥が好きだったワケでもないんですが、試しに打ってみたところ、なんとこれが千円で32個くらい回るんです。とにかくステージのクセがよくて、ワープからステージにいけばほぼ確実にヘソに入りました。こりゃとんでもなお宝台を見つけたな、と思いましたね」
結局この日は夕方から閉店まで粘り、1万発弱の出玉を手にし、スロットの負けを取り戻すことに成功。翌日もクギはそのまま、朝からタコ粘り3万発オーバーの大勝ちを収めることに成功した。
◆“毎日打ち続けないこと”も勝つためのコツ
普通の人ならば毎日通って徹底的に打ち込むだろうが、岡本さんはこのオイシイ状況をいかに長く続けていけるかを模索することにした。
「さすがに毎日打って出しちゃうと、怪しまれるだけでなく差玉でもおかしなことになりますからね。そこで考えついたのはローテーション作戦です。あややが設置されていたA店は、近所のおじいちゃんとおばあちゃんのお客さんが多かったこともあってか、パチンコは海物語と新台が基本的に甘めの傾向でした。だから週明けの月〜火曜はパチンコの新台狙い、水曜は朝から松浦亜弥、木〜金曜は若者が多くスロットに力を入れているB店で朝から狙い台を打つ。土曜、日曜は基本的に稼働はナシだけど、気が向いたらあややと戯れる……というローテーションを組みました」
こうして店員の目をそらしながら、あややとの逢瀬を重ねること4か月。岡本さんは借金を大幅に圧縮。実に150万円近くを返済することに成功したのである。
「結局、撤去されるまで4か月くらい打ち込みました。さすがに最後の方は締められていましたが、それでも1000円で25個はあったと記憶しています。その間、プロは一人もバッティングしませんでしたね。当時は千歳船橋や笹塚に強い店があったんで、みんなそっちに行ってましたし、そもそもプロからしたらCR松浦亜弥は何もオイシイポイントがなかったんです。だから、私からするとライバルはゼロ。たまにオバチャンが先に座って取られていることもありましたが、その時は幸せのおすそ分けみたいな気分で『オバチャンもキッチリ抜いてくれや』くらいの気持ちでいました(笑)」
◆プロ不毛の地だからオイシイ
岡本さんにとって、出玉状況云々よりもプロがいないことが大きなアドバンテージになったという。
「下北沢の印象は、ちょっとスロット好きな若者が知った顔で打っている街といった感じですね。シビアに打ち込まないので、そこそこチャンスなゾーンが転がっていたり、当時は2007年に撤去を迎える4号機が最後の花火を打ち上げていた頃だったので、明らかに高設定っぽい5号機が落ちてることも珍しくなかったんです。でも、こういう状況もプロがいたら争奪戦ですからね」
◆別れはある日突然に……
だが、そんなあややと蜜月は突然終わりを告げられることになる。ある朝ホールに向かうと、いつもある島には別の台が新台として導入されていたのであった。
「導入されて2か月くらいした頃から“撤去されてしまう恐怖”みたいなのがあって、ローテーションを変えたんです。新台は月曜日に導入されるので、週が明けたらいなくなってるかもしれないから、週末はひたすらあややを打ち込みましたね。週が明け、ひょっとして……と思いながらホールに行き、あややと会ったときにホッとする瞬間、これがもう本当に心臓に悪くて。だから、なくなった日の喪失感といったらもう、言葉じゃ言い表せないものがありました……」
◆パチプロをやめて働くことに…
とにかく回る“勝てる台”を失い、その後は「千円22回の台でも回らないと感じるようになっていきました」という岡本さん。そんなときに知り合いの広告制作会社から声が掛かったことをきっかけに、パチプロをやめて働くことに。そこからは仕事に没頭する毎日を送り、肝心の借金もその後1年で完済に成功したという。
「仕事を始めてからの2年間は、ほとんどパチンコ・パチスロは打ってないんですよ。仕事が本当に忙しくて、打つ時間よりもストレス発散で飲みに行ったりする時間が増えました。また打つようになったのは東北の震災の後くらいですね。でも、最近はとんとご無沙汰です。もう、スマパチとか、スマスロとかよくわかんないし、出玉も減って“怖くて打てない”なぁって。今は完全に5スロ、1パチの人ですね。それも月に1回打つくらいです」
◆もっとまったり打てる台が出てほしい
なお、岡本さんは現在、とある出版社で働いているという。そんな彼に今のパチンコ業界はどう映るのだろうか。
「パチンコ・パチスロの歴史は規制の歴史って言われるくらいの業界ですが、ここ数年の締め付けは異常としか思えないですね。これじゃあ新しいファンの獲得も難しいでしょう。昔と違って娯楽が多様化している昨今、これから這い上がるのはなかなか厳しいんじゃないでしょうか。私としては、昔の現金時短機のような1/200くらいで大当たり出玉は2000〜2200個、大当り後は時短が100回くらいついてくるような台をのんびり打ちたいんですけどね……」
◆思い出の一台は違法にチューニングされた沖スロ
では、最後に岡本さんに思い出の一台を聞いた。その台はマックスアライドの「ゴールデンルーキー-30」だという。
「沖スロって性に合わなくてほとんど打たなかったんですが、これだけは別でしたね。状態に入るとリプレイが異様に偏るんです。通常時、リプレイが揃い始めるとチャンスで、おっ! そろそろ来るかぁ〜ってかまえてると、カキーン!って。パチンコ・パチスロ雑誌時代にこの台の解析やってもらうように、もっと強く言えばよかったなぁと思っています」(※メーカーと裏モノは一切関係ございません。)
その後、筆者に熱くゴールデンルーキー-30について語ってくれた岡本さん。こんなプロもいるんだなぁと思いながら、あっという間に2時間のインタビューは終わったのであった。
取材・文/谷本ススム
【谷本ススム】
グルメ、カルチャー、ギャンブルまで、面白いと思ったらとことん突っ走って取材するフットワークの軽さが売り。業界紙、週刊誌を経て、気がつけば今に至る40代ライター