X(旧Twitter)のスペースで流れてくるその女性の声は清涼感があり、聞く者を心地よさで包む独特の柔らかみがある。のしいか(@nosiikasan)さんだ。リスナーひとりひとりの名前を呼んで挨拶を欠かさない。落ち着いたトーンで、ゆっくりと語りかける。
その静寂さと裏腹に、彼女の半生は激動に満ちている。虐待される日々を必死で生き抜いた、虐待サバイバーだ。だが彼女は言う。「虐待を逃れて生き延びても、“虐待の終わり”は来ないんです」と。壮絶な日々とその後遺症に悩む姿を追った。
◆母の憂さ晴らしで虐待されていた幼少期
のしいかさんが生まれたのは関西地方。軽快なテンポで話す言葉のなかに、どきりとするワードが混じる。
「はっきりと家庭内の雰囲気が変わったと感じたのは、私が小学校に入学してからです。小1の健康診断で先天性心疾患を指摘され、手術を伴う入院を経験しました。退院すると、明らかに母の様子がおかしくなったんです。私を無視することが増え、やがて手をあげられることが多くなりました。
父はギャンブル依存症で、たびたび母を罵倒したり手をあげたりすることがありました。『心臓に欠陥があるのは、お前がまともに産まなかったからや』と母にあたっているのをみました。おそらくですが、その憂さを晴らすために、母は私を虐待したのだと思います。
平手打ち、ハンガーで殴るなどは当たり前で、タバコやアイロンを尻につけられ、いつも私は火傷を負っていました。また、一度だけですが、笛吹ケトルの熱湯を足の甲にかけられたことがあります。それ以来、私は笛吹ケトルの音を聞くだけで情緒がおかしくなってしまいました」
◆教室でも「いつもビクビクして過ごしていた」
のしいかさんの母親は我が娘を虐待することで、夫からの理不尽さに耐えたようにも思える。彼女を支えたのはもう一つ、酒だった。
「母はアルコール依存症でした。たとえば幼稚園のときも、酔いつぶれて迎えに来ないことがありました。暴力を振るうときは決まって飲んでいましたが、徐々に私が成長してくると、酔っぱらい相手なので逃げようと思えば逃げられるようになるんですよね。そのうち、酔って攻撃してくる母が可哀想に思えて。突き飛ばしたりすれば勝てるのでしょうけれども、あえて耐えるようなこともありました」
家庭でいつ暴力を振るわれるかもわからない幼少期、学校もまた居場所にはならなかった。
「まだ小学生のころは、いつもビクビクして過ごしていました。教師からすれば気に食わない児童だったのだと思います。くわえて、私はいつもお尻に火傷をしていて、椅子にきちんと座ることができませんでした。それを同級生に指摘されるなどして、どんどん『いじめてもいい存在』になっていきました。学校にも私の居場所はなかったんです」
そんな学校でも、唯一居場所と呼べるところがあった。
「図書室ですね。意外と人が少ないんです。昔から本が好きでしたので、外の世界に辛いことが多い私は、没頭することができました」
◆「学費が振り込まれていない」と呼び出され…
家庭にも学校にも居場所はない。孤独を選ぶ日々のなかで、のしいかさんは衝撃的な体験をする。
「小2くらいのときだったと思います。ひとりでじっとしていると、おじさんが近づいてきました。『下半身を蜂に刺されていたいから、お嬢ちゃんにさすってほしい』というんです。何もわからないまま私が下半身を撫でていると、明らかに何かが出ました。それで、おじさんは満足そうに帰っていきました。私は純粋に人助けをしたと思って、母に褒められたい一心で報告しましたが、それを聞いた母は烈火のごとく怒り、私は壁に突き飛ばされました。それ以降も、ひとりでいる私のところにはいろいろなおじさんがやってきて、スカートの中を覗く人もいたり、自慰行為を見てほしいという人がいたり――でもみんな優しく接してくれるなぁと思っていました」
明らかな性被害だが、当時ののしいかさんはそれを認識できていない。高校生にもなると、自分でも知らない間に、性的なハードルはかなり下がっていた。
「高2のとき、担任から『学費が振り込まれていない』と呼び出しを受けました。母はアルコールに溺れ、もはや家庭のなかで機能していませんでした。しかしその事実を父に告げても、『俺は稼いで、十分な金額を渡しているだろうが』と怒鳴り散らすのは目に見えています。そうなれば、母が殴られ、そのしわ寄せが私に来るのは明らかです。私は、自分で身体を売って稼ぐしかないと考えました」
◆男性からの“報酬”で大学受験にまで至るが…
高校では“ガリ勉キャラ”だったというのしいかさんは、驚くべき行動に出る。
「学校帰り、とある駅まで行くんです。持つのは片道分の電車賃のみ。客を取れなかったら帰れないという背水の陣で、公衆電話に向かいました。ツーショットダイヤルという、出会い系の原型のようなサービスが当時あり、それにアクセスするためです」
“高校生ブランド”があったのしいかさんは、男性に抱かれることで高額な報酬を得た。
「いろいろな人がいました。『制服を持ってきてくれればもっとお小遣いあげるよ』という人もいたり、反対に私の身体を見て『傷だらけだから値段をまけてくれ』という人も。だいたいひとり3〜7万円くらいだったと記憶しています。そのお金で私は高校に通い、大学受験までを凌ぎました」
さらに驚くのは大学受験の結果だ。
「男性と会っている以外はずっと勉強をする生活だったので、大阪大学の文学部に合格することができました」
◆大学進学を断念したのち、19歳で結婚
だがのしいかさんの入学は立ち消えた。
「阪大合格をつげても、父は『どうせ嫁にやるのに学をつけて何になるんだ』というし、母は『近所の◯◯ちゃんは法学部よ。文学部なんてダメ』とけなします。何をしても認めてもらえない辛さ、私にマウントを取ってやる気をくじくことに腐心する姿をみて、『もうここにはいたくない』とバッグにとりあえずのものを詰めて家出をしました。大学には、入学できませんでした」
その後ののしいかさんの人生もまた、波乱に満ちている。路上生活をしながら売春行為を繰り返し、客とホテルに宿泊するか、それ以外は公園で夜を明かした。そんななか、とある飲食店に出入りするようになり、19歳でオーナーと結婚。
「結婚相手に借金があり、水商売で働いて家計を助けなくてはなりませんでした。かなりの過重労働で、摂食障害などの症状が出てしまい、私は倒れました。でも配偶者は私の身体の心配をしてくれず、『店の罰金支払わないといけないじゃん』と常にお金のことばかり考えていました。体調が悪く市販薬に頼っている私を、『市販薬依存で働けないようなやつはいらない』と配偶者は家から叩き出しました」
◆母の葬儀でいがみ合う「母の親族と父の親族」
追い出されたのしいかさんが頼ったのは、夜の店の客。店では金払いのいい客だったが、愛人となってからは束縛が激しくなった。
「ホテルを用意され、彼が経営する会社で働くことを強いられました。けれども独占欲の強い人で、他の社員と話すことにも苛立つような人です。当然、社長の愛人ですから、社内でも腫れ物扱いでした。常に与えられた場所にいて、外に出ることは許されず、会社までの往復をするだけの生活でした。思えば唯一の癒やしは読書だったかもしれません」
のしいかさんは30歳を目前にしたある日、着の身着のままで脱出し、上京した。
時間軸が前後するが、アルコール依存症だったのしいかさんの母親は、のしいかさんが19歳のころ、他界している。
「家族に行き先を告げず、私は家出をしました。唯一居場所を教えていた友人が母の危篤を知らせてくれました。病院で見る母はチューブなどに繋がれ、大量の吐血があったことがわかりました。肝硬変を患い、食道の静脈から出血したというのです。母が亡くなってからも、母の親族と父の親族はいがみ合い、言い争いをする始末でした。葬儀のあと、私はまた彼らの前から姿を消すことにしました」
◆「父の生存」がもたらしたPTSDの症状
それ以来連絡をまったく取らなかった父親。だが意外な形で生存を確認することになった。
「2年前、ある自治体から封書が届きました。生活保護扶養照会です。なぜだか理由はわからないのですが、その日以来、妙にリアルな悪夢をみて心臓が大きく波打ったり、ヘッドフォンをして音楽を聴いているのに母の声が聞こえたりするような症状が現れたんです」
精神科を受診したところ、診断は複雑性PTSD。のしいかさんは、自分の心が疲弊しているのを知った。
「虐待の後遺症なのだと思います。でも不思議ですよね。虐待を受けて、そこを生き延びてから、もうだいぶ時間が経っているのに、今も苦しむんです。だから、虐待に終わりなんてないんだと私は思っています」
◆「友人の子ども」に触れていいか悩む
たとえば日常の些細な場面においても、いたたまれない思いをすることがあるという。
「何気ない会話でも、ふとしたときに深く落ち込むことがあります。『正月は実家に帰るの?』『親には顔を見せてるの?』なんて言われると、悪意はないとわかっていても暗い気持ちになります。Googleストリートビューでみると、私の実家があった場所は駐車場になっていたんです。その家は帰りたいと思える家ではなかった。そのことが、とても切なくなるときがあります。
信頼できるかもと思った人に、『虐待は連鎖するっていうからね』と言われたときも、『私はそんなにダメな人間なのか』と落ち込みました。かといって、哀れみの目で見られるのも耐えられないんです。きっと扱いに困るだろうな、というのは自分でもわかっています」
その出自において必ずしも幸福ではなかったという自認は、たとえばこんな感情を呼び起こすのだという。
「友人に子どもが生まれたとき、『私がこの子に触れていいのだろうか』と思ってしまいます。“不幸菌”みたいなものがついて、この子の未来を汚してしまうようで、気が引けるんです。上京してから、紳士服店に勤務していたこともあったのですが、家族で買いに来ている人たちを見ると、自分がここで接客してはいけないのではないかという感覚になるんです」
◆できるなら、母のことも救いたかった
心に深手を負いながらも、SNSなどで自身の現況を発信し続けるのしいかさん。配信の根底にはこんな思いがある。
「当たり前ですが、ひとりでいる夜、テレビをつけても情報を一方通行で流すだけでそこに『私』がいないと思ったんです。だから私は、眠れない夜を過ごしている人たちに向けて、スペースで音声を発信するようにしているんです。なるべくリスナーの名前を呼ぶようにしているのも、そのためです」
自らの生き方を通して、のしいかさんが伝えたいこととはなにか。
「難しいですよね。『辛い体験をしても、生きていればいいことがあるよ』。もちろんそう言いたいけど、世の中がそんなに単純になっていないことは私や同じ体験をした人はよく知っていることなので。でも私のように、こうやって笑える日常がくる大丈夫なパターンもあるんだよ、とは伝えたいですね」
インタビューの最後、のしいかさんは「できるなら、母のことも救いたかった」と呟いた。虐待の末に逃れついた場所でなお、被害者は加害者を思う。それは子が親を思う原石に近い感情であり、当事者にしか理解しえない迷路のような猥雑さ。
虐待に終焉はこない。だがそれは被害者が永劫苦しむという不吉な予言ではない。さまざまな出会いによって、人生を塗り替えられるという希望も含んでいる。のしいかさんの澄んだ声が、今は地底でうずくまる誰かの耳に届きますように。同じ傷を抱えた顔の見えない相手を思って、彼女は今日も語りかける。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki
その静寂さと裏腹に、彼女の半生は激動に満ちている。虐待される日々を必死で生き抜いた、虐待サバイバーだ。だが彼女は言う。「虐待を逃れて生き延びても、“虐待の終わり”は来ないんです」と。壮絶な日々とその後遺症に悩む姿を追った。
◆母の憂さ晴らしで虐待されていた幼少期
のしいかさんが生まれたのは関西地方。軽快なテンポで話す言葉のなかに、どきりとするワードが混じる。
「はっきりと家庭内の雰囲気が変わったと感じたのは、私が小学校に入学してからです。小1の健康診断で先天性心疾患を指摘され、手術を伴う入院を経験しました。退院すると、明らかに母の様子がおかしくなったんです。私を無視することが増え、やがて手をあげられることが多くなりました。
父はギャンブル依存症で、たびたび母を罵倒したり手をあげたりすることがありました。『心臓に欠陥があるのは、お前がまともに産まなかったからや』と母にあたっているのをみました。おそらくですが、その憂さを晴らすために、母は私を虐待したのだと思います。
平手打ち、ハンガーで殴るなどは当たり前で、タバコやアイロンを尻につけられ、いつも私は火傷を負っていました。また、一度だけですが、笛吹ケトルの熱湯を足の甲にかけられたことがあります。それ以来、私は笛吹ケトルの音を聞くだけで情緒がおかしくなってしまいました」
◆教室でも「いつもビクビクして過ごしていた」
のしいかさんの母親は我が娘を虐待することで、夫からの理不尽さに耐えたようにも思える。彼女を支えたのはもう一つ、酒だった。
「母はアルコール依存症でした。たとえば幼稚園のときも、酔いつぶれて迎えに来ないことがありました。暴力を振るうときは決まって飲んでいましたが、徐々に私が成長してくると、酔っぱらい相手なので逃げようと思えば逃げられるようになるんですよね。そのうち、酔って攻撃してくる母が可哀想に思えて。突き飛ばしたりすれば勝てるのでしょうけれども、あえて耐えるようなこともありました」
家庭でいつ暴力を振るわれるかもわからない幼少期、学校もまた居場所にはならなかった。
「まだ小学生のころは、いつもビクビクして過ごしていました。教師からすれば気に食わない児童だったのだと思います。くわえて、私はいつもお尻に火傷をしていて、椅子にきちんと座ることができませんでした。それを同級生に指摘されるなどして、どんどん『いじめてもいい存在』になっていきました。学校にも私の居場所はなかったんです」
そんな学校でも、唯一居場所と呼べるところがあった。
「図書室ですね。意外と人が少ないんです。昔から本が好きでしたので、外の世界に辛いことが多い私は、没頭することができました」
◆「学費が振り込まれていない」と呼び出され…
家庭にも学校にも居場所はない。孤独を選ぶ日々のなかで、のしいかさんは衝撃的な体験をする。
「小2くらいのときだったと思います。ひとりでじっとしていると、おじさんが近づいてきました。『下半身を蜂に刺されていたいから、お嬢ちゃんにさすってほしい』というんです。何もわからないまま私が下半身を撫でていると、明らかに何かが出ました。それで、おじさんは満足そうに帰っていきました。私は純粋に人助けをしたと思って、母に褒められたい一心で報告しましたが、それを聞いた母は烈火のごとく怒り、私は壁に突き飛ばされました。それ以降も、ひとりでいる私のところにはいろいろなおじさんがやってきて、スカートの中を覗く人もいたり、自慰行為を見てほしいという人がいたり――でもみんな優しく接してくれるなぁと思っていました」
明らかな性被害だが、当時ののしいかさんはそれを認識できていない。高校生にもなると、自分でも知らない間に、性的なハードルはかなり下がっていた。
「高2のとき、担任から『学費が振り込まれていない』と呼び出しを受けました。母はアルコールに溺れ、もはや家庭のなかで機能していませんでした。しかしその事実を父に告げても、『俺は稼いで、十分な金額を渡しているだろうが』と怒鳴り散らすのは目に見えています。そうなれば、母が殴られ、そのしわ寄せが私に来るのは明らかです。私は、自分で身体を売って稼ぐしかないと考えました」
◆男性からの“報酬”で大学受験にまで至るが…
高校では“ガリ勉キャラ”だったというのしいかさんは、驚くべき行動に出る。
「学校帰り、とある駅まで行くんです。持つのは片道分の電車賃のみ。客を取れなかったら帰れないという背水の陣で、公衆電話に向かいました。ツーショットダイヤルという、出会い系の原型のようなサービスが当時あり、それにアクセスするためです」
“高校生ブランド”があったのしいかさんは、男性に抱かれることで高額な報酬を得た。
「いろいろな人がいました。『制服を持ってきてくれればもっとお小遣いあげるよ』という人もいたり、反対に私の身体を見て『傷だらけだから値段をまけてくれ』という人も。だいたいひとり3〜7万円くらいだったと記憶しています。そのお金で私は高校に通い、大学受験までを凌ぎました」
さらに驚くのは大学受験の結果だ。
「男性と会っている以外はずっと勉強をする生活だったので、大阪大学の文学部に合格することができました」
◆大学進学を断念したのち、19歳で結婚
だがのしいかさんの入学は立ち消えた。
「阪大合格をつげても、父は『どうせ嫁にやるのに学をつけて何になるんだ』というし、母は『近所の◯◯ちゃんは法学部よ。文学部なんてダメ』とけなします。何をしても認めてもらえない辛さ、私にマウントを取ってやる気をくじくことに腐心する姿をみて、『もうここにはいたくない』とバッグにとりあえずのものを詰めて家出をしました。大学には、入学できませんでした」
その後ののしいかさんの人生もまた、波乱に満ちている。路上生活をしながら売春行為を繰り返し、客とホテルに宿泊するか、それ以外は公園で夜を明かした。そんななか、とある飲食店に出入りするようになり、19歳でオーナーと結婚。
「結婚相手に借金があり、水商売で働いて家計を助けなくてはなりませんでした。かなりの過重労働で、摂食障害などの症状が出てしまい、私は倒れました。でも配偶者は私の身体の心配をしてくれず、『店の罰金支払わないといけないじゃん』と常にお金のことばかり考えていました。体調が悪く市販薬に頼っている私を、『市販薬依存で働けないようなやつはいらない』と配偶者は家から叩き出しました」
◆母の葬儀でいがみ合う「母の親族と父の親族」
追い出されたのしいかさんが頼ったのは、夜の店の客。店では金払いのいい客だったが、愛人となってからは束縛が激しくなった。
「ホテルを用意され、彼が経営する会社で働くことを強いられました。けれども独占欲の強い人で、他の社員と話すことにも苛立つような人です。当然、社長の愛人ですから、社内でも腫れ物扱いでした。常に与えられた場所にいて、外に出ることは許されず、会社までの往復をするだけの生活でした。思えば唯一の癒やしは読書だったかもしれません」
のしいかさんは30歳を目前にしたある日、着の身着のままで脱出し、上京した。
時間軸が前後するが、アルコール依存症だったのしいかさんの母親は、のしいかさんが19歳のころ、他界している。
「家族に行き先を告げず、私は家出をしました。唯一居場所を教えていた友人が母の危篤を知らせてくれました。病院で見る母はチューブなどに繋がれ、大量の吐血があったことがわかりました。肝硬変を患い、食道の静脈から出血したというのです。母が亡くなってからも、母の親族と父の親族はいがみ合い、言い争いをする始末でした。葬儀のあと、私はまた彼らの前から姿を消すことにしました」
◆「父の生存」がもたらしたPTSDの症状
それ以来連絡をまったく取らなかった父親。だが意外な形で生存を確認することになった。
「2年前、ある自治体から封書が届きました。生活保護扶養照会です。なぜだか理由はわからないのですが、その日以来、妙にリアルな悪夢をみて心臓が大きく波打ったり、ヘッドフォンをして音楽を聴いているのに母の声が聞こえたりするような症状が現れたんです」
精神科を受診したところ、診断は複雑性PTSD。のしいかさんは、自分の心が疲弊しているのを知った。
「虐待の後遺症なのだと思います。でも不思議ですよね。虐待を受けて、そこを生き延びてから、もうだいぶ時間が経っているのに、今も苦しむんです。だから、虐待に終わりなんてないんだと私は思っています」
◆「友人の子ども」に触れていいか悩む
たとえば日常の些細な場面においても、いたたまれない思いをすることがあるという。
「何気ない会話でも、ふとしたときに深く落ち込むことがあります。『正月は実家に帰るの?』『親には顔を見せてるの?』なんて言われると、悪意はないとわかっていても暗い気持ちになります。Googleストリートビューでみると、私の実家があった場所は駐車場になっていたんです。その家は帰りたいと思える家ではなかった。そのことが、とても切なくなるときがあります。
信頼できるかもと思った人に、『虐待は連鎖するっていうからね』と言われたときも、『私はそんなにダメな人間なのか』と落ち込みました。かといって、哀れみの目で見られるのも耐えられないんです。きっと扱いに困るだろうな、というのは自分でもわかっています」
その出自において必ずしも幸福ではなかったという自認は、たとえばこんな感情を呼び起こすのだという。
「友人に子どもが生まれたとき、『私がこの子に触れていいのだろうか』と思ってしまいます。“不幸菌”みたいなものがついて、この子の未来を汚してしまうようで、気が引けるんです。上京してから、紳士服店に勤務していたこともあったのですが、家族で買いに来ている人たちを見ると、自分がここで接客してはいけないのではないかという感覚になるんです」
◆できるなら、母のことも救いたかった
心に深手を負いながらも、SNSなどで自身の現況を発信し続けるのしいかさん。配信の根底にはこんな思いがある。
「当たり前ですが、ひとりでいる夜、テレビをつけても情報を一方通行で流すだけでそこに『私』がいないと思ったんです。だから私は、眠れない夜を過ごしている人たちに向けて、スペースで音声を発信するようにしているんです。なるべくリスナーの名前を呼ぶようにしているのも、そのためです」
自らの生き方を通して、のしいかさんが伝えたいこととはなにか。
「難しいですよね。『辛い体験をしても、生きていればいいことがあるよ』。もちろんそう言いたいけど、世の中がそんなに単純になっていないことは私や同じ体験をした人はよく知っていることなので。でも私のように、こうやって笑える日常がくる大丈夫なパターンもあるんだよ、とは伝えたいですね」
インタビューの最後、のしいかさんは「できるなら、母のことも救いたかった」と呟いた。虐待の末に逃れついた場所でなお、被害者は加害者を思う。それは子が親を思う原石に近い感情であり、当事者にしか理解しえない迷路のような猥雑さ。
虐待に終焉はこない。だがそれは被害者が永劫苦しむという不吉な予言ではない。さまざまな出会いによって、人生を塗り替えられるという希望も含んでいる。のしいかさんの澄んだ声が、今は地底でうずくまる誰かの耳に届きますように。同じ傷を抱えた顔の見えない相手を思って、彼女は今日も語りかける。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki