目元に派手なメイクを施し、刺青やピアス、スプリットタンなどが目を引くその女性は、ゴメス奈良紫さん(37歳)。現在は、イラストレイターとして活動もする2児の母だ。奇抜なそのファッションから想像もつかない厳格な家庭で育ち、独立後に夜職に転じた彼女の波乱に満ちた軌跡を追う。
◆「幼い頃の憧れだった母」が病を機に変貌
ゴメス奈良紫さんは言う。「今でも、両親には敬語で話します」と。物心ついたときから、親に対してわがままを言ったりすることはなかったという。そればかりか、ゴメスさんたちきょうだいは皆、母親のその日の機嫌を何よりも気にしていたという。
「助産師で、かつて助産院を開業していた母は、私が幼い頃の憧れでした。医師の立ち会いのもと、患者さんに注射をする姿がとてもかっこ良かったんです。一方で、甲状腺の病気で職を辞してからの母は、朝起きてくる時間がどんどん遅くなり、私たちは自分で身支度をして朝ご飯を作って、登校していました。おそらく母自身、ままならない自分の生活に苛立つ気持ちがあったのだと思います。帰宅後、本当に些細なことで怒鳴られ、殴られる日々でした」
◆母への「接待」のようだった家族旅行
過敏な母親は、たとえばこんな「些細なこと」でゴメスさんに当たり散らした。
「私にリモコンを片付けるように命じたのに兄が片付けたとか、その程度のことです。母は激昂すると、明らかに目つきが変わってしまい、それまでと別人のようになってしまいます。息ができなくなるまで蹴られる、包丁を突き立てられる、フォークで頭を刺される、ということも経験しました。父は経営者でしたが、心根の優しすぎる人で、母に対する抑止力にはならない人でした」
母は旅行が好きで、たびたび家族旅行が開催されたが、それは家族から母への「接待」にも聞こえてくる。
「たとえば道中の車でどんな音楽をかけるかなども、すべて母の顔色を伺いながらです。もちろん、どんな景色を見せるか、どんな温泉に入らせるか、なども一定の緊張感がありますよね」
◆「誰に対しても優しくありたい」と感じた原体験
だがこれらの母との思い出について、ゴメスさんは決してつらそうに語らない。そこには、こんな理由がある。
「母が注射器を使って患者さんに向き合っている姿が脳裏にあること、今は私も子どもを持つ身として、働き盛りで病に倒れた母の悔しさが理解できること――があるでしょうね。
でも原体験として覚えているのは、こんなことです。4歳のとき、風呂掃除が遅くなってしまったことに母が怒り、裸足で外に出されました。ちょうど秋から冬になるところで、寒かったのを覚えています。暗く落ち込みましたが、ふとみると今にも死にそうなオニヤンマが羽根を上下させていたんです。
私はそのオニヤンマに妙な親近感を覚えてしまって、『最後に一緒に飛ぼう』と言って拾い上げて手を高く上げました。その刹那、私の手の中で死んでいったんですよね。うまくいえないんですが、そのときに『誰に対しても優しくありたいな』と感じたのをすごく覚えています」
◆同じ“注射を打つ”でも、全く違う目的に…
ゴメスさんはたびたび“注射器を持つ母”への憧憬を口にする。その根源的な憧れが、ゴメスさんの人生を思わぬ方向へ暗転させたこともある。
「定時制高校卒業後は、職人の見習いをしていましたが、郵便局に就職しました。20歳のときに実家から独立すると、もっとも効率のいい稼ぎ方をしたいと思ってキャバクラに勤務することになったんです。店のVIPルームに、ある有名人が訪れた日のことです。車座になって話しているとき、タバコのようなものが回ってきました。とりあえずいただいたのですが、あとから、マリファナだったと知ったんです。親指と人差指でつまんで吸うという作法を知ったのもそのときです。
21歳のときには、当時の交際相手の影響で、覚醒剤にも手を出しました。注射器を使うのが好きで、自己使用はもちろん、自分では打つ勇気が出ない人たちにも注射をしていました。そのうち、噂が回り回って、常用者から『上手に打ってくれる人がいると聞いたから』と依頼が来るまでになってしまいました。同じ“注射を打つ”でも、全く違う目的になってしまいました。幼いころに憧れた姿からどんどんかけ離れていくことに対して、常に罪悪感と自己嫌悪がありましたね。覚醒剤は23歳できっぱりと絶ちました」
◆リストカット痕を消すために刺青を入れた
その後、24歳で妊娠と出産を経験。配偶者とはその後、離婚した。現在ゴメスさんの身体を覆う刺青を最初に入れたのは、27歳のときだったという。
「きっかけは、小学生のときから続いているリストカット痕を消すためでした。カバータトゥーというやつですね。家庭環境が苦しかった私は、小学生のときから自傷行為を繰り返していました。小学5年生のときは、筋繊維を傷つけてしまい、救急車を呼ぶ事態になりました。しばらくは、傷つけすぎて洗濯板のようになった自らの皮膚について誤魔化しながら生きてきたのですが、やはり自傷行為を止めようと考えて刺青を彫ることにしました。彫ってもらったその日から、私の皮膚は尊敬しているタトゥーアーティストの方の作品になるので、それを傷つけることはしないだろうと思ったんです。結果的に、奏功しました」
刺青を宿すことによって、ゴメスさんは自傷行為から解放された。また、人体改造にも目覚めた。
「身体のなかで気に入っているのは、『マイクロダーマルインプラント』と呼ばれる、埋込式のピアスでしょうか。それから、世間では嫌われる“2枚舌”であるスプリットタンにすることで、『自分は人に対して不誠実な対応をしない』という逆の誓いを得ました。また、さまざまな刺青を入れてきましたが、珍しがられるのは腋に入れた刺青ですね。腋という普段見せない場所に大きな目玉を彫ったんです。誰も見ていないと思っていても、必ず見られているという教訓を体現したものです」
◆母は「愛情の示し方がわからなかったのではないか」
今年、再婚相手との間に子どもが生まれたばかりだというゴメスさん。精神障害者保健福祉手帳を持つ彼女には、継続した養育が困難だった時期があり、現在は児童相談所に預けている。だが近日中に、一時帰宅の目処が立っているのだと嬉しそうに話す。
「私の母も愛してくれていたんだとは思います。実際に、愛情を感じた場面もあります。ただ、いろいろな状況のなかでその正しい示し方がわからなかったのではないかと感じます。私の子ども時代は、どんなときも母を愛していました。両親の“反省点”も含めて、私は私なりの子育てをしようと思えました。その点はポジティブにとらえています」
家族という密室空間が常に緊迫し、安心できない場所になれば、行き場のないフラストレーションが身体を蝕むこともあるだろう。暴力の方向を自らに向け、流れ出る血液でしか生を実感できないこともあるかもしれない。
ゴメスさんは荒野を生き抜いた。だがその荒野を指さして彼女は言う。「優しさがまったくない場所というわけでもなかったんです」と。おそらくその真偽を問うことに意味はない。ひとりの女性が世界を憎まずに生きたいと願った結果、捉え直した世界にこそ、意味がある。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki
◆「幼い頃の憧れだった母」が病を機に変貌
ゴメス奈良紫さんは言う。「今でも、両親には敬語で話します」と。物心ついたときから、親に対してわがままを言ったりすることはなかったという。そればかりか、ゴメスさんたちきょうだいは皆、母親のその日の機嫌を何よりも気にしていたという。
「助産師で、かつて助産院を開業していた母は、私が幼い頃の憧れでした。医師の立ち会いのもと、患者さんに注射をする姿がとてもかっこ良かったんです。一方で、甲状腺の病気で職を辞してからの母は、朝起きてくる時間がどんどん遅くなり、私たちは自分で身支度をして朝ご飯を作って、登校していました。おそらく母自身、ままならない自分の生活に苛立つ気持ちがあったのだと思います。帰宅後、本当に些細なことで怒鳴られ、殴られる日々でした」
◆母への「接待」のようだった家族旅行
過敏な母親は、たとえばこんな「些細なこと」でゴメスさんに当たり散らした。
「私にリモコンを片付けるように命じたのに兄が片付けたとか、その程度のことです。母は激昂すると、明らかに目つきが変わってしまい、それまでと別人のようになってしまいます。息ができなくなるまで蹴られる、包丁を突き立てられる、フォークで頭を刺される、ということも経験しました。父は経営者でしたが、心根の優しすぎる人で、母に対する抑止力にはならない人でした」
母は旅行が好きで、たびたび家族旅行が開催されたが、それは家族から母への「接待」にも聞こえてくる。
「たとえば道中の車でどんな音楽をかけるかなども、すべて母の顔色を伺いながらです。もちろん、どんな景色を見せるか、どんな温泉に入らせるか、なども一定の緊張感がありますよね」
◆「誰に対しても優しくありたい」と感じた原体験
だがこれらの母との思い出について、ゴメスさんは決してつらそうに語らない。そこには、こんな理由がある。
「母が注射器を使って患者さんに向き合っている姿が脳裏にあること、今は私も子どもを持つ身として、働き盛りで病に倒れた母の悔しさが理解できること――があるでしょうね。
でも原体験として覚えているのは、こんなことです。4歳のとき、風呂掃除が遅くなってしまったことに母が怒り、裸足で外に出されました。ちょうど秋から冬になるところで、寒かったのを覚えています。暗く落ち込みましたが、ふとみると今にも死にそうなオニヤンマが羽根を上下させていたんです。
私はそのオニヤンマに妙な親近感を覚えてしまって、『最後に一緒に飛ぼう』と言って拾い上げて手を高く上げました。その刹那、私の手の中で死んでいったんですよね。うまくいえないんですが、そのときに『誰に対しても優しくありたいな』と感じたのをすごく覚えています」
◆同じ“注射を打つ”でも、全く違う目的に…
ゴメスさんはたびたび“注射器を持つ母”への憧憬を口にする。その根源的な憧れが、ゴメスさんの人生を思わぬ方向へ暗転させたこともある。
「定時制高校卒業後は、職人の見習いをしていましたが、郵便局に就職しました。20歳のときに実家から独立すると、もっとも効率のいい稼ぎ方をしたいと思ってキャバクラに勤務することになったんです。店のVIPルームに、ある有名人が訪れた日のことです。車座になって話しているとき、タバコのようなものが回ってきました。とりあえずいただいたのですが、あとから、マリファナだったと知ったんです。親指と人差指でつまんで吸うという作法を知ったのもそのときです。
21歳のときには、当時の交際相手の影響で、覚醒剤にも手を出しました。注射器を使うのが好きで、自己使用はもちろん、自分では打つ勇気が出ない人たちにも注射をしていました。そのうち、噂が回り回って、常用者から『上手に打ってくれる人がいると聞いたから』と依頼が来るまでになってしまいました。同じ“注射を打つ”でも、全く違う目的になってしまいました。幼いころに憧れた姿からどんどんかけ離れていくことに対して、常に罪悪感と自己嫌悪がありましたね。覚醒剤は23歳できっぱりと絶ちました」
◆リストカット痕を消すために刺青を入れた
その後、24歳で妊娠と出産を経験。配偶者とはその後、離婚した。現在ゴメスさんの身体を覆う刺青を最初に入れたのは、27歳のときだったという。
「きっかけは、小学生のときから続いているリストカット痕を消すためでした。カバータトゥーというやつですね。家庭環境が苦しかった私は、小学生のときから自傷行為を繰り返していました。小学5年生のときは、筋繊維を傷つけてしまい、救急車を呼ぶ事態になりました。しばらくは、傷つけすぎて洗濯板のようになった自らの皮膚について誤魔化しながら生きてきたのですが、やはり自傷行為を止めようと考えて刺青を彫ることにしました。彫ってもらったその日から、私の皮膚は尊敬しているタトゥーアーティストの方の作品になるので、それを傷つけることはしないだろうと思ったんです。結果的に、奏功しました」
刺青を宿すことによって、ゴメスさんは自傷行為から解放された。また、人体改造にも目覚めた。
「身体のなかで気に入っているのは、『マイクロダーマルインプラント』と呼ばれる、埋込式のピアスでしょうか。それから、世間では嫌われる“2枚舌”であるスプリットタンにすることで、『自分は人に対して不誠実な対応をしない』という逆の誓いを得ました。また、さまざまな刺青を入れてきましたが、珍しがられるのは腋に入れた刺青ですね。腋という普段見せない場所に大きな目玉を彫ったんです。誰も見ていないと思っていても、必ず見られているという教訓を体現したものです」
◆母は「愛情の示し方がわからなかったのではないか」
今年、再婚相手との間に子どもが生まれたばかりだというゴメスさん。精神障害者保健福祉手帳を持つ彼女には、継続した養育が困難だった時期があり、現在は児童相談所に預けている。だが近日中に、一時帰宅の目処が立っているのだと嬉しそうに話す。
「私の母も愛してくれていたんだとは思います。実際に、愛情を感じた場面もあります。ただ、いろいろな状況のなかでその正しい示し方がわからなかったのではないかと感じます。私の子ども時代は、どんなときも母を愛していました。両親の“反省点”も含めて、私は私なりの子育てをしようと思えました。その点はポジティブにとらえています」
家族という密室空間が常に緊迫し、安心できない場所になれば、行き場のないフラストレーションが身体を蝕むこともあるだろう。暴力の方向を自らに向け、流れ出る血液でしか生を実感できないこともあるかもしれない。
ゴメスさんは荒野を生き抜いた。だがその荒野を指さして彼女は言う。「優しさがまったくない場所というわけでもなかったんです」と。おそらくその真偽を問うことに意味はない。ひとりの女性が世界を憎まずに生きたいと願った結果、捉え直した世界にこそ、意味がある。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki