風間茉凪(まな)さん(31歳)は、母親からの虐待が原因で全盲となった、いわゆる虐待サバイバーだ。児童相談所の一時保護所などを経て、現在は企業で健康管理を行うヘルスキーパーとして働いている彼女は、今年10月1日からvoice marcheの認定上級カウンセラーとして同じく虐待をされている子どもたちに向き合う。
風間さんの苛烈な半生については、彼女が著したKindle書籍『私は、母親の虐待で全盲になりました』に詳細を譲るが、本記事においては、虐待サバイバーたちが“保護のその後”もなお闘い続けなければならないものの正体に迫る。
◆双子の兄は「まったく虐待を受けていない」
風間さんが持つ虐待の記憶は根深い。母親の虐待が始まったのは、5歳くらいからだったという。驚くことに、双子の兄はまったく虐待を受けていない。その理由は詳らかになっていないものの、こんな経緯があったという。
「私は生まれつき目の病気があります。増殖性硝子体網膜症という病名なのですが、これによって小学校6年生のころには左目が見えなくなっていました。母は私によく『あんたは優しくしてもらえていいわね』と怒鳴っていました。周囲の大人たちから配慮してもらえる私に、何かしらの感情があったのかもしれません。
また、祖父母との2世帯同居でしたが、祖父は血が繋がっておらず、そうした複雑な家庭環境だったのも、母にとってはストレスだったのかもしれません。あるいは私は覚えていないものの、父には酒で酔うと母を殴るなどのDV傾向があったらしく、そうした不満のはけ口として、私がいたようにも思えます。さらに言えば、母には祖父から殴られるなどの虐待を受けた経験がありました」
◆母から殴られ、全盲になってしまう
どの推論も一定の説得力を持つ。とはいえ母親の風間さんに対する暴力は、八つ当たりの範疇を大幅に超えたものだった。
「素手で殴る蹴るは当たり前ですが、ハンガーで何十発も殴打されたり、ピンで乳首を刺されたり……。それまで見えていた右目が見えなくなったのは、母からの外傷によるものです。高校受験を直前に控えたある日、母から逆さ吊りにされ、殴られたのです。眼の手術はしたのですが、徐々に見えなくなり、とうとう全盲になってしまいました」
ここまでの暴力が横行していながら、家族は誰一人気づかない。当然、家の外にいる大人が気づくまでにはかなりの時間を要した。
「母は決まって、私と2人きりのときを狙って虐待をしていました。だから虐待の現場を見た家族はいません。とはいえ、家族内に関心を向けていれば、容易に気づけたのではないかと私は思っています。演技の上手な母は、家の外では“模範的な母親”とさえみられていて、しばしば『こんなに優しいお母さんで羨ましい』などと言われたものです。当然、家のなかの出来事は”秘め事”であり、私は誰にも打ち明けることができませんでした。全盲になってからもむしろ勢いを増していく母からの虐待に、私はただ耐えるしかなかったのです」
◆教師の手引で一時保護をされることに
だが高校3年生になる直前に、転機は訪れた。希死念慮も濃くなり、風間さんがやつれていく様子を見逃さない盲学校の教師がいたのだ。
「執拗な虐待によってまともに寝かせてもらえなかった私は、高校の授業中に寝てばかりいました。見かねた担任から呼び出され、はじめは説教を受けていました。しかし精神的な極点に達し、涙が溢れ出て、とうとうこれまでの経緯を打ち明けたのです。担任は驚きながらも、私の話を丁寧に聞いてくれました。その日の翌日に東日本大震災が起きたので、特に強く印象に残っています」
事態が動いたのは、それからほどなくしてだった。
「虐待を受けている子どもたちにとって、学校という逃げ場がない長期休暇はこれ以上ない苦痛です。高2から高3にかけての春休み、母からの虐待が日増しにエスカレートするなかで、私は担任に電話を助けを求めました。彼の手引によって、数日内に児童相談所経由で警察がきて、私は一時保護をされることになりました」
非道な仕打ちを受けた母親との離別を「安心した」と語る一方で、風間さんのなかにはこんな感情もしぶとく残り続けた。
「どこかで、私さえ我慢していれば、家族は形を保って来られたのではないかという思いもわずかながらありました。当時はまだ、自分が被害者であるという事実をきちんと認識していなかったかもしれません。虐待について深く学び、そうした事例は往々にしてあることをのちほど知りました」
◆盲学校内にいた「60歳手前の同級生」に…
結局、児童相談所の一時保護所へ引き取られた風間さんだが、「児童」である18歳を過ぎてからも特例的な措置として里親制度を利用して実家へ戻されないことが決定された。だが当然、元凶である母親から隔離されるだけですべてが解決するはずもない。こんな“後遺症”に悩まされ続けた。
「高卒後、私は同じ盲学校内の専門学部へ進学しました。専門学部は、あん摩・鍼灸師などの資格を取得できる学部です。年齢はみなバラバラで、学齢で進学したのは私だけでした。また年齢だけではなく、目に抱えている問題も異なっており、私のような全盲ではなく弱視などが多かったと記憶しています。
そのなかに、当時60歳手前の同級生がいました。彼はたびたび私を食事などに誘ってくれてご馳走をしてくれましたが、徐々に性的な関係を迫るようになって。最初は拒否していましたが、もともと自分を大切に思えるわけではない私は、彼との関係を続けることに。結局、ご馳走してもらって性的な関係を結ぶという意味において、援助交際と何ら変わらない関係になっていきました」
◆稼ぐため「全盲の風俗嬢」に
だが破滅的な関係に身を委ねた風間さんの蝕まれた精神は、限界を迎えていた。
「当初、彼との関係について、私は『金銭的にも楽になるし、こんな自分でも求めてくれるなら』と考えていました。しかし親子ほど離れた年齢の私の身体を縛り、弄ぶ男性から求められても、どこか満たされない思いがありました。ある日、『死にたい』という気持ちが募り、自殺未遂を図って。それまでもカッターやカミソリで手首を切る程度のことはありましたが、睡眠薬を40錠近く飲んで意識を失ったんです。その後、病院で複雑性PTSDであると診断を受けました」
一命は取り留めたものの、風間さんの“性”の捉え方は劇的に変わっていった。
「稼がなければいけないので、テレクラやデリヘルでアルバイトをしていました。全盲の風俗嬢ということで難色を示すお客さんもいましたが、外見によって対応を変えないから、かえって喜ぶお客さんもいました。性を売り物にしていくなかで、私は『どんなに立派な講釈を垂れている男性でも、結局最後は私を抱くんだな』とやや斜に構えた見方をするようになりました」
◆昔の名前を聞くと「身体が硬直する」
性を謳歌することとも違い、ある種の復讐心の代替として性を売る。当然、危険も伴うことが予想されるが、「当時はむしろ願ったりだった」と風間さんはため息交じりに話した。
「危険なことはわかっていました。目が見えず裸でいる私を殺すことなど、客なら誰でもできたでしょうね。でもあのときは、『誰か殺してくれよ』と思って生きていました」
現在、風間さんは平穏な日常を送れているという。今年3月に離婚したものの、元夫との結婚が人生にとって大きなターニングポイントになったと話す。
「どこかでずっと、自分が生きていること、虐待のトラウマを引きずり続けている自分のことが許せなかったのですが、自分を許してあげていいんだと思えたのが、元夫との結婚でした。彼とは現在も関係が良好で、私は今でも彼の苗字を名乗っています。また、下の名前は、昨年12月に家庭裁判所で変更する手続きを取りました。やはり昔の名前を聞くと身体が硬直し、恐怖が押し寄せてくるんです。特に母親から呼ばれていた昔の名前にはもう、戻りたいと思えません」
◆「悪気がない言葉」で悩んでしまう人が大勢いる
家族には絶縁を言い渡したという風間さんは、日本に根強く残る家族観に疑問を提示する。
「特に日本においては、家庭円満であることを最上の善とする傾向が強いと思います。そのため、虐待を受けてきた人に対して、『親もたいへんだったんだから、わかってあげてほしい』という理解を求める圧力をかける人がいます。言った人は悪気がなく放った言葉だと思うのですが、何も知らない人が虐待サバイバーが経験してきた恐怖を矮小化する結果になりかねないと思います。事実、許せない自分が悪いと考えて悩んでしまう人は大勢います」
これからカウンセラーとしての船出を迎える風間さんには、こんな矜持がある。
「当事者目線で、『あなたは悪くない。親のことは関係なくあなたは幸せになっていい』ということをきちんとまっすぐ伝えていけたらと思います。一般の人たちが考えるよりもずっと、虐待サバイバーは自分を責める傾向にあります。自分を大切に思えない傾向もあります。囚われているところから解放できるように傾聴し、一緒に解決策を考えていきたいと思っています」
視力を失わなくても、人生において光を失いかける瞬間はある。全盲であるうえに母親からの恒常的な暴力を被弾してきた風間さんの本籍地は、まさに奈落。だが同じ境遇に喘ぐ者たちのため、あるいは自らの人生の再建のため、彼女はカウンセラーとして社会で生きる道を選んだ。光を失った先で見つけた光。耐え難い苦痛の記憶を昇華させ、風間さんはきっと誰かにとっての光明となる。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki
風間さんの苛烈な半生については、彼女が著したKindle書籍『私は、母親の虐待で全盲になりました』に詳細を譲るが、本記事においては、虐待サバイバーたちが“保護のその後”もなお闘い続けなければならないものの正体に迫る。
◆双子の兄は「まったく虐待を受けていない」
風間さんが持つ虐待の記憶は根深い。母親の虐待が始まったのは、5歳くらいからだったという。驚くことに、双子の兄はまったく虐待を受けていない。その理由は詳らかになっていないものの、こんな経緯があったという。
「私は生まれつき目の病気があります。増殖性硝子体網膜症という病名なのですが、これによって小学校6年生のころには左目が見えなくなっていました。母は私によく『あんたは優しくしてもらえていいわね』と怒鳴っていました。周囲の大人たちから配慮してもらえる私に、何かしらの感情があったのかもしれません。
また、祖父母との2世帯同居でしたが、祖父は血が繋がっておらず、そうした複雑な家庭環境だったのも、母にとってはストレスだったのかもしれません。あるいは私は覚えていないものの、父には酒で酔うと母を殴るなどのDV傾向があったらしく、そうした不満のはけ口として、私がいたようにも思えます。さらに言えば、母には祖父から殴られるなどの虐待を受けた経験がありました」
◆母から殴られ、全盲になってしまう
どの推論も一定の説得力を持つ。とはいえ母親の風間さんに対する暴力は、八つ当たりの範疇を大幅に超えたものだった。
「素手で殴る蹴るは当たり前ですが、ハンガーで何十発も殴打されたり、ピンで乳首を刺されたり……。それまで見えていた右目が見えなくなったのは、母からの外傷によるものです。高校受験を直前に控えたある日、母から逆さ吊りにされ、殴られたのです。眼の手術はしたのですが、徐々に見えなくなり、とうとう全盲になってしまいました」
ここまでの暴力が横行していながら、家族は誰一人気づかない。当然、家の外にいる大人が気づくまでにはかなりの時間を要した。
「母は決まって、私と2人きりのときを狙って虐待をしていました。だから虐待の現場を見た家族はいません。とはいえ、家族内に関心を向けていれば、容易に気づけたのではないかと私は思っています。演技の上手な母は、家の外では“模範的な母親”とさえみられていて、しばしば『こんなに優しいお母さんで羨ましい』などと言われたものです。当然、家のなかの出来事は”秘め事”であり、私は誰にも打ち明けることができませんでした。全盲になってからもむしろ勢いを増していく母からの虐待に、私はただ耐えるしかなかったのです」
◆教師の手引で一時保護をされることに
だが高校3年生になる直前に、転機は訪れた。希死念慮も濃くなり、風間さんがやつれていく様子を見逃さない盲学校の教師がいたのだ。
「執拗な虐待によってまともに寝かせてもらえなかった私は、高校の授業中に寝てばかりいました。見かねた担任から呼び出され、はじめは説教を受けていました。しかし精神的な極点に達し、涙が溢れ出て、とうとうこれまでの経緯を打ち明けたのです。担任は驚きながらも、私の話を丁寧に聞いてくれました。その日の翌日に東日本大震災が起きたので、特に強く印象に残っています」
事態が動いたのは、それからほどなくしてだった。
「虐待を受けている子どもたちにとって、学校という逃げ場がない長期休暇はこれ以上ない苦痛です。高2から高3にかけての春休み、母からの虐待が日増しにエスカレートするなかで、私は担任に電話を助けを求めました。彼の手引によって、数日内に児童相談所経由で警察がきて、私は一時保護をされることになりました」
非道な仕打ちを受けた母親との離別を「安心した」と語る一方で、風間さんのなかにはこんな感情もしぶとく残り続けた。
「どこかで、私さえ我慢していれば、家族は形を保って来られたのではないかという思いもわずかながらありました。当時はまだ、自分が被害者であるという事実をきちんと認識していなかったかもしれません。虐待について深く学び、そうした事例は往々にしてあることをのちほど知りました」
◆盲学校内にいた「60歳手前の同級生」に…
結局、児童相談所の一時保護所へ引き取られた風間さんだが、「児童」である18歳を過ぎてからも特例的な措置として里親制度を利用して実家へ戻されないことが決定された。だが当然、元凶である母親から隔離されるだけですべてが解決するはずもない。こんな“後遺症”に悩まされ続けた。
「高卒後、私は同じ盲学校内の専門学部へ進学しました。専門学部は、あん摩・鍼灸師などの資格を取得できる学部です。年齢はみなバラバラで、学齢で進学したのは私だけでした。また年齢だけではなく、目に抱えている問題も異なっており、私のような全盲ではなく弱視などが多かったと記憶しています。
そのなかに、当時60歳手前の同級生がいました。彼はたびたび私を食事などに誘ってくれてご馳走をしてくれましたが、徐々に性的な関係を迫るようになって。最初は拒否していましたが、もともと自分を大切に思えるわけではない私は、彼との関係を続けることに。結局、ご馳走してもらって性的な関係を結ぶという意味において、援助交際と何ら変わらない関係になっていきました」
◆稼ぐため「全盲の風俗嬢」に
だが破滅的な関係に身を委ねた風間さんの蝕まれた精神は、限界を迎えていた。
「当初、彼との関係について、私は『金銭的にも楽になるし、こんな自分でも求めてくれるなら』と考えていました。しかし親子ほど離れた年齢の私の身体を縛り、弄ぶ男性から求められても、どこか満たされない思いがありました。ある日、『死にたい』という気持ちが募り、自殺未遂を図って。それまでもカッターやカミソリで手首を切る程度のことはありましたが、睡眠薬を40錠近く飲んで意識を失ったんです。その後、病院で複雑性PTSDであると診断を受けました」
一命は取り留めたものの、風間さんの“性”の捉え方は劇的に変わっていった。
「稼がなければいけないので、テレクラやデリヘルでアルバイトをしていました。全盲の風俗嬢ということで難色を示すお客さんもいましたが、外見によって対応を変えないから、かえって喜ぶお客さんもいました。性を売り物にしていくなかで、私は『どんなに立派な講釈を垂れている男性でも、結局最後は私を抱くんだな』とやや斜に構えた見方をするようになりました」
◆昔の名前を聞くと「身体が硬直する」
性を謳歌することとも違い、ある種の復讐心の代替として性を売る。当然、危険も伴うことが予想されるが、「当時はむしろ願ったりだった」と風間さんはため息交じりに話した。
「危険なことはわかっていました。目が見えず裸でいる私を殺すことなど、客なら誰でもできたでしょうね。でもあのときは、『誰か殺してくれよ』と思って生きていました」
現在、風間さんは平穏な日常を送れているという。今年3月に離婚したものの、元夫との結婚が人生にとって大きなターニングポイントになったと話す。
「どこかでずっと、自分が生きていること、虐待のトラウマを引きずり続けている自分のことが許せなかったのですが、自分を許してあげていいんだと思えたのが、元夫との結婚でした。彼とは現在も関係が良好で、私は今でも彼の苗字を名乗っています。また、下の名前は、昨年12月に家庭裁判所で変更する手続きを取りました。やはり昔の名前を聞くと身体が硬直し、恐怖が押し寄せてくるんです。特に母親から呼ばれていた昔の名前にはもう、戻りたいと思えません」
◆「悪気がない言葉」で悩んでしまう人が大勢いる
家族には絶縁を言い渡したという風間さんは、日本に根強く残る家族観に疑問を提示する。
「特に日本においては、家庭円満であることを最上の善とする傾向が強いと思います。そのため、虐待を受けてきた人に対して、『親もたいへんだったんだから、わかってあげてほしい』という理解を求める圧力をかける人がいます。言った人は悪気がなく放った言葉だと思うのですが、何も知らない人が虐待サバイバーが経験してきた恐怖を矮小化する結果になりかねないと思います。事実、許せない自分が悪いと考えて悩んでしまう人は大勢います」
これからカウンセラーとしての船出を迎える風間さんには、こんな矜持がある。
「当事者目線で、『あなたは悪くない。親のことは関係なくあなたは幸せになっていい』ということをきちんとまっすぐ伝えていけたらと思います。一般の人たちが考えるよりもずっと、虐待サバイバーは自分を責める傾向にあります。自分を大切に思えない傾向もあります。囚われているところから解放できるように傾聴し、一緒に解決策を考えていきたいと思っています」
視力を失わなくても、人生において光を失いかける瞬間はある。全盲であるうえに母親からの恒常的な暴力を被弾してきた風間さんの本籍地は、まさに奈落。だが同じ境遇に喘ぐ者たちのため、あるいは自らの人生の再建のため、彼女はカウンセラーとして社会で生きる道を選んだ。光を失った先で見つけた光。耐え難い苦痛の記憶を昇華させ、風間さんはきっと誰かにとっての光明となる。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki