兵庫県知事選をめぐり、大騒動が巻き起っています。
PR会社『株式会社merchu』の代表取締役、折田楓氏がSNSを活用した選挙戦略を斎藤知事サイドに提案し、総合的な広報活動を任されたと自身の『note』で明かしたからです。
◆選挙運動の内幕をnoteで…
これが仮に有償、つまり仕事として発注されていたとしたら公職選挙法に抵触する可能性があり、逆に無償だったとしても、過去に兵庫県に関わる仕事を請け負っていたことから、贈収賄の可能性も指摘されています。
今回の経緯が明るみになってしまった原因が、折田氏の発信力の強さでした。かねてより女性ファッション誌でインフルエンサーを務めたり、自身のインスタグラムなどでは公私にわたって充実した生活ぶりをアピールしたりしていたのと同じテンションで、選挙運動の内幕を明かしてしまった。劣勢と言われていた斎藤知事が圧勝できたのは、自分の功績が大きかったのだと訴えたかったのではないかと言われています。
◆慶應SFC卒の肩書にネットは「やっぱりな」
さらに、折田氏が慶應SFC卒だということも、火に油を注いでいます。X上では、“もしかしてSFCと思ったら本当にSFCだった”とか、“新入社員のくせに重役のような口をききたがるのがSFC”とか、さんざんな言われよう。それらの意見を総合すると、“中身はないがコミュ力が異常に高い”という意見に集約されるのだと思います。
こうした反感があらわになったのは、近年、“若手論客”とか“社会起業家”という肩書でメディアに出る人が、SFCの卒業者が多いのもあるでしょう。芥川賞候補にも挙がった古市憲寿氏、先日の総選挙で当選した大空幸星氏、乃木坂46の元メンバーでコメンテーターも務める山崎怜奈氏などが有名ですね。
彼らの発言も時に賛否両論を巻き起こしてきました。一方で、その言動にはどこか掴みどころのない、芯のなさのようなものも感じる。議論になる前に、するりと逃げていってしまう感じでしょうか。たとえば、山崎怜奈氏がアメリカの大学での反イスラエルデモについて「退学処分になる可能性もはらんでいる中で、デモの有効性ってどこまであるんだろう」と語ったことに顕著なように、近視眼的な損得勘定を隠そうともしない。
◆元SFC生の筆者が思うこと
一応入学だけはした筆者も、これは確かにSFCっぽいなと感じました。正義とか悪とか難しいことを考えるのはいったん置いといて、合理性を追求して、シェアしてみんなハッピーになりましょうよ、といった感覚です。山崎氏の発言の根っこには、“どうして誰もハッピーになれない(儲からない)のに、わざわざそんなことをするの?”というのがあるわけですね。
いま思うと、それは入学式の時点で浮き彫りになっていたように思います。他学部の新入生が退場したのち、総合政策学部と環境情報学部の学生だけが残り、別途オリエンテーションが実施されたのです。その第一声が、「未来からの留学生の皆さん、SFCへようこそ」でした。(たしかそんな感じ。うろ覚えですが)出だしから“SFC生はほかとは違う”という意識付けが行われるのですね。
この「未来からの」というのがクセ物で、それは現代を俯瞰で批評し、未来の社会をハッピーにするためのソリューションを与える使命を担っているのだという若者の自尊心をくすぐります。先程名前を挙げた論客の傾向からも、そんな校風がよくあらわれているのではないでしょうか。
◆人々がSFCに抱く「批判的なイメージ」はどこから生まれる?
そして藤沢のキャンパスでは政治的なアジビラも配布されなければ、立て看板ひとつも設置されていません。純度の高いノンポリ状態に加え、どこを歩いても、明るく清潔に保たれており、池や芝生や木々とコンピューティングシステムが見事に融合している。一言で言えば、汚れがないのです。大学にとって無駄になりそうなものが、何一つない。
理知的にデザインされた風景が、最寄り駅からバスで15分以上かかるロケーションにあることも大きいでしょう。周囲には飲食店も書店も洋服屋もありません。雑多な生活から遮断されたところに大学があるのです。
この進歩的なソリューション思考と、隔離され保護された合理性があわさったところに、人々がSFCについて抱く批判的なイメージが生まれるのではないかと想像します。いわゆる“意識高い系”について思い浮かべる負の側面が増幅されやすい環境がソフトとハードの両面で整ってしまっているとも言える。
今回の折田氏で言えば、法律的な懸念や周囲への配慮よりも、自身の能力や成果を売り込む姿勢や、有権者を農作物に見立て「種まき」や「収穫」といった表現を使うことに対してためらいを覚えない無教養。結果、合理性と利得の追求が最優先になってしまった。ここに、意識高い系の悪い面が凝縮されているように思います。
これがSFCに対する潜在的な不信感をあらわにしてしまったと言えるのではないでしょうか。
◆“彼ら”がSFCのすべてではない
もちろん、それらの環境を活用して、学識や能力を高めて活躍している人の方が多いことは言うまでもありません。慶應やSFCというブランド力のせいで、今回のように不幸にも悪目立ちしてしまった一例だけを取り上げて叩かれてしまうのは残念なことです。
もっとも、こういう足の引っ張り合いは、仕方のないことなのかもしれませんが。
なので、彼らがSFCのすべてなのかと言われると、それは違います。少なくとも、筆者が学生時代に付き合った人たちは、それとは正反対でした。
所属していたゼミの席がいっぱいだったので、芝生でキャッチボールして、駅前の居酒屋で飲んで帰ったロック好き。
難解な哲学書を涼しい顔で読みこなしては、それを鼻にかけることもなく、ぽつねんと佇んでいた後輩。勉強以外の目的では使ってはいけない大画面ディスプレイで、いっしょにニール・ヤングのDVDを観ました。
今現在、SFCがどのような校風なのかはわかりませんが、みんながみんな折田氏のような人ばかりではないはずです。
と、願いたいところです。
文/石黒隆之
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4
PR会社『株式会社merchu』の代表取締役、折田楓氏がSNSを活用した選挙戦略を斎藤知事サイドに提案し、総合的な広報活動を任されたと自身の『note』で明かしたからです。
◆選挙運動の内幕をnoteで…
これが仮に有償、つまり仕事として発注されていたとしたら公職選挙法に抵触する可能性があり、逆に無償だったとしても、過去に兵庫県に関わる仕事を請け負っていたことから、贈収賄の可能性も指摘されています。
今回の経緯が明るみになってしまった原因が、折田氏の発信力の強さでした。かねてより女性ファッション誌でインフルエンサーを務めたり、自身のインスタグラムなどでは公私にわたって充実した生活ぶりをアピールしたりしていたのと同じテンションで、選挙運動の内幕を明かしてしまった。劣勢と言われていた斎藤知事が圧勝できたのは、自分の功績が大きかったのだと訴えたかったのではないかと言われています。
◆慶應SFC卒の肩書にネットは「やっぱりな」
さらに、折田氏が慶應SFC卒だということも、火に油を注いでいます。X上では、“もしかしてSFCと思ったら本当にSFCだった”とか、“新入社員のくせに重役のような口をききたがるのがSFC”とか、さんざんな言われよう。それらの意見を総合すると、“中身はないがコミュ力が異常に高い”という意見に集約されるのだと思います。
こうした反感があらわになったのは、近年、“若手論客”とか“社会起業家”という肩書でメディアに出る人が、SFCの卒業者が多いのもあるでしょう。芥川賞候補にも挙がった古市憲寿氏、先日の総選挙で当選した大空幸星氏、乃木坂46の元メンバーでコメンテーターも務める山崎怜奈氏などが有名ですね。
彼らの発言も時に賛否両論を巻き起こしてきました。一方で、その言動にはどこか掴みどころのない、芯のなさのようなものも感じる。議論になる前に、するりと逃げていってしまう感じでしょうか。たとえば、山崎怜奈氏がアメリカの大学での反イスラエルデモについて「退学処分になる可能性もはらんでいる中で、デモの有効性ってどこまであるんだろう」と語ったことに顕著なように、近視眼的な損得勘定を隠そうともしない。
◆元SFC生の筆者が思うこと
一応入学だけはした筆者も、これは確かにSFCっぽいなと感じました。正義とか悪とか難しいことを考えるのはいったん置いといて、合理性を追求して、シェアしてみんなハッピーになりましょうよ、といった感覚です。山崎氏の発言の根っこには、“どうして誰もハッピーになれない(儲からない)のに、わざわざそんなことをするの?”というのがあるわけですね。
いま思うと、それは入学式の時点で浮き彫りになっていたように思います。他学部の新入生が退場したのち、総合政策学部と環境情報学部の学生だけが残り、別途オリエンテーションが実施されたのです。その第一声が、「未来からの留学生の皆さん、SFCへようこそ」でした。(たしかそんな感じ。うろ覚えですが)出だしから“SFC生はほかとは違う”という意識付けが行われるのですね。
この「未来からの」というのがクセ物で、それは現代を俯瞰で批評し、未来の社会をハッピーにするためのソリューションを与える使命を担っているのだという若者の自尊心をくすぐります。先程名前を挙げた論客の傾向からも、そんな校風がよくあらわれているのではないでしょうか。
◆人々がSFCに抱く「批判的なイメージ」はどこから生まれる?
そして藤沢のキャンパスでは政治的なアジビラも配布されなければ、立て看板ひとつも設置されていません。純度の高いノンポリ状態に加え、どこを歩いても、明るく清潔に保たれており、池や芝生や木々とコンピューティングシステムが見事に融合している。一言で言えば、汚れがないのです。大学にとって無駄になりそうなものが、何一つない。
理知的にデザインされた風景が、最寄り駅からバスで15分以上かかるロケーションにあることも大きいでしょう。周囲には飲食店も書店も洋服屋もありません。雑多な生活から遮断されたところに大学があるのです。
この進歩的なソリューション思考と、隔離され保護された合理性があわさったところに、人々がSFCについて抱く批判的なイメージが生まれるのではないかと想像します。いわゆる“意識高い系”について思い浮かべる負の側面が増幅されやすい環境がソフトとハードの両面で整ってしまっているとも言える。
今回の折田氏で言えば、法律的な懸念や周囲への配慮よりも、自身の能力や成果を売り込む姿勢や、有権者を農作物に見立て「種まき」や「収穫」といった表現を使うことに対してためらいを覚えない無教養。結果、合理性と利得の追求が最優先になってしまった。ここに、意識高い系の悪い面が凝縮されているように思います。
これがSFCに対する潜在的な不信感をあらわにしてしまったと言えるのではないでしょうか。
◆“彼ら”がSFCのすべてではない
もちろん、それらの環境を活用して、学識や能力を高めて活躍している人の方が多いことは言うまでもありません。慶應やSFCというブランド力のせいで、今回のように不幸にも悪目立ちしてしまった一例だけを取り上げて叩かれてしまうのは残念なことです。
もっとも、こういう足の引っ張り合いは、仕方のないことなのかもしれませんが。
なので、彼らがSFCのすべてなのかと言われると、それは違います。少なくとも、筆者が学生時代に付き合った人たちは、それとは正反対でした。
所属していたゼミの席がいっぱいだったので、芝生でキャッチボールして、駅前の居酒屋で飲んで帰ったロック好き。
難解な哲学書を涼しい顔で読みこなしては、それを鼻にかけることもなく、ぽつねんと佇んでいた後輩。勉強以外の目的では使ってはいけない大画面ディスプレイで、いっしょにニール・ヤングのDVDを観ました。
今現在、SFCがどのような校風なのかはわかりませんが、みんながみんな折田氏のような人ばかりではないはずです。
と、願いたいところです。
文/石黒隆之
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4