はじめましての方もはじめましてじゃない方もこんにちは。ミニマリストの阪口ゆうこ(@sakaguchiyuko___)です。 こう見えて、息子と娘の2人の子持ちです。
子どもを育てるのは、想像していたよりも面倒臭いことやモヤモヤすることが多かった。しかし、毎日モヤモヤしながら育児をする自分に嫌気がさして、ミニマリストらしくイライラの「種」になる部分からまるっとやめました。
前回の記事《寝かしつけをやめて、おもちゃは買わない。ミニマリストが生み出した「やめる育児」の”驚きの効果”》に引き続き、今回もミニマリストである筆者が、子育てでやめて好転したことを書きます。
◆ママ友いなくても問題なかった
「ママ友」という言葉を知っているだろうか。子どもがいる方は一度は聞いたことがあるのではないだろうか。この「ママ友」がいなくて寂しく孤独な思いをしている人は意外と多い。
我が子が小学校に入学する前に、友人から聞いた話がある。「小学校ではママ友を作ったほうがいいよ。子どもの相談も聞いてもらえるし、イベントもひとりじゃなくていいし、学校生活でもいろんな情報を得られるし」と。控えめに言っていいことばかりだと聞いていた。
ママ友に関しては自分自身も「作りたい」という思いがあった。というのも、保育園で出会った保護者の方が皆、気持ちのいい方だったのだ。送迎の際に少しだけ話をする程度だったが、「仕事がなかったらもっと仲良くなって遊べるのにね」と、話すことが多かった。その経験からママ友という存在には良い印象があった。
ところがどっこい、私にママ友はできなかった。はい、ひとりも。
◆ママ友ができなかった理由
私にママ友ができなかった理由がある。それもはっきりくっきりとした大きな理由が。それは、共通の話題である「子どもの話」をしなかったということ。
ママ友がいると保護者ライフが豊かになるという友人の言葉に影響を受けた私は、学校関係の集まりの際に「うちの子がお世話になってます〜」という挨拶回りにパワーを使っていた。
そんなある日、息子が言った。「あのさ、僕の話を外でしてるよね?」。
◆息子の話をしているのがバレたワケ
話を聞くと、家で起こった息子の面白エピソードを、私がママ友に話す→ママ友が、息子のクラスメイトである自分の子に話す→エピソード、息子に戻る。という地獄のような伝言ゲームになったらしい。
それからは「我が子の話」を封印し、「ママ友の子どもの話」も聞くのを避けた。ママ友の子も息子と同じように感じるのではないか、そして私も誰かに言いそう。いや、言うに決まっていると思ったのだ。私は自分を過信しない、とんでもなくおしゃべり野郎の自覚はある。
そして共通の「我が子の話」を失うと、話題がなくなった。そして、短い間ではあったが、確かにいたはずのママ友もいつの間にかいなくなっていた。でも、問題はなかった。子どもの相談も聞いてもらえて、イベントも一緒に行けて楽しいし、学校生活の上でもいろんな情報を得られるというママ友は、いなくても困ることはなかったのだ。
子どもの相談なんてした日には、我が子に徹底的に嫌われるのはほぼ確定だったし、イベントも1人のほうが自由度が高くて気楽だったし、学校生活の情報も我が子が学校に直接問い合わせるタイプだったので不要だった。
保育園で出会った保護者の方が、皆気持ちのいい方だと感じたのは、いい距離感で付き合えていたからなのかもしれない。送迎の際に少しだけ話をする程度が良かったのだと思う。ママ友はできなくても問題なかった。それよりも子どもに嫌われなくてよかった。
◆ゲームやスマホの制限をやめた
宿題も時間割もしないでゲームとスマホ触ってる。と、日々子どもに腹を立てている保護者は多い。やらなければならないことを後回しにして、やらなくてもいいことを優先している姿にイライラするのだろう。そしてイライラが頂点に達した時、スマホやゲームに時間制限をかけたり、取り上げるという家庭もある。
我が家は制限をしなかった。イライラすることもあったが、一度与えたゲームやスマホを取り上げる行為は、本質的な問題点とズレているように思ったからだ。
本当の問題は、スマホやゲームなどのデバイスではなく、やらなければならないことを先送りし遊びを優先してしまう「本人」に問題があると思ったからだ。
◆実際にやってきたアプローチ
やらなければいけないことを先送りにする我が子に、私が実際にやってきたアプローチは以下である。
子どもがスマホやゲームに没頭する。
↓
宿題を忘れる。
↓
学校で叱られる。
↓
家に帰ってきたら、先生に注意された時にどんな嫌な気持ちだったか、及び、宿題を忘れたことによって起こった1日の弊害を事細かに思い出してもらう。同じ過ちを繰り返さないためにはどんな方法があるかを一緒に考える。親の私が手伝えることがあれば聞く。この時点で大体「忘れないように声をかけてほしい」ぐらいしか頼まれないのである。
↓
また同じ過ちを繰り返しそうな我が子を発見する。
↓
「この間、宿題を忘れてどんなことが起こってどんな気持ちになったんだっけ?」と、声かけに伴いあの日の嫌な気持ちを引き出す。
これだけだ。私は子どもの学校生活のことで腹を立てたりしないので、我が子たちは学校での失敗や先生から叱られたことなどは隠さなかった。できるだけその日のうちにじっくり話を聞き出して子どもたちに振り返りをしてもらった。
それに加えて、「先にやることをやっていればスマホもゲームもなんぼでもやっていいよ」と親指を立てて声かけをしていた。そんな合わせ技をお見舞いすると「やるべきことを先にやっとけば誰にも邪魔されない」となり、何も言わなくてもやるべきことをさっさとやるようになった。
スマホやゲームは制限しなくても問題はなかった。問題の本質はデバイスではないのだから。
◆性の話を隠すのはやめた
性に関する話も隠すのはやめた。私のヤング時代では、「性」に関する話題はお下品な話というイメージがあり毛嫌いする人も多かった。学校でも、生理の授業は男子生徒がいない別室でコソコソと隠れるように受けた記憶がある。生理の授業が終わった後は「男子には軽い気持ちで話さないでね」と口止めをされた。
「女子だけ別の部屋で何してたん!? お菓子もらってたんちゃうん!? ズルイ! ズルイ!」と、クラスの男子たちにヤイヤイ言われながらも、先生に言われた通り「男子には話さない」を、女子みんなで死守した記憶がある。
ちなみに授業前と授業後では、人間のレベルがぐんと上がった気がして「お菓子もらったんやろ!」と、騒ぐ男子が、ミジンコみたいに見えた記憶もある。
◆性の話を隠すのをやめたら…
今の時代は「性教育」の大切さが見直されている。人生を軽く歪めてしまうことだから、一度でも起こってはいけないのが性犯罪。私は「性」に関する犯罪が怖くて「性」の話をすることに決めた。
他にも理由はある。予定外の妊娠出産を全力で喜べる自信は私にはない。そこまで器は大きくない。子どもができるということは、奇跡と喜びだけで溢れていいことなのだから、そこに「どうしよう」という感情は1ミリもいらないのだ。
「できることがあったのにやらなかった」という点で、自分が後悔すると思ったから我が子には性の話を隠すのはやめた。
◆なぜ小さい頃から話す必要があるのか
子どもが小さい頃ほど「性教育」が必要だと思ったのは、ただひとつ。「子どもたちが年頃になってから話し出すのが恥ずかしい」という理由だ。誰に何と言われても構わない。小さい頃から話すという理由はこれだけだった。
普段の生活の中でも「性」の話題は自然と起こった。ドラマなどの濡れ場のシーンでは「この後、あの人どうなるの?」という質問にも淡々と「おそらくSEXだね」と私の視点で応えてきた。
「でも、自分の一方通行な気持ちでやっちゃいけないことなんだよ」と、話を続けたこともある。そこから派生して「AVはファンタジーの世界だから、暴行されて徐々にその気になる人なんてこの世にいないからな」という話も何度もした。親の私があまりにも自然体で話すので、子どもたちも茶化すことなく聞いてくれた。
そして私の読みは正しかった。子どもが大きくなってから性の話を始めるなんて恥ずかしくて上手にできなかったと思う。こんなに性の話を重ねてきた私でも、今でもちょっと恥ずかしいのだから。
性犯罪の話や避妊の話、これらは日常的に話せる間口ができている。今となっては、子どもが小さい頃から性の話を隠さないというのは、彼らのためではなく、ほぼ自分のためだったように感じる。
性の話は隠さなくても問題なかった。むしろオープンにすることで、年頃の我が子たちとも話せるようになれた。
<TEXT/阪口ゆうこ>
【阪口ゆうこ】
1981年生まれ。整えアドバイザー。片付けや整えについてのブログ「HOME by REFRESHERS」を運営。コラムなどの執筆、セミナー開催を行う。著書に『ゆるミニマルのススメ』などがある。好きなものはビール、宴会、発信すること。嫌いなものは戦争、口内炎、マラソン。Instagram:@sakaguchiyuko___
子どもを育てるのは、想像していたよりも面倒臭いことやモヤモヤすることが多かった。しかし、毎日モヤモヤしながら育児をする自分に嫌気がさして、ミニマリストらしくイライラの「種」になる部分からまるっとやめました。
前回の記事《寝かしつけをやめて、おもちゃは買わない。ミニマリストが生み出した「やめる育児」の”驚きの効果”》に引き続き、今回もミニマリストである筆者が、子育てでやめて好転したことを書きます。
◆ママ友いなくても問題なかった
「ママ友」という言葉を知っているだろうか。子どもがいる方は一度は聞いたことがあるのではないだろうか。この「ママ友」がいなくて寂しく孤独な思いをしている人は意外と多い。
我が子が小学校に入学する前に、友人から聞いた話がある。「小学校ではママ友を作ったほうがいいよ。子どもの相談も聞いてもらえるし、イベントもひとりじゃなくていいし、学校生活でもいろんな情報を得られるし」と。控えめに言っていいことばかりだと聞いていた。
ママ友に関しては自分自身も「作りたい」という思いがあった。というのも、保育園で出会った保護者の方が皆、気持ちのいい方だったのだ。送迎の際に少しだけ話をする程度だったが、「仕事がなかったらもっと仲良くなって遊べるのにね」と、話すことが多かった。その経験からママ友という存在には良い印象があった。
ところがどっこい、私にママ友はできなかった。はい、ひとりも。
◆ママ友ができなかった理由
私にママ友ができなかった理由がある。それもはっきりくっきりとした大きな理由が。それは、共通の話題である「子どもの話」をしなかったということ。
ママ友がいると保護者ライフが豊かになるという友人の言葉に影響を受けた私は、学校関係の集まりの際に「うちの子がお世話になってます〜」という挨拶回りにパワーを使っていた。
そんなある日、息子が言った。「あのさ、僕の話を外でしてるよね?」。
◆息子の話をしているのがバレたワケ
話を聞くと、家で起こった息子の面白エピソードを、私がママ友に話す→ママ友が、息子のクラスメイトである自分の子に話す→エピソード、息子に戻る。という地獄のような伝言ゲームになったらしい。
それからは「我が子の話」を封印し、「ママ友の子どもの話」も聞くのを避けた。ママ友の子も息子と同じように感じるのではないか、そして私も誰かに言いそう。いや、言うに決まっていると思ったのだ。私は自分を過信しない、とんでもなくおしゃべり野郎の自覚はある。
そして共通の「我が子の話」を失うと、話題がなくなった。そして、短い間ではあったが、確かにいたはずのママ友もいつの間にかいなくなっていた。でも、問題はなかった。子どもの相談も聞いてもらえて、イベントも一緒に行けて楽しいし、学校生活の上でもいろんな情報を得られるというママ友は、いなくても困ることはなかったのだ。
子どもの相談なんてした日には、我が子に徹底的に嫌われるのはほぼ確定だったし、イベントも1人のほうが自由度が高くて気楽だったし、学校生活の情報も我が子が学校に直接問い合わせるタイプだったので不要だった。
保育園で出会った保護者の方が、皆気持ちのいい方だと感じたのは、いい距離感で付き合えていたからなのかもしれない。送迎の際に少しだけ話をする程度が良かったのだと思う。ママ友はできなくても問題なかった。それよりも子どもに嫌われなくてよかった。
◆ゲームやスマホの制限をやめた
宿題も時間割もしないでゲームとスマホ触ってる。と、日々子どもに腹を立てている保護者は多い。やらなければならないことを後回しにして、やらなくてもいいことを優先している姿にイライラするのだろう。そしてイライラが頂点に達した時、スマホやゲームに時間制限をかけたり、取り上げるという家庭もある。
我が家は制限をしなかった。イライラすることもあったが、一度与えたゲームやスマホを取り上げる行為は、本質的な問題点とズレているように思ったからだ。
本当の問題は、スマホやゲームなどのデバイスではなく、やらなければならないことを先送りし遊びを優先してしまう「本人」に問題があると思ったからだ。
◆実際にやってきたアプローチ
やらなければいけないことを先送りにする我が子に、私が実際にやってきたアプローチは以下である。
子どもがスマホやゲームに没頭する。
↓
宿題を忘れる。
↓
学校で叱られる。
↓
家に帰ってきたら、先生に注意された時にどんな嫌な気持ちだったか、及び、宿題を忘れたことによって起こった1日の弊害を事細かに思い出してもらう。同じ過ちを繰り返さないためにはどんな方法があるかを一緒に考える。親の私が手伝えることがあれば聞く。この時点で大体「忘れないように声をかけてほしい」ぐらいしか頼まれないのである。
↓
また同じ過ちを繰り返しそうな我が子を発見する。
↓
「この間、宿題を忘れてどんなことが起こってどんな気持ちになったんだっけ?」と、声かけに伴いあの日の嫌な気持ちを引き出す。
これだけだ。私は子どもの学校生活のことで腹を立てたりしないので、我が子たちは学校での失敗や先生から叱られたことなどは隠さなかった。できるだけその日のうちにじっくり話を聞き出して子どもたちに振り返りをしてもらった。
それに加えて、「先にやることをやっていればスマホもゲームもなんぼでもやっていいよ」と親指を立てて声かけをしていた。そんな合わせ技をお見舞いすると「やるべきことを先にやっとけば誰にも邪魔されない」となり、何も言わなくてもやるべきことをさっさとやるようになった。
スマホやゲームは制限しなくても問題はなかった。問題の本質はデバイスではないのだから。
◆性の話を隠すのはやめた
性に関する話も隠すのはやめた。私のヤング時代では、「性」に関する話題はお下品な話というイメージがあり毛嫌いする人も多かった。学校でも、生理の授業は男子生徒がいない別室でコソコソと隠れるように受けた記憶がある。生理の授業が終わった後は「男子には軽い気持ちで話さないでね」と口止めをされた。
「女子だけ別の部屋で何してたん!? お菓子もらってたんちゃうん!? ズルイ! ズルイ!」と、クラスの男子たちにヤイヤイ言われながらも、先生に言われた通り「男子には話さない」を、女子みんなで死守した記憶がある。
ちなみに授業前と授業後では、人間のレベルがぐんと上がった気がして「お菓子もらったんやろ!」と、騒ぐ男子が、ミジンコみたいに見えた記憶もある。
◆性の話を隠すのをやめたら…
今の時代は「性教育」の大切さが見直されている。人生を軽く歪めてしまうことだから、一度でも起こってはいけないのが性犯罪。私は「性」に関する犯罪が怖くて「性」の話をすることに決めた。
他にも理由はある。予定外の妊娠出産を全力で喜べる自信は私にはない。そこまで器は大きくない。子どもができるということは、奇跡と喜びだけで溢れていいことなのだから、そこに「どうしよう」という感情は1ミリもいらないのだ。
「できることがあったのにやらなかった」という点で、自分が後悔すると思ったから我が子には性の話を隠すのはやめた。
◆なぜ小さい頃から話す必要があるのか
子どもが小さい頃ほど「性教育」が必要だと思ったのは、ただひとつ。「子どもたちが年頃になってから話し出すのが恥ずかしい」という理由だ。誰に何と言われても構わない。小さい頃から話すという理由はこれだけだった。
普段の生活の中でも「性」の話題は自然と起こった。ドラマなどの濡れ場のシーンでは「この後、あの人どうなるの?」という質問にも淡々と「おそらくSEXだね」と私の視点で応えてきた。
「でも、自分の一方通行な気持ちでやっちゃいけないことなんだよ」と、話を続けたこともある。そこから派生して「AVはファンタジーの世界だから、暴行されて徐々にその気になる人なんてこの世にいないからな」という話も何度もした。親の私があまりにも自然体で話すので、子どもたちも茶化すことなく聞いてくれた。
そして私の読みは正しかった。子どもが大きくなってから性の話を始めるなんて恥ずかしくて上手にできなかったと思う。こんなに性の話を重ねてきた私でも、今でもちょっと恥ずかしいのだから。
性犯罪の話や避妊の話、これらは日常的に話せる間口ができている。今となっては、子どもが小さい頃から性の話を隠さないというのは、彼らのためではなく、ほぼ自分のためだったように感じる。
性の話は隠さなくても問題なかった。むしろオープンにすることで、年頃の我が子たちとも話せるようになれた。
<TEXT/阪口ゆうこ>
【阪口ゆうこ】
1981年生まれ。整えアドバイザー。片付けや整えについてのブログ「HOME by REFRESHERS」を運営。コラムなどの執筆、セミナー開催を行う。著書に『ゆるミニマルのススメ』などがある。好きなものはビール、宴会、発信すること。嫌いなものは戦争、口内炎、マラソン。Instagram:@sakaguchiyuko___