統合失調症の症状が表れた8歳上の姉と、彼女を病気とは認めず、玄関に南京錠をかけてまで精神科の受診から遠ざけた両親の姿を20年にわたって記録したドキュメンタリー映画『どうすればよかったか?』が公開中だ。早くも話題を呼んでいる本作の藤野知明監督にインタビューを敢行。“どうすればよかったか”というタイトルに込められた想いなどを聞いた。
◆精神科医の立場からの解説は行わない
――非常に難しい統合失調症というテーマですが、精神科医や専門家の監修を受けたのでしょうか?
藤野知明(以下、藤野):私の姉は生きている間、自分が統合失調症だという認識はまったくありませんでした。そのため、この映像を発表するのは、姉の死後と決めていました。当初は未来の姉の医療に役立てるための記録として撮影していました。父親からは許可を得ていますが、母親からは許可を取っていません。一度、姉の主治医だった方の一人に、こういう作品を作りたいと直接相談したことがありましたが、趣旨に賛同していただけませんでした。他に適切な方は思いつきませんでしたので、精神科医の立場からの解説や検討は行っておりません。
――冒頭に「この映画は姉が統合失調症を発症した理由を究明することを目的にしてはいません」「統合失調症とはどんな病気なのかを説明することも目的ではありません」などのテロップが出ますね。
藤野:私自身も精神科医や専門家ではないので、統合失調症がどういう病気かを解説することはできませんし、作品の目的もそこにはありません。これは作品を作る最初の段階で明確にしたことです。私が知る限りでは、統合失調症の原因はまだ解明されていないと考えていますが、「教育が悪かった」「本人の考え方に問題があった」という言葉を目にすることもあります。根本的に病気の原因がわからないのに、誰かの責任だなんていうことが言えるはずがないわけですよね。僕も素人なので、姉の一例しか知らないわけで、その範囲内で作ったものだということです。
もう少し言うと、「病気」というテーマにフォーカスした話になっていると思われがちですが、実際にはそのつもりはありません。僕としては姉のドキュメンタリーというよりも、姉が統合失調症を発症した後に、私や家族がどのように考え、行動したのかという家族全体のドキュメンタリーを意図していました。だからメインビジュアルも姉ではなく、家族4人が並んでいる状態なんです。
◆過去作との「反応の差に複雑な思いも」
――初めて本作を一般公開したのは「山形国際ドキュメンタリー映画祭」だと思いますが、上映に際しての心境や、上映後の反響を教えてください。
藤野:実はその前にも山形国際ドキュメンタリー映画祭には2回ほどアイヌの先住権民に関する作品を応募していたのですが、いずれも落選していました。今回もコンペ部門には落ちたのですが、コンペ以外の形で上映枠(日本プログラム)があるという連絡があり、「山形で上映してもらえるならどんな形でも構わない」という気持ちで受け入れました。
ただ、ドキュメンタリーというジャンル自体、日本ではやはり涙を誘ったりするようなヒューマニズムを重視したものが受け入れられやすい傾向があります。一方、本作は特に統合失調症に関する描写があるので、果たして観客に受け入れられるのかと心配していました。上映前に「普段放送されないような映像が流れます」と観客にアナウンスしたほうがよいかと考えたのですが、かえって余計な先入観を与えてしまうと考え、最終的には特別な注釈は付けずにそのまま上映しました。
最初は来場者が少ないのではないかと心配し、自分でビラを作って配布もしていたのですが、上映日には比較的多くの人が来てくれて正直ホッとしました。質疑応答の際も好意的に受け止めてくれているのを感じました。特に、自分の家族や知り合いに似た状況の人がいる方々は非常に強い印象を持ってもらえたようで、質疑応答後に話をしてくれる方も多くいました。
ただ、私の中ではアイヌ先住民に関するドキュメンタリーと同じく、どちらも人権の問題を扱っているつもりだったので、反応の差に複雑な思いもあります。とはいえ、今回は多くの人が自分のことのように感じてくれたことが驚きであり、嬉しい気持ちもありました。
◆ナレーションを自分で読んだ理由
――本作のナレーションは監督自身が行っています。プロの方ではなく、なぜ自分でナレーションを読んだのでしょうか?
藤野:まず基本的に、これまで作ってきた作品にはナレーションが入っていませんし、音楽も使っていません。悲しい場面で音楽をつけたり、ナレーションで観客を誘導したりするのは、ドキュメンタリーとしてどうなのかなと感じているんです。本当はテロップもすべて省きたいのですが、映像だけでは説明しきれない部分もあるため、必要最低限のテロップを入れる形にしました。
ナレーションは、あらかじめ書いたものを読むとどうしても嘘っぽくなってしまうんです。そこで共同制作者でプロデューサーを務めている淺野由美子さんに私をインタビューしてもらう形式を採用しました。その中で、思い出しながら話した部分もありますし、「言葉が生まれてくる瞬間」や「言葉の強さ」、さらには話している感情の深さを少しでも感じてもらえたらという思いです。
◆字幕を出さなかった理由
――編集におけるこだわりについてもう一つ伺いたいのですが、先ほど「テロップを入れない」とおっしゃっていましたが、字幕もほとんど付いていなかったと思います。ところどころ聞き取りづらい部分もありましたが、その判断をされた理由は?
藤野:プロの音声スタッフがガンマイクを使っているわけでもなく、カメラの内蔵マイクで録音しているので、音の解像度はあまり良くないです。1人で撮影していたので、あれ以上のクオリティを出すのは難しかったですね。ただ、今回の公開にあたって川上拓也さんというプロの音響技術者に整音をしていただいたので、山形で上映したときよりは改善されていると思います。
字幕を出さなかった理由ですが、字幕を出すと観客がどうしてもそれを読んでしまうんですよね。もちろん、言葉が理解できるに越したことはないのですが、映像の中には言葉以上に多くの情報が詰まっているんです。字幕を出すと、視線が画面の下に集中してしまい、映像そのものへの注目が減ってしまうという悩ましさがありました。とはいえ、冒頭では字幕を入れました。
ただ、姉が話している場面で字幕を付けても、観客には理解しづらいだろうと思います。主治医の方が「言葉のサラダ」と表現していたのですが、姉の話す言葉は関連性のない単語やフレーズが繋がっていて、文章として意味が通じないことが多かったんです。そのため、字幕を付けてもあまり効果的ではないと判断しました。
◆帰省したら「ピザの箱が50箱も出てきた」
――シーンではイカリングなど、食事のシーンがとても印象的でした。
藤野:そうですね。わりとご飯を作っているところは撮影していましたね。実は、母が父よりも早く認知症の症状が出始めたため、料理を作れなくなってしまったんです。それで父が料理を作ったり、簡単な惣菜やお弁当を買ってきたりしていました。
ただ、これもある種の認知症の影響だと思うのですが、実家に帰省したとき、父が物を捨てられなくなっているのに気づいたんです。姉がピザ好きだった影響もあるのか、帰省したらなんとピザの箱が50箱くらい出てきました。捨てればいいのにと思ったんですが、何かに使えると思ったのか、それらをしまい込んでいたんです。とても驚きました。
――藤野さんは一度住宅メーカーに勤務されてから、日本映画学校に入学されています。ある意味では安定を捨てるような大きな決断だったと思いますが、なぜ踏み切れたのでしょうか?
藤野:実は大学4年生のとき、アニメーションのスタジオなどを受けたことがありました。でも、実写映画に挑戦する自信はなかったし、ドキュメンタリーもよくわかりませんでした。ただ、絵を描くことが好きだったので、自分に一番向いているのはアニメーションかなと思い、いくつか挑戦しましたが、1次選考で全て落ちてしまったんです。それで、「もう映画やアニメの仕事をすることはないだろう」と思い、すべて諦めるつもりで就職しました。
神奈川方面の会社に就職し、営業の仕事をしていましたが、ある日、お客様のところに向かう途中で偶然、日本映画学校の前を通りかかったんです。そのとき、「自分には無理だろうな」と思っていたものの、営業の仕事が正直しんどかったこともあり、思い切って願書をもらいに行きました。実家のこととは関係なく、「映画の仕事に関わる道があるのではないか」と考え、専門学校に通う決断をしたんです。
◆19歳のときに衝撃を受けた「作品」
――これまでで最も影響を受けたドキュメンタリーは?
藤野:小川紳介監督の『1000年刻みの日時計 牧野村物語』です。19歳のときに札幌で上映されているのを観ました。非常に長いドキュメンタリーで、昼から観始めて劇場を出たときにはもう外は真っ暗になっていたのを覚えています。
あれを観て、それまで自分の中だけで考えていたことが、実は自分の知らない世界には全く違う考え方をして生きている人々がたくさんいることに気づきました。小川監督は13年ほど牧野村に住み込んで撮影されたそうですが、どうしたらそんな長期間にわたって、こんな作品を撮ろうとするのだろうと、本当に考えさせられました。
<取材・文/シルバー井荻>
【シルバー井荻】
平成生まれのライター、編集者。ファミマ、ワークマンマニア。「日刊SPA!」「bizSPA!フレッシュ」などの媒体で執筆しています
◆精神科医の立場からの解説は行わない
――非常に難しい統合失調症というテーマですが、精神科医や専門家の監修を受けたのでしょうか?
藤野知明(以下、藤野):私の姉は生きている間、自分が統合失調症だという認識はまったくありませんでした。そのため、この映像を発表するのは、姉の死後と決めていました。当初は未来の姉の医療に役立てるための記録として撮影していました。父親からは許可を得ていますが、母親からは許可を取っていません。一度、姉の主治医だった方の一人に、こういう作品を作りたいと直接相談したことがありましたが、趣旨に賛同していただけませんでした。他に適切な方は思いつきませんでしたので、精神科医の立場からの解説や検討は行っておりません。
――冒頭に「この映画は姉が統合失調症を発症した理由を究明することを目的にしてはいません」「統合失調症とはどんな病気なのかを説明することも目的ではありません」などのテロップが出ますね。
藤野:私自身も精神科医や専門家ではないので、統合失調症がどういう病気かを解説することはできませんし、作品の目的もそこにはありません。これは作品を作る最初の段階で明確にしたことです。私が知る限りでは、統合失調症の原因はまだ解明されていないと考えていますが、「教育が悪かった」「本人の考え方に問題があった」という言葉を目にすることもあります。根本的に病気の原因がわからないのに、誰かの責任だなんていうことが言えるはずがないわけですよね。僕も素人なので、姉の一例しか知らないわけで、その範囲内で作ったものだということです。
もう少し言うと、「病気」というテーマにフォーカスした話になっていると思われがちですが、実際にはそのつもりはありません。僕としては姉のドキュメンタリーというよりも、姉が統合失調症を発症した後に、私や家族がどのように考え、行動したのかという家族全体のドキュメンタリーを意図していました。だからメインビジュアルも姉ではなく、家族4人が並んでいる状態なんです。
◆過去作との「反応の差に複雑な思いも」
――初めて本作を一般公開したのは「山形国際ドキュメンタリー映画祭」だと思いますが、上映に際しての心境や、上映後の反響を教えてください。
藤野:実はその前にも山形国際ドキュメンタリー映画祭には2回ほどアイヌの先住権民に関する作品を応募していたのですが、いずれも落選していました。今回もコンペ部門には落ちたのですが、コンペ以外の形で上映枠(日本プログラム)があるという連絡があり、「山形で上映してもらえるならどんな形でも構わない」という気持ちで受け入れました。
ただ、ドキュメンタリーというジャンル自体、日本ではやはり涙を誘ったりするようなヒューマニズムを重視したものが受け入れられやすい傾向があります。一方、本作は特に統合失調症に関する描写があるので、果たして観客に受け入れられるのかと心配していました。上映前に「普段放送されないような映像が流れます」と観客にアナウンスしたほうがよいかと考えたのですが、かえって余計な先入観を与えてしまうと考え、最終的には特別な注釈は付けずにそのまま上映しました。
最初は来場者が少ないのではないかと心配し、自分でビラを作って配布もしていたのですが、上映日には比較的多くの人が来てくれて正直ホッとしました。質疑応答の際も好意的に受け止めてくれているのを感じました。特に、自分の家族や知り合いに似た状況の人がいる方々は非常に強い印象を持ってもらえたようで、質疑応答後に話をしてくれる方も多くいました。
ただ、私の中ではアイヌ先住民に関するドキュメンタリーと同じく、どちらも人権の問題を扱っているつもりだったので、反応の差に複雑な思いもあります。とはいえ、今回は多くの人が自分のことのように感じてくれたことが驚きであり、嬉しい気持ちもありました。
◆ナレーションを自分で読んだ理由
――本作のナレーションは監督自身が行っています。プロの方ではなく、なぜ自分でナレーションを読んだのでしょうか?
藤野:まず基本的に、これまで作ってきた作品にはナレーションが入っていませんし、音楽も使っていません。悲しい場面で音楽をつけたり、ナレーションで観客を誘導したりするのは、ドキュメンタリーとしてどうなのかなと感じているんです。本当はテロップもすべて省きたいのですが、映像だけでは説明しきれない部分もあるため、必要最低限のテロップを入れる形にしました。
ナレーションは、あらかじめ書いたものを読むとどうしても嘘っぽくなってしまうんです。そこで共同制作者でプロデューサーを務めている淺野由美子さんに私をインタビューしてもらう形式を採用しました。その中で、思い出しながら話した部分もありますし、「言葉が生まれてくる瞬間」や「言葉の強さ」、さらには話している感情の深さを少しでも感じてもらえたらという思いです。
◆字幕を出さなかった理由
――編集におけるこだわりについてもう一つ伺いたいのですが、先ほど「テロップを入れない」とおっしゃっていましたが、字幕もほとんど付いていなかったと思います。ところどころ聞き取りづらい部分もありましたが、その判断をされた理由は?
藤野:プロの音声スタッフがガンマイクを使っているわけでもなく、カメラの内蔵マイクで録音しているので、音の解像度はあまり良くないです。1人で撮影していたので、あれ以上のクオリティを出すのは難しかったですね。ただ、今回の公開にあたって川上拓也さんというプロの音響技術者に整音をしていただいたので、山形で上映したときよりは改善されていると思います。
字幕を出さなかった理由ですが、字幕を出すと観客がどうしてもそれを読んでしまうんですよね。もちろん、言葉が理解できるに越したことはないのですが、映像の中には言葉以上に多くの情報が詰まっているんです。字幕を出すと、視線が画面の下に集中してしまい、映像そのものへの注目が減ってしまうという悩ましさがありました。とはいえ、冒頭では字幕を入れました。
ただ、姉が話している場面で字幕を付けても、観客には理解しづらいだろうと思います。主治医の方が「言葉のサラダ」と表現していたのですが、姉の話す言葉は関連性のない単語やフレーズが繋がっていて、文章として意味が通じないことが多かったんです。そのため、字幕を付けてもあまり効果的ではないと判断しました。
◆帰省したら「ピザの箱が50箱も出てきた」
――シーンではイカリングなど、食事のシーンがとても印象的でした。
藤野:そうですね。わりとご飯を作っているところは撮影していましたね。実は、母が父よりも早く認知症の症状が出始めたため、料理を作れなくなってしまったんです。それで父が料理を作ったり、簡単な惣菜やお弁当を買ってきたりしていました。
ただ、これもある種の認知症の影響だと思うのですが、実家に帰省したとき、父が物を捨てられなくなっているのに気づいたんです。姉がピザ好きだった影響もあるのか、帰省したらなんとピザの箱が50箱くらい出てきました。捨てればいいのにと思ったんですが、何かに使えると思ったのか、それらをしまい込んでいたんです。とても驚きました。
――藤野さんは一度住宅メーカーに勤務されてから、日本映画学校に入学されています。ある意味では安定を捨てるような大きな決断だったと思いますが、なぜ踏み切れたのでしょうか?
藤野:実は大学4年生のとき、アニメーションのスタジオなどを受けたことがありました。でも、実写映画に挑戦する自信はなかったし、ドキュメンタリーもよくわかりませんでした。ただ、絵を描くことが好きだったので、自分に一番向いているのはアニメーションかなと思い、いくつか挑戦しましたが、1次選考で全て落ちてしまったんです。それで、「もう映画やアニメの仕事をすることはないだろう」と思い、すべて諦めるつもりで就職しました。
神奈川方面の会社に就職し、営業の仕事をしていましたが、ある日、お客様のところに向かう途中で偶然、日本映画学校の前を通りかかったんです。そのとき、「自分には無理だろうな」と思っていたものの、営業の仕事が正直しんどかったこともあり、思い切って願書をもらいに行きました。実家のこととは関係なく、「映画の仕事に関わる道があるのではないか」と考え、専門学校に通う決断をしたんです。
◆19歳のときに衝撃を受けた「作品」
――これまでで最も影響を受けたドキュメンタリーは?
藤野:小川紳介監督の『1000年刻みの日時計 牧野村物語』です。19歳のときに札幌で上映されているのを観ました。非常に長いドキュメンタリーで、昼から観始めて劇場を出たときにはもう外は真っ暗になっていたのを覚えています。
あれを観て、それまで自分の中だけで考えていたことが、実は自分の知らない世界には全く違う考え方をして生きている人々がたくさんいることに気づきました。小川監督は13年ほど牧野村に住み込んで撮影されたそうですが、どうしたらそんな長期間にわたって、こんな作品を撮ろうとするのだろうと、本当に考えさせられました。
<取材・文/シルバー井荻>
【シルバー井荻】
平成生まれのライター、編集者。ファミマ、ワークマンマニア。「日刊SPA!」「bizSPA!フレッシュ」などの媒体で執筆しています