過去5万本の記事より大反響だった話をピックアップ!(初公開2022年12月12日 記事は取材時の状況) * * *
だれもが一度は「海外移住」に憧れたことがあるかもしれない。タイ北部はその温暖な気候などからリタイア後の移住先として日本人に非常に人気が高い。とはいえ、そのタイ北部でもラオスとの国境のメコン川に位置するチェンコーンに住む日本人は今回紹介するひろ子さん(44歳)ただひとり。
彼女はこの地で少数民族“カム族”の夫と結婚し、「パパイヤヴィレッジ」というゲストハウスを経営している。そこに至るまでの経緯を訊いた。
◆少数民族“カム族”の夫は無国籍
ひろ子さんは大阪の高校を卒業後に東京でアルバイトし、貯めたお金でバックパッカー旅行に出ていた。その途中でチェンコーンに立ち寄り、泊まったゲストハウスでのちに夫となるシンさんと知り合った。彼はひろ子さんの8歳年下でそこのスタッフだった。一目惚れだった。
「目がすごくきれいだったんです」
そしてひろ子さんからのアプローチで交際に発展。すぐに結婚も決まったのだが、それからシンさんのことについてわかったこともあった。彼はラオス北部を中心に居住するカム族だったのだが、「国籍がなかった」のである。
◆IDカードには「タイ人ではない」と明記
シンさんの父親はラオスで反政府活動を行い、逮捕・収監されていた。その後、脱獄して家族を連れてタイに国外逃亡する。が、タイは難民を受け入れていない。シンさんはタイのIDカードを持ってはいるが、そこには「タイ人ではない」と明記されており、チェンコーンのあるチェンライ県内の移動しか認められていなかった。
そのため、結婚後にシンさんを日本に連れていくのは到底叶わないことだった。しかし、そんなことはひろ子さんにとって結婚の障壁とはならなかった。
「もともと子育てはチェンコーンでしようと思っていたんです。日本よりも子供をのびのびと育てられますから」
結婚後しばらくして長女を出産。シンさんはゲストハウスのスタッフを辞めてツアーガイドの仕事を始めた。ひろ子さんは子育てに専念するつもりだったが、シンさんは自分の収入だけでは心もとなかったのか、彼女にも働いてほしいと頼んできた。
◆知人にすすめられてゲストハウス経営をスタート
そこでひろこさんがまず始めたのはメコン川沿いでのペプシの売店である。が、商品をひとつ売ってたった2バーツ(約8円)の利益にしかならなかった。働くのがバカらしくなり、あまり長くは続かなかった。
そんなある日、同じチェンライ県で長くゲストハウスの経営をしていた日本人の知人からゲストハウスの経営をすすめられ、やってみることにした。彼からそのノウハウもいちから教えてもらった。そしてメコン川沿いにあった廃墟のような物件を借りてきれいにリノベーションし、ゲストハウスをオープンした。
当初、あんな辺鄙な場所に客なんて来るはずがないと周囲の反応は冷ややかだったが、その大方の予想を覆してゲストハウスは繁盛した。すると、周囲は一斉に手のひらを返し、たくさんの人が経営を譲れと迫ってきた。さらに物件のオーナーは賃貸ではなく買取にしろと言ってくる。ひろ子さんはそんないざこざに嫌気が差し、しばらくしてその物件から手を引いてゲストハウスを畳んだ。
◆コロナ禍で収入ゼロに。金銭感覚の違いで夫と口論
その後、自分たちが住むために借りていた土地にシンさんがゲストハウスを建て、ひろ子さんは再びゲストハウスの経営をスタートした。それが現在のパパイヤヴィレッジである。
チェンコーンの街の中心部からは少し離れていたが、口コミなどで徐々に客は増えていった。
しかし、そんなときに見舞われたのがコロナ禍である。ゲストハウスの客足はピタリと途絶え、シンさんのツアーガイドの仕事もなくなり、一家の収入はゼロになった。貯金を切り崩してなんとか生活を続けることはできたが、ひろ子さんの不安は募っていくばかりだった。そんな彼女にシンさんはこう言った。
「お金のことはそう心配するな。どうせ死んだらあの世にはお金なんて一銭も持っていけないんだ」
そのあまりに呑気な言葉にひろ子さんはカチンときてしまった。
「冗談じゃない。私たちはまだ生きてる。生きている間はお金が必要なんだ!」
◆窮地を救った常連客からのメール
自分がなんとかしなくては……。この窮状を脱するために手を尽くした。ゲストハウスに併設していた薬草サウナを地元の人たちにも開放した。
和菓子や弁当の製造と宅配も始めた。しかし、どちらもあまりうまくいかなかった。もはや万事休す。そのときに彼女を救ったのはパパイヤヴィレッジの以前の常連客からの1通のメールだった。
その常連客はパパイヤヴィレッジを訪れるといつもチェンコーンの生地などの特産品を大量に買い付けていた。が、コロナ禍で行けなくなってしまったため、代わりにひろ子さんに買い付けをしてもらいたいという。喜んで引き受けた。そしてその仕事で大きな利益をあげ、ゲストハウスの増築までできたのである。
◆「私の旅はまだ終わっていない」
それからしばらくしてコロナの規制も徐々に緩和され、パパイヤヴィレッジに客足も戻ってきた。幾多の困難を乗り越えてようやく手にした平穏な生活。2人の娘もチェンコーンの自然に囲まれてスクスクと育った。長女は今年から親元を離れて大阪の高校に進学。次女は来年チェンコーンの小学校に入学する。シンさんにも再びツアーガイドの仕事が入るようになった。
そしてひろ子さんはゲストハウス経営と子育てで充実した日々を送っているのだが、今後の抱負についてはこう話す。
「また旅に出たいんですよね。旅の途中で立ち寄ったチェンコーンで恋に落ちてゲストハウス経営をすることになりましたけど、私の旅はまだ終わっていない。子育てが落ち着いたらまたその旅の続きをしたいです」
<取材・文/小林ていじ>
【小林ていじ】
バイオレンスものや歴史ものの小説を書いてます。詳しくはTwitterのアカウント@kobayashiteijiで。趣味でYouTuberもやってます。YouTubeチャンネル「ていじの世界散歩」。100均グッズ研究家。
だれもが一度は「海外移住」に憧れたことがあるかもしれない。タイ北部はその温暖な気候などからリタイア後の移住先として日本人に非常に人気が高い。とはいえ、そのタイ北部でもラオスとの国境のメコン川に位置するチェンコーンに住む日本人は今回紹介するひろ子さん(44歳)ただひとり。
彼女はこの地で少数民族“カム族”の夫と結婚し、「パパイヤヴィレッジ」というゲストハウスを経営している。そこに至るまでの経緯を訊いた。
◆少数民族“カム族”の夫は無国籍
ひろ子さんは大阪の高校を卒業後に東京でアルバイトし、貯めたお金でバックパッカー旅行に出ていた。その途中でチェンコーンに立ち寄り、泊まったゲストハウスでのちに夫となるシンさんと知り合った。彼はひろ子さんの8歳年下でそこのスタッフだった。一目惚れだった。
「目がすごくきれいだったんです」
そしてひろ子さんからのアプローチで交際に発展。すぐに結婚も決まったのだが、それからシンさんのことについてわかったこともあった。彼はラオス北部を中心に居住するカム族だったのだが、「国籍がなかった」のである。
◆IDカードには「タイ人ではない」と明記
シンさんの父親はラオスで反政府活動を行い、逮捕・収監されていた。その後、脱獄して家族を連れてタイに国外逃亡する。が、タイは難民を受け入れていない。シンさんはタイのIDカードを持ってはいるが、そこには「タイ人ではない」と明記されており、チェンコーンのあるチェンライ県内の移動しか認められていなかった。
そのため、結婚後にシンさんを日本に連れていくのは到底叶わないことだった。しかし、そんなことはひろ子さんにとって結婚の障壁とはならなかった。
「もともと子育てはチェンコーンでしようと思っていたんです。日本よりも子供をのびのびと育てられますから」
結婚後しばらくして長女を出産。シンさんはゲストハウスのスタッフを辞めてツアーガイドの仕事を始めた。ひろ子さんは子育てに専念するつもりだったが、シンさんは自分の収入だけでは心もとなかったのか、彼女にも働いてほしいと頼んできた。
◆知人にすすめられてゲストハウス経営をスタート
そこでひろこさんがまず始めたのはメコン川沿いでのペプシの売店である。が、商品をひとつ売ってたった2バーツ(約8円)の利益にしかならなかった。働くのがバカらしくなり、あまり長くは続かなかった。
そんなある日、同じチェンライ県で長くゲストハウスの経営をしていた日本人の知人からゲストハウスの経営をすすめられ、やってみることにした。彼からそのノウハウもいちから教えてもらった。そしてメコン川沿いにあった廃墟のような物件を借りてきれいにリノベーションし、ゲストハウスをオープンした。
当初、あんな辺鄙な場所に客なんて来るはずがないと周囲の反応は冷ややかだったが、その大方の予想を覆してゲストハウスは繁盛した。すると、周囲は一斉に手のひらを返し、たくさんの人が経営を譲れと迫ってきた。さらに物件のオーナーは賃貸ではなく買取にしろと言ってくる。ひろ子さんはそんないざこざに嫌気が差し、しばらくしてその物件から手を引いてゲストハウスを畳んだ。
◆コロナ禍で収入ゼロに。金銭感覚の違いで夫と口論
その後、自分たちが住むために借りていた土地にシンさんがゲストハウスを建て、ひろ子さんは再びゲストハウスの経営をスタートした。それが現在のパパイヤヴィレッジである。
チェンコーンの街の中心部からは少し離れていたが、口コミなどで徐々に客は増えていった。
しかし、そんなときに見舞われたのがコロナ禍である。ゲストハウスの客足はピタリと途絶え、シンさんのツアーガイドの仕事もなくなり、一家の収入はゼロになった。貯金を切り崩してなんとか生活を続けることはできたが、ひろ子さんの不安は募っていくばかりだった。そんな彼女にシンさんはこう言った。
「お金のことはそう心配するな。どうせ死んだらあの世にはお金なんて一銭も持っていけないんだ」
そのあまりに呑気な言葉にひろ子さんはカチンときてしまった。
「冗談じゃない。私たちはまだ生きてる。生きている間はお金が必要なんだ!」
◆窮地を救った常連客からのメール
自分がなんとかしなくては……。この窮状を脱するために手を尽くした。ゲストハウスに併設していた薬草サウナを地元の人たちにも開放した。
和菓子や弁当の製造と宅配も始めた。しかし、どちらもあまりうまくいかなかった。もはや万事休す。そのときに彼女を救ったのはパパイヤヴィレッジの以前の常連客からの1通のメールだった。
その常連客はパパイヤヴィレッジを訪れるといつもチェンコーンの生地などの特産品を大量に買い付けていた。が、コロナ禍で行けなくなってしまったため、代わりにひろ子さんに買い付けをしてもらいたいという。喜んで引き受けた。そしてその仕事で大きな利益をあげ、ゲストハウスの増築までできたのである。
◆「私の旅はまだ終わっていない」
それからしばらくしてコロナの規制も徐々に緩和され、パパイヤヴィレッジに客足も戻ってきた。幾多の困難を乗り越えてようやく手にした平穏な生活。2人の娘もチェンコーンの自然に囲まれてスクスクと育った。長女は今年から親元を離れて大阪の高校に進学。次女は来年チェンコーンの小学校に入学する。シンさんにも再びツアーガイドの仕事が入るようになった。
そしてひろ子さんはゲストハウス経営と子育てで充実した日々を送っているのだが、今後の抱負についてはこう話す。
「また旅に出たいんですよね。旅の途中で立ち寄ったチェンコーンで恋に落ちてゲストハウス経営をすることになりましたけど、私の旅はまだ終わっていない。子育てが落ち着いたらまたその旅の続きをしたいです」
<取材・文/小林ていじ>
【小林ていじ】
バイオレンスものや歴史ものの小説を書いてます。詳しくはTwitterのアカウント@kobayashiteijiで。趣味でYouTuberもやってます。YouTubeチャンネル「ていじの世界散歩」。100均グッズ研究家。