その女性は先天的に手足の指の一部を欠損して生まれた。それだけでなく、唇が裂けて生まれる口唇裂も患っていたという。現在はカウンセラーとしても活動するmanaさん(@kokoronokizucom)、44歳だ。
先天的な障害を理由に実の両親からの虐待を受けた女性の生涯を追う。
◆「腰椎が変形していた」原因は……
manaさんは東京都に生まれた。まだmanaさんには記憶もないころの話を、祖母からは繰り返し語られたのだという。
「聞いているのは、父が私の母方の祖母に私の障害について報告した際、『それなら医者に頼んで殺してもらいなさい』と言われたらしいんです。さすがの父もそれはできないということで、実行はしなかったようですが」
“さすがの父”は、こんな人物だ。
「3歳前後から8歳まで継続的に続いたことですが、父が私の脚をもって無理矢理開脚してきたことがありました。そして、上からのしかかって、身体を上下させてきたのです。当時は、もちろんそれが何を意味するのかまったくわかりませんでした。ちなみに後年、私の腰椎が変形していることがわかりました。おそらく、幼い頃の父のこの行為が原因ではないかと私は思うのです。また、母が私を養育する気がまったくなかったため、風呂に入れるなどはもっぱら父の役目でした。そこで、父は幼い私の身体を“洗う”という大義のもと、不必要に触れてきたんです。そればかりか、一度、挿入行為があったようにも記憶しています。かなりの痛みで私は泣きましたが、シャワーの音でかき消されてしまいました」
◆日常的に「産んだことを後悔している」と言っていた
父親の所業には思わず顔をしかめたくなるが、母親の子育てもまた常軌を逸している。
「母は日常的に『産んだことを後悔している』と言っていました。障害を持つ私は母にとって恥ずかしい存在であり、隠さなければいけない子どもでした。したがって、公園などに連れて行ってもらったことはありません。殴るなどの暴力は当たり前で、手をアイロンで焼かれるなども経験しました」
幼少期から、manaさんは両親に隷属することで生き延びてきたのだと話す。したがって、両親の決定に異議を申し立てることなど皆無だった。
「母親が近所の目を気にする人だったので、地元の小学校には行かせられないという判断のもと、私立小学校へ進学しました。しかしそこでイジメに遭ってしまいました。見た目が異形である私の言うことは信頼されず、勝手に『manaさんがこう言っていました』などといろんなことを吹聴され、居場所がなくなってしまったんです。そこで、中高一貫の私立中学を受験して入学しました」
◆母に加え、教師からも冷たい扱いを受ける
だが逃れ辿り着いた先でさらなる辛酸を舐めることになる。
「一番印象に残っているのは、障害を打ち明けた友人に“ハブ”にされたことですね。一瞬にしてひとりになった私は、その日以降3年間、毎日教室の真ん中でひとりでお弁当を食べました。母に相談しましたが、『甘えるんじゃない』と一喝されました。私の記憶では、当時の母は不倫をしていて、私のことなど見ていなかったんです。『やっぱり母は助けてくれないんだ』と悲しかったですね。担任はもともと私を相手にしていないような人で、相談しても『もう小学生じゃないんだから、自分で解決しなさい』となしのつぶてでした」
さらに体育の授業では屈辱的な思いをすることになる。
「裸足になって踊るダンスがありました。私は足の指も欠損しているため、それを全校生徒に知られるのが嫌で、体育の担当教諭に相談しました。しかし『あなただけが靴下を履いていたら、逆に目立つ』と言われて学年全員の前で裸足で踊ることを強要されました。ちなみに当時のダンスに使われていた曲は麻倉未稀 さんの『What a feeling〜Frashdance〜』でした。つい昨年、私は乳がんを患い、手術前にその麻倉さんとSNSでつながることができました。当時は苦しい思い出だったその曲が、私の生きる勇気に変わったことは面白い因果だなと思います」
◆大学合格を機に母の態度が大きく変わるも…
潮目が変わったのは、高校入学だったという。
「二度といじめにあいたくないと思い、中学卒業から高校入学までの間に8キロダイエットをしたんです。それから、勉強をかなり頑張って成績が急上昇しました。それによって特進コースという、学内では一目置かれたクラスに所属することになりました。すると、これまで私を軽んじてきた中学時代の加害者も好意的になり、そればかりか教師も手のひらを返したように態度が軟化しました。件の体育の授業におけるダンスも、私の一言でクラス全員が靴の着用を認められました。気分がよくなるというより、人間の醜さを知ったような気がしました」
だが実のところ、最も手のひらを返したのは母親だ。
「勉強の甲斐があって大学へ合格することができました。すると、“恥ずかしい子”だった私はこれまで一度も親戚の集まりに連れて行ってもらったことはありませんでしたが、急に母は鼻高々で連れ回すようになりました。そのあたりから、母は私と風呂に入ることを強要するようになったのです。そればかりか、『教えてあげる』と言って胸や股を触ってきたりするようになりました」
◆バイト先の社長から「真ん中に寝るよう指示され…」
徹底した無関心から、異常性を帯びた過干渉へ豹変した母親。対応が変わっても、manaさんの奥底に根付いた考え方は何も変わっていない。だからこそ、こんな被害にも遭った。
「私の根本は、両親に対する従属です。くわえて、自分には愛される価値がないという考え方がこびりついていたんです。だから、関わる人から搾取される日々でした。 たとえば母の紹介で入ったバイト先では、社長から性的被害に遭いました。社長夫人から誘われて自宅に行ってみると、終電まで飲まされたんです。寝室には3枚の布団がすでに敷かれていて、私は真ん中に寝るよう指示されました。最初は社長が布団に入ってきて、あとから社長夫人も私の身体を触ったり、写真を撮影したりし始めました。あとから聞いた話ですが、2人はそうした性癖のある夫婦だったようなのです」
この一件でmanaさんが抱えた感情は意外なものだ。
「人と違う形で生まれた私は、『こんなことがあっても誰も助けてはくれない。やめてと泣いてもあざ笑われるだけだ。私はどうして生きていなきゃいけないんだろう』と思いました。悲しく思う反面、幼いときから周りからそうした扱いを受けてきたので、耐えることしかできなかったんです」
◆虐待について「証拠があるなら出せ」と主張
manaさんは現在、夫と2人の子どもと暮らす。そうした思考回路から解放してくれたのは、間違いなく夫だったと彼女は語る。
「人と違って生まれても、そのままの私を見て愛してくれる。私が死にたいと泣いてもずっと隣で私を助け続けてくれた。大変な経験をしてやっとの思いで家庭が築けた私は、親の愛情がいかに大切かを身をもって知っているので、それを自らの子育てに活かしてきたつもりです」
現在、manaさんの両親との関係はこんなふうになっている。
「節目で会う機会がありましたが、母は私に対する虐待を認めないですね。『証拠があるなら出せ』と言っています。虐待の事実は年月が経過してから自覚することが大半で、証拠を提示できる場合のほうが少ないはずです。それをわかっていながら、彼女はそう主張するんです。また、私が大学時代に性的被害に遭ったことをわざわざ子どもの前で話し、『あなたは当時、心療内科で処方された薬を飲んでいたから、記憶が錯乱している』という趣旨の蔑みを行ったりします。こうした態度には、私の家族も呆れていました。何を話しても平行線なので、今は事実上の絶縁状態です」
◆加害者を気にしている時間などない
manaさんはこれから、目指す姿があるという。
「大病を経験してあとどれだけ生きられるかわからないから、加害者を気にしている時間などないのです。生きる気力をなくしている人たちが一人でも私の生き方を見て、『もう少し頑張って生きてみよう』と思ってくれたら、私は生まれた意味があったと思えるんです」
他者に汚された記憶を後ろめたさとして捉えず、被害だとまっすぐに言えるまでには時間がかかる。まして加害者が知らぬ存ぜぬを貫いたらどうか。二次被害の甚大さは計り知れない。翻ってmanaさんの物言いが上滑りせずに聴く者の心へ届くのは、被害体験を誇張も矮小化もせずにありのまま保存して言葉を紡ぐからだろう。言葉に傷ついてきたmanaさんが、言葉によって人を助ける職業を選んだ。人は人によって傷つくが、人によって回復する。自らの人生を生きるとはどういうことか、manaさんの一言一言が語りかけてくる。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki
先天的な障害を理由に実の両親からの虐待を受けた女性の生涯を追う。
◆「腰椎が変形していた」原因は……
manaさんは東京都に生まれた。まだmanaさんには記憶もないころの話を、祖母からは繰り返し語られたのだという。
「聞いているのは、父が私の母方の祖母に私の障害について報告した際、『それなら医者に頼んで殺してもらいなさい』と言われたらしいんです。さすがの父もそれはできないということで、実行はしなかったようですが」
“さすがの父”は、こんな人物だ。
「3歳前後から8歳まで継続的に続いたことですが、父が私の脚をもって無理矢理開脚してきたことがありました。そして、上からのしかかって、身体を上下させてきたのです。当時は、もちろんそれが何を意味するのかまったくわかりませんでした。ちなみに後年、私の腰椎が変形していることがわかりました。おそらく、幼い頃の父のこの行為が原因ではないかと私は思うのです。また、母が私を養育する気がまったくなかったため、風呂に入れるなどはもっぱら父の役目でした。そこで、父は幼い私の身体を“洗う”という大義のもと、不必要に触れてきたんです。そればかりか、一度、挿入行為があったようにも記憶しています。かなりの痛みで私は泣きましたが、シャワーの音でかき消されてしまいました」
◆日常的に「産んだことを後悔している」と言っていた
父親の所業には思わず顔をしかめたくなるが、母親の子育てもまた常軌を逸している。
「母は日常的に『産んだことを後悔している』と言っていました。障害を持つ私は母にとって恥ずかしい存在であり、隠さなければいけない子どもでした。したがって、公園などに連れて行ってもらったことはありません。殴るなどの暴力は当たり前で、手をアイロンで焼かれるなども経験しました」
幼少期から、manaさんは両親に隷属することで生き延びてきたのだと話す。したがって、両親の決定に異議を申し立てることなど皆無だった。
「母親が近所の目を気にする人だったので、地元の小学校には行かせられないという判断のもと、私立小学校へ進学しました。しかしそこでイジメに遭ってしまいました。見た目が異形である私の言うことは信頼されず、勝手に『manaさんがこう言っていました』などといろんなことを吹聴され、居場所がなくなってしまったんです。そこで、中高一貫の私立中学を受験して入学しました」
◆母に加え、教師からも冷たい扱いを受ける
だが逃れ辿り着いた先でさらなる辛酸を舐めることになる。
「一番印象に残っているのは、障害を打ち明けた友人に“ハブ”にされたことですね。一瞬にしてひとりになった私は、その日以降3年間、毎日教室の真ん中でひとりでお弁当を食べました。母に相談しましたが、『甘えるんじゃない』と一喝されました。私の記憶では、当時の母は不倫をしていて、私のことなど見ていなかったんです。『やっぱり母は助けてくれないんだ』と悲しかったですね。担任はもともと私を相手にしていないような人で、相談しても『もう小学生じゃないんだから、自分で解決しなさい』となしのつぶてでした」
さらに体育の授業では屈辱的な思いをすることになる。
「裸足になって踊るダンスがありました。私は足の指も欠損しているため、それを全校生徒に知られるのが嫌で、体育の担当教諭に相談しました。しかし『あなただけが靴下を履いていたら、逆に目立つ』と言われて学年全員の前で裸足で踊ることを強要されました。ちなみに当時のダンスに使われていた曲は麻倉未稀 さんの『What a feeling〜Frashdance〜』でした。つい昨年、私は乳がんを患い、手術前にその麻倉さんとSNSでつながることができました。当時は苦しい思い出だったその曲が、私の生きる勇気に変わったことは面白い因果だなと思います」
◆大学合格を機に母の態度が大きく変わるも…
潮目が変わったのは、高校入学だったという。
「二度といじめにあいたくないと思い、中学卒業から高校入学までの間に8キロダイエットをしたんです。それから、勉強をかなり頑張って成績が急上昇しました。それによって特進コースという、学内では一目置かれたクラスに所属することになりました。すると、これまで私を軽んじてきた中学時代の加害者も好意的になり、そればかりか教師も手のひらを返したように態度が軟化しました。件の体育の授業におけるダンスも、私の一言でクラス全員が靴の着用を認められました。気分がよくなるというより、人間の醜さを知ったような気がしました」
だが実のところ、最も手のひらを返したのは母親だ。
「勉強の甲斐があって大学へ合格することができました。すると、“恥ずかしい子”だった私はこれまで一度も親戚の集まりに連れて行ってもらったことはありませんでしたが、急に母は鼻高々で連れ回すようになりました。そのあたりから、母は私と風呂に入ることを強要するようになったのです。そればかりか、『教えてあげる』と言って胸や股を触ってきたりするようになりました」
◆バイト先の社長から「真ん中に寝るよう指示され…」
徹底した無関心から、異常性を帯びた過干渉へ豹変した母親。対応が変わっても、manaさんの奥底に根付いた考え方は何も変わっていない。だからこそ、こんな被害にも遭った。
「私の根本は、両親に対する従属です。くわえて、自分には愛される価値がないという考え方がこびりついていたんです。だから、関わる人から搾取される日々でした。 たとえば母の紹介で入ったバイト先では、社長から性的被害に遭いました。社長夫人から誘われて自宅に行ってみると、終電まで飲まされたんです。寝室には3枚の布団がすでに敷かれていて、私は真ん中に寝るよう指示されました。最初は社長が布団に入ってきて、あとから社長夫人も私の身体を触ったり、写真を撮影したりし始めました。あとから聞いた話ですが、2人はそうした性癖のある夫婦だったようなのです」
この一件でmanaさんが抱えた感情は意外なものだ。
「人と違う形で生まれた私は、『こんなことがあっても誰も助けてはくれない。やめてと泣いてもあざ笑われるだけだ。私はどうして生きていなきゃいけないんだろう』と思いました。悲しく思う反面、幼いときから周りからそうした扱いを受けてきたので、耐えることしかできなかったんです」
◆虐待について「証拠があるなら出せ」と主張
manaさんは現在、夫と2人の子どもと暮らす。そうした思考回路から解放してくれたのは、間違いなく夫だったと彼女は語る。
「人と違って生まれても、そのままの私を見て愛してくれる。私が死にたいと泣いてもずっと隣で私を助け続けてくれた。大変な経験をしてやっとの思いで家庭が築けた私は、親の愛情がいかに大切かを身をもって知っているので、それを自らの子育てに活かしてきたつもりです」
現在、manaさんの両親との関係はこんなふうになっている。
「節目で会う機会がありましたが、母は私に対する虐待を認めないですね。『証拠があるなら出せ』と言っています。虐待の事実は年月が経過してから自覚することが大半で、証拠を提示できる場合のほうが少ないはずです。それをわかっていながら、彼女はそう主張するんです。また、私が大学時代に性的被害に遭ったことをわざわざ子どもの前で話し、『あなたは当時、心療内科で処方された薬を飲んでいたから、記憶が錯乱している』という趣旨の蔑みを行ったりします。こうした態度には、私の家族も呆れていました。何を話しても平行線なので、今は事実上の絶縁状態です」
◆加害者を気にしている時間などない
manaさんはこれから、目指す姿があるという。
「大病を経験してあとどれだけ生きられるかわからないから、加害者を気にしている時間などないのです。生きる気力をなくしている人たちが一人でも私の生き方を見て、『もう少し頑張って生きてみよう』と思ってくれたら、私は生まれた意味があったと思えるんです」
他者に汚された記憶を後ろめたさとして捉えず、被害だとまっすぐに言えるまでには時間がかかる。まして加害者が知らぬ存ぜぬを貫いたらどうか。二次被害の甚大さは計り知れない。翻ってmanaさんの物言いが上滑りせずに聴く者の心へ届くのは、被害体験を誇張も矮小化もせずにありのまま保存して言葉を紡ぐからだろう。言葉に傷ついてきたmanaさんが、言葉によって人を助ける職業を選んだ。人は人によって傷つくが、人によって回復する。自らの人生を生きるとはどういうことか、manaさんの一言一言が語りかけてくる。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki