いまや「NHK紅白歌合戦」の常連となった、ムード歌謡コーラスグループ「純烈」。2024年11月25日(月)には、初めての武道館単独公演「純烈魂」が行われる。そこで、リーダー・酒井一圭に、デビュー15年目にしてたどり着いた「武道館」への思いをたっぷりと聞いた。
インタビュアーは、2019年から2年3か月間、日刊SPA!でドキュメント「純烈物語」を連載し、2冊の書籍としてまとめたライターの鈴木健txt.氏。長い付き合いだからこそ聞ける、どこよりも濃い話をお届けする。(以下、鈴木氏の寄稿)
◆3年前に口にしていた「2024年に武道館いくから」
「2024年に純烈で武道館にいくから」
2021年11月22日、LINE CUBE SHIBUYA公演を終えた足でラジオ番組に出演し、長い一日から解放されたあと酒井一圭は演出担当の小池竹見、脚本のスーパー・ササダンゴ・マシン、共演者の今林久弥と合流し、軽い打ち上げの席を三田のインド料理店で設けた。その何気ない会話の中、本当にしれっと口にしたのを今も憶えている。それは2年7か月後となる2024年6月、正式に発表された。
3年前の時点で、酒井の頭の中に日本武道館はあった。それもおぼろげな夢ではなく、やるという確定事項としてだ。小田井涼平の卒業と、新メンバーに岩永洋昭を迎える構想がまだなかった時点で、2024年11月25日までの道筋が見えていたのか。
◆デビュー以来「夢は紅白」と掲げてきたけれど……
「デビュー以来『夢は紅白』って掲げてやってきて、2018年に実現させた時点である意味完結した部分があって、それ以後は防衛戦の感覚で『これからどうすんねん』っていう自問自答がずっとあったんです。その中でコロナを迎えて、みんなで乗り越えようと呼びかけることで新たな目標を立てられて、先に進めるとなったのが2021年11月だった。そこで、2024年が一つの区切りになる予感があってあの時、口にしたんだと思う。
それで2022年を迎えた時にブログのタイトルを俺が『2024年純烈・日本武道館公演を成し遂げたい!』って勝手に変えて。山本(浩光マネジャー)さんたちが『あれ、マジなの?』ってなったという。会社にも言ってなかったからね」(酒井一圭、以下同)
これほどの重大事項を、事務所内でプレゼンすることなく先に風呂敷を広げた。常識的には考えられないが、それがプロデューサー・酒井一圭ならではの“やり口”であるのは歴史が物語る。純烈結成時、メンバーを誘うさいに、実際はそうではないのに「もうデビューが決まっているから」と口説いたのと同じだ。
自分の中に「この人と結婚するんやろな」のような確信めいた予感が生じたら、まず動く。そして、背中をメンバーやスタッフに見せ「やれんのか!?」と問いかける。純烈は、そうやって夢を形にしてきた。
◆下の世代に経験を積ませたい
そのつどプロジェクトはどんどん膨らんできて、2021年秋までの本稿連載時にはいなかったスタッフも入ってきた。今回の日本武道館公演は、長く苦楽をともにしてきた山本がエグゼクティブのポジションで、マネジャーになって2年半の江畑貴弘が中心となり動いている。
「俺自身はやる確信があるけど、そこで会社が何も言ってこなかったらやらないでもいいわけよ。ただ、スタッフも若返ったなかで経験を積んでもらいたい思いもあって。メンバーや山本さんは紅白歌合戦のような成功体験をしているけど、下の世代にも必要だと。そのパーツが揃ってきたし、自分が動き出すことで周りも共通意識を持って現実になっていくのが純烈という世界だから」
◆6年前、ファンの色紙に書いた言葉
結成15年目に、武道館に到達――こう書くと聞こえはいいが、純烈はそれをゴールにやってきたわけではなかった。「俺たちのようなグループが紅白に出られたらおもろいよねという、ふわふわした話でしかなくて、アーティストとしてあの大きな会場に立ちたいみたいな欲求はまったくなかった」と酒井は言う。
ただ、本人も気づかぬところで、潜在的にその三文字は息づいていたのだろう。先日、2018年の紅白初出場が決まった直後に渡したサイン色紙を持ってきたファンと再会。そこには、ハッキリと「次は日本武道館」と自分の筆跡で記されてあった。
◆「武道館よりも後楽園ホールのほうがキツかったし面白かった」
プロレスラーだったころ、酒井は日本武道館を経験している(DDT2012年8月12日)。ただ、その時も特別な感慨はなかった。
「なぜかというと、武道館よりも後楽園ホールでやった時のほうがキツかったし面白かったし、ヘビーだったから。主催者でなければ、俺なんてレスラーもどきのようなものだもん、特別にいい景色が見られたとかではなかった。今の時点では、純烈として眺める武道館の景色がどんなものかも想像つかないし、紅白と同じくもう一回ここでやりたいと思うかどうかは、終わってみなければ……だよね。
でも、メンバーや会社は違うと思うよ。みんな、いつもより髪の毛跳ねるだろうし、事務所もメイクさんを入れましょうって言うと思う。3人の中では後上(翔太)が一番盛り上がっているんじゃないかな。あいつ、大学(東京理科大)の入学式が武道館だったから。岩永は見にいったこともないらしくて、武道館初体験が出演という」
大会場進出が目標ではなかった純烈が日本武道館公演をやる最大の理由は、すでにアナウンスされた通り、「ファンが一緒になって喜べる場」であること。同時に、これまで世話になった周囲の人々に対する思いもこめられている。
◆「純烈にカネ払って見るほうが狂ってるやろ!」
普段、酒井は友人・知人を純烈のコンサートへ誘おうとはしない。ただ今回に関してはスケジュールに忙殺される中で、マメにLINEを入れている。
「純烈にカネ払って見るほうが狂ってるやろ!って思いながらやってきたわけだけど、それをみんなの力で値がつくものにしてもらってきた。武道館は、関係者席のあちこちで久しぶり!ってなってもらって、社交場にしてほしいんですよ。だから、自分たちはあくまでも普段着で、お客さんと今まで関わってきた人たちには祭りの場。そういう位置づけだね」
◆リハーサルはわずか4日
当日は、歌だけでなくササダンゴ脚本によるストーリー仕立てのステージとなるが、リハーサルはわずか4日。武道館規模としては異例と言っていい。
だが、普段着であればそれで成り立つ。大きな舞台といってプレミアムなクリエイターを入れるのではなく、小池、ササダンゴ、今林という座組で臨む。
「ササダンゴに関しては、純烈を始める前の約束があって。プロレスの世界で携わるなか、俺がいつかドデカいところでやる時はこいつやなって思って、20年かけて現実になるんです。小池さんもずっとコンサートの演出をやってきてもらったし、今林さんはマッスル(ササダンゴが主宰していたプロレス興行)で一緒になってデビュー時から純烈に力を貸してくれた」
◆「人に恵まれている。自分の才能じゃない」
「人に恵まれているんですよね。自分の才能じゃないですよ、これは。本当に出逢いとか、その人のいい角度で俺と向き合ってくれる人たちが、すごくやさしいっていうか。そういう人たちだから、リハーサルでも勘どころがわかっていて、スムーズにいくしね」
雑談レベルの約束を20年経っても忘れず形にするのは、契約を交わすよりも尊いことだと思う。本当に、人とのつながりを大切にし、それを原動力としてきた純烈らしい武道館への向き合い方だとわかるはずだ。
◆デビュー15年目にして初のオリジナルアルバムを出す理由
姿勢そのものは変わらずとも、提供するのは特別感のある作品にしたい。デビュー15年目というタイミングで初のオリジナルアルバム『純烈魂 1』をリリースしたのも、そこにつながっている。
「武道館でやるからには既存の曲だけ歌うんじゃつまらんなと。純烈の懐メロを歌うだけってなるのが嫌なのと、あのハコで鳴らすに見合う楽曲が少ないと思った。それで作家陣には、武道館でやるのを前提にオーダーしました。
今までオリジナルアルバムを作らなかった件に関して言えば……純烈には俺と小田井さんという2人のクリエイターがいたんです。その中で作ると小田井さんの色も入れることになって、自分の色が50%ぐらいになる。つまり、俺自身のやりたい形とズレが生じる。それを純烈の枠の中でやると軋轢を生むだけだから、小田井さんがいる間は出さないほうがいい。お互いが不完全燃焼にならないためにね」
◆小田井がいたからオリジナルアルバムは出さなかった
これはネガティブな話として受け取ってほしくないんだけどと、酒井はつけ加えた。小田井在籍時だったらオリジナルアルバムは出さず、日本武道館進出もなかったかもしれない。
世間的にはグループのキャラクターから、いいトシしたオッサンたちが中学生のようにじゃれ合っているかのごとく見えるだろうが、純烈というプロジェクトは一筋縄でいかない。それは、エンターテインメントを提供する立場の宿命でもある。
エンターテインメントとしてのベストを模索し、そこにしか答えは見いだせない。小田井涼平にとっての“いい形”にこだわり、卒業ロードを描ききったのは、プロデューサー・酒井一圭の最高傑作だったと、今でも思う。
◆「ラウンド」はできないが「秘策を用意してる」
そのスタンスのまま向き合う初めての祭りの場――会場の都合により、客席を練り歩く純烈名物の「ラウンド」はできないが、「秘策を用意している」と酒井はニヤリ。日本武道館は“色気のある会場”とされるが、それは造りだけでなく、九段下からつながる坂も含まれる。
純烈を応援し、生き甲斐とするおばあちゃんやマダムの皆さんにとってはいささかシンドい道のりだが、上りきって入り口をくぐり、扉を開けた瞬間に広がる全景を見た瞬間、疲れは吹っ飛び気持ちが高揚しまくる。
純烈は、その快感を全国から集うお年寄りに提供することとなる。それだけでも、日本武道館でやる意義がある。
◆「坂を下れるだけの余力は残して帰ってよね」
「来る時は日中で明るいけど、終わる頃には暗くなっているんで帰りのほうが足下は心配。ちゃんと坂を下れるだけの余力は残して帰ってよねって、書いておいてください」
連載時も含め、酒井のほうから書くことをリクエストされたのは初めてだった。純烈のリーダーって、ファンの帰り道までプロデュースするのか。奇しくも11月25日の武道館公演の翌日は「いい風呂の日」。
疲れをそこでとりながら、武道館の余韻に浸かっていただきたい。
<取材・文・撮影/鈴木健.txt>
【鈴木健.txt】
(すずきけん)――’66年、東京都葛飾区亀有出身。’88年9月~’09年9月までアルバイト時代から数え21年間、ベースボール・マガジン社に在籍し『週刊プロレス』編集次長及び同誌携帯サイト『週刊プロレスmobile』編集長を務める。退社後はフリー編集ライターとしてプロレスに限らず音楽、演劇、映画などで執筆。50団体以上のプロレス中継の実況・解説をする。酒井一圭とはマッスルのテレビ中継解説を務めたことから知り合い、マッスル休止後も出演舞台のレビューを執筆。今回のマッスル再開時にもコラムを寄稿している。Twitter@yaroutxt、facebook「Kensuzukitxt」 blog「KEN筆.txt」。著書『白と黒とハッピー~純烈物語』『純烈物語 20-21』が発売
インタビュアーは、2019年から2年3か月間、日刊SPA!でドキュメント「純烈物語」を連載し、2冊の書籍としてまとめたライターの鈴木健txt.氏。長い付き合いだからこそ聞ける、どこよりも濃い話をお届けする。(以下、鈴木氏の寄稿)
◆3年前に口にしていた「2024年に武道館いくから」
「2024年に純烈で武道館にいくから」
2021年11月22日、LINE CUBE SHIBUYA公演を終えた足でラジオ番組に出演し、長い一日から解放されたあと酒井一圭は演出担当の小池竹見、脚本のスーパー・ササダンゴ・マシン、共演者の今林久弥と合流し、軽い打ち上げの席を三田のインド料理店で設けた。その何気ない会話の中、本当にしれっと口にしたのを今も憶えている。それは2年7か月後となる2024年6月、正式に発表された。
3年前の時点で、酒井の頭の中に日本武道館はあった。それもおぼろげな夢ではなく、やるという確定事項としてだ。小田井涼平の卒業と、新メンバーに岩永洋昭を迎える構想がまだなかった時点で、2024年11月25日までの道筋が見えていたのか。
◆デビュー以来「夢は紅白」と掲げてきたけれど……
「デビュー以来『夢は紅白』って掲げてやってきて、2018年に実現させた時点である意味完結した部分があって、それ以後は防衛戦の感覚で『これからどうすんねん』っていう自問自答がずっとあったんです。その中でコロナを迎えて、みんなで乗り越えようと呼びかけることで新たな目標を立てられて、先に進めるとなったのが2021年11月だった。そこで、2024年が一つの区切りになる予感があってあの時、口にしたんだと思う。
それで2022年を迎えた時にブログのタイトルを俺が『2024年純烈・日本武道館公演を成し遂げたい!』って勝手に変えて。山本(浩光マネジャー)さんたちが『あれ、マジなの?』ってなったという。会社にも言ってなかったからね」(酒井一圭、以下同)
これほどの重大事項を、事務所内でプレゼンすることなく先に風呂敷を広げた。常識的には考えられないが、それがプロデューサー・酒井一圭ならではの“やり口”であるのは歴史が物語る。純烈結成時、メンバーを誘うさいに、実際はそうではないのに「もうデビューが決まっているから」と口説いたのと同じだ。
自分の中に「この人と結婚するんやろな」のような確信めいた予感が生じたら、まず動く。そして、背中をメンバーやスタッフに見せ「やれんのか!?」と問いかける。純烈は、そうやって夢を形にしてきた。
◆下の世代に経験を積ませたい
そのつどプロジェクトはどんどん膨らんできて、2021年秋までの本稿連載時にはいなかったスタッフも入ってきた。今回の日本武道館公演は、長く苦楽をともにしてきた山本がエグゼクティブのポジションで、マネジャーになって2年半の江畑貴弘が中心となり動いている。
「俺自身はやる確信があるけど、そこで会社が何も言ってこなかったらやらないでもいいわけよ。ただ、スタッフも若返ったなかで経験を積んでもらいたい思いもあって。メンバーや山本さんは紅白歌合戦のような成功体験をしているけど、下の世代にも必要だと。そのパーツが揃ってきたし、自分が動き出すことで周りも共通意識を持って現実になっていくのが純烈という世界だから」
◆6年前、ファンの色紙に書いた言葉
結成15年目に、武道館に到達――こう書くと聞こえはいいが、純烈はそれをゴールにやってきたわけではなかった。「俺たちのようなグループが紅白に出られたらおもろいよねという、ふわふわした話でしかなくて、アーティストとしてあの大きな会場に立ちたいみたいな欲求はまったくなかった」と酒井は言う。
ただ、本人も気づかぬところで、潜在的にその三文字は息づいていたのだろう。先日、2018年の紅白初出場が決まった直後に渡したサイン色紙を持ってきたファンと再会。そこには、ハッキリと「次は日本武道館」と自分の筆跡で記されてあった。
◆「武道館よりも後楽園ホールのほうがキツかったし面白かった」
プロレスラーだったころ、酒井は日本武道館を経験している(DDT2012年8月12日)。ただ、その時も特別な感慨はなかった。
「なぜかというと、武道館よりも後楽園ホールでやった時のほうがキツかったし面白かったし、ヘビーだったから。主催者でなければ、俺なんてレスラーもどきのようなものだもん、特別にいい景色が見られたとかではなかった。今の時点では、純烈として眺める武道館の景色がどんなものかも想像つかないし、紅白と同じくもう一回ここでやりたいと思うかどうかは、終わってみなければ……だよね。
でも、メンバーや会社は違うと思うよ。みんな、いつもより髪の毛跳ねるだろうし、事務所もメイクさんを入れましょうって言うと思う。3人の中では後上(翔太)が一番盛り上がっているんじゃないかな。あいつ、大学(東京理科大)の入学式が武道館だったから。岩永は見にいったこともないらしくて、武道館初体験が出演という」
大会場進出が目標ではなかった純烈が日本武道館公演をやる最大の理由は、すでにアナウンスされた通り、「ファンが一緒になって喜べる場」であること。同時に、これまで世話になった周囲の人々に対する思いもこめられている。
◆「純烈にカネ払って見るほうが狂ってるやろ!」
普段、酒井は友人・知人を純烈のコンサートへ誘おうとはしない。ただ今回に関してはスケジュールに忙殺される中で、マメにLINEを入れている。
「純烈にカネ払って見るほうが狂ってるやろ!って思いながらやってきたわけだけど、それをみんなの力で値がつくものにしてもらってきた。武道館は、関係者席のあちこちで久しぶり!ってなってもらって、社交場にしてほしいんですよ。だから、自分たちはあくまでも普段着で、お客さんと今まで関わってきた人たちには祭りの場。そういう位置づけだね」
◆リハーサルはわずか4日
当日は、歌だけでなくササダンゴ脚本によるストーリー仕立てのステージとなるが、リハーサルはわずか4日。武道館規模としては異例と言っていい。
だが、普段着であればそれで成り立つ。大きな舞台といってプレミアムなクリエイターを入れるのではなく、小池、ササダンゴ、今林という座組で臨む。
「ササダンゴに関しては、純烈を始める前の約束があって。プロレスの世界で携わるなか、俺がいつかドデカいところでやる時はこいつやなって思って、20年かけて現実になるんです。小池さんもずっとコンサートの演出をやってきてもらったし、今林さんはマッスル(ササダンゴが主宰していたプロレス興行)で一緒になってデビュー時から純烈に力を貸してくれた」
◆「人に恵まれている。自分の才能じゃない」
「人に恵まれているんですよね。自分の才能じゃないですよ、これは。本当に出逢いとか、その人のいい角度で俺と向き合ってくれる人たちが、すごくやさしいっていうか。そういう人たちだから、リハーサルでも勘どころがわかっていて、スムーズにいくしね」
雑談レベルの約束を20年経っても忘れず形にするのは、契約を交わすよりも尊いことだと思う。本当に、人とのつながりを大切にし、それを原動力としてきた純烈らしい武道館への向き合い方だとわかるはずだ。
◆デビュー15年目にして初のオリジナルアルバムを出す理由
姿勢そのものは変わらずとも、提供するのは特別感のある作品にしたい。デビュー15年目というタイミングで初のオリジナルアルバム『純烈魂 1』をリリースしたのも、そこにつながっている。
「武道館でやるからには既存の曲だけ歌うんじゃつまらんなと。純烈の懐メロを歌うだけってなるのが嫌なのと、あのハコで鳴らすに見合う楽曲が少ないと思った。それで作家陣には、武道館でやるのを前提にオーダーしました。
今までオリジナルアルバムを作らなかった件に関して言えば……純烈には俺と小田井さんという2人のクリエイターがいたんです。その中で作ると小田井さんの色も入れることになって、自分の色が50%ぐらいになる。つまり、俺自身のやりたい形とズレが生じる。それを純烈の枠の中でやると軋轢を生むだけだから、小田井さんがいる間は出さないほうがいい。お互いが不完全燃焼にならないためにね」
◆小田井がいたからオリジナルアルバムは出さなかった
これはネガティブな話として受け取ってほしくないんだけどと、酒井はつけ加えた。小田井在籍時だったらオリジナルアルバムは出さず、日本武道館進出もなかったかもしれない。
世間的にはグループのキャラクターから、いいトシしたオッサンたちが中学生のようにじゃれ合っているかのごとく見えるだろうが、純烈というプロジェクトは一筋縄でいかない。それは、エンターテインメントを提供する立場の宿命でもある。
エンターテインメントとしてのベストを模索し、そこにしか答えは見いだせない。小田井涼平にとっての“いい形”にこだわり、卒業ロードを描ききったのは、プロデューサー・酒井一圭の最高傑作だったと、今でも思う。
◆「ラウンド」はできないが「秘策を用意してる」
そのスタンスのまま向き合う初めての祭りの場――会場の都合により、客席を練り歩く純烈名物の「ラウンド」はできないが、「秘策を用意している」と酒井はニヤリ。日本武道館は“色気のある会場”とされるが、それは造りだけでなく、九段下からつながる坂も含まれる。
純烈を応援し、生き甲斐とするおばあちゃんやマダムの皆さんにとってはいささかシンドい道のりだが、上りきって入り口をくぐり、扉を開けた瞬間に広がる全景を見た瞬間、疲れは吹っ飛び気持ちが高揚しまくる。
純烈は、その快感を全国から集うお年寄りに提供することとなる。それだけでも、日本武道館でやる意義がある。
◆「坂を下れるだけの余力は残して帰ってよね」
「来る時は日中で明るいけど、終わる頃には暗くなっているんで帰りのほうが足下は心配。ちゃんと坂を下れるだけの余力は残して帰ってよねって、書いておいてください」
連載時も含め、酒井のほうから書くことをリクエストされたのは初めてだった。純烈のリーダーって、ファンの帰り道までプロデュースするのか。奇しくも11月25日の武道館公演の翌日は「いい風呂の日」。
疲れをそこでとりながら、武道館の余韻に浸かっていただきたい。
<取材・文・撮影/鈴木健.txt>
【鈴木健.txt】
(すずきけん)――’66年、東京都葛飾区亀有出身。’88年9月~’09年9月までアルバイト時代から数え21年間、ベースボール・マガジン社に在籍し『週刊プロレス』編集次長及び同誌携帯サイト『週刊プロレスmobile』編集長を務める。退社後はフリー編集ライターとしてプロレスに限らず音楽、演劇、映画などで執筆。50団体以上のプロレス中継の実況・解説をする。酒井一圭とはマッスルのテレビ中継解説を務めたことから知り合い、マッスル休止後も出演舞台のレビューを執筆。今回のマッスル再開時にもコラムを寄稿している。Twitter@yaroutxt、facebook「Kensuzukitxt」 blog「KEN筆.txt」。著書『白と黒とハッピー~純烈物語』『純烈物語 20-21』が発売