平成ギャルがトレンドになっている昨今。見た目だけではなく精神性にも注目が集まり、ポジティブに自分らしさを貫くマインドが支持されているという。そうした再ブームで気になるのは、かつて渋谷センター街を賑わせていたギャルたちの今だ。10代・20代を謳歌していた彼女たちは、年齢を重ねてどのような女性になっているのだろう。
今回登場するのは、モデル/DJの山城奈々さん(36歳)。中学時代にはファッション誌の専属モデル、高校時代にはギャルサー(ギャルサークル)の2代目代表としてメディアにも出演し、一時期はタレントとして活躍していたが、高校卒業とともにギャルファッションからは離れていった。
それから15年以上が経った今、有名ブランドのランウェイモデル、グラフィックデザイナー、DJなど、幅広い分野で活動している。そんな華やかなキャリアを築いている山城さんだが、実はその裏で激動の人生を歩んでいたようだ。モデルデビュー、離婚、病気発覚……「普通に生きることは無理なので」という山城さんの半生とは。
◆ギャルになったきっかけは、ヤンキーな親友とトランス
山城さんがギャルに目覚めたのは小学校高学年の頃。もともとは内向的な性格だったが、親友との出会いによって生き方が変わった。
「今の性格になれたのは親友の影響が大きいと思います。親友はヤンキー一家で育ってきた子だったんですよね。一方、私はエリート一家のお堅い家庭で育てられてきて。門限は18時、スウェットで歩くのはダメ、ガムを食べるのもダメみたいな厳しい家だったんです。家庭の事情も色々あってゴタゴタしてたこともあってとにかく息苦しかった。そんな時期に、親友やその家族の自由な生き方には刺激を受けましたね」
2000年初頭。当時はギャルブーム真っ只中でもあった。雑誌『Popteen』『Cawaii!』『egg』や、漫画『GALS!』、パラパラやトラパラなどが大流行。山城さんはそうしたカルチャーにも刺激を受けていく。派手な格好ってかわいい、こういう生き様になりたい……とギャルへの思いは次第に強くなっていった。
なかでも音楽には多大な影響を受けたという。
「小学校5年生の頃に、初めてサイバートランスを聴いたんです。それまでスピッツばっかり聴いてたんですけど、そこでトランスミュージックにもハマって。どんな人がこういう音楽聴いてるんだろうと思って調べたら“ギャル”だったんですよね」
服装やヘアメイクはどんどん派手になっていった。親にとめられようが、先生から指導されようが、自分が今いちばんしたい格好を貫きたい。派手なだけで何が悪いのか、と大人たちに堂々と主張できるようにもなった。
そんななか渋谷109の下でスカウトされ、中学2年生にしてティーン雑誌の専属モデルとしてデビュー。モデルとしてバリバリ働き、自分で稼ぐ楽しさを知る。
家庭の事情も色々あって——そう言っていた山城さんだが、実はバブル崩壊の影響で、父親の仕事が上手くいかなくなっていたという。そうした背景もあり、学生の頃から自立心が強かった。
「自分で生きていくためにはどう稼ごうかなってことを考えてました。父は子どもにいい暮らしをさせてあげられていないという罪悪感で精神的に病んでいて。小さい頃からそんな親の姿を見ていたので、早く自立しなきゃなと思ってましたね」
モデルとして活躍するようになると、親も先生もなにも言わなくなったそうだ。そうか、やりたいことを認めてもらうには成功すればいいのか、周囲の変化を見てそう感じたという。そのうち“ギャル”として有名になりたいと考えるようになった。
肌を黒くし、髪はハイトーンカラーに染め、個性的なギャルファッションに身を包む山城さん。そんな彼女の姿は地元・埼玉でも存在感があったに違いない。
地元の祭りで遊んでいたところ、先輩から「今度東京に新しくできるギャルサーに入らないか」と声をかけられたという。ギャルサーにも興味があった山城さんは、その場ですぐに加入を決めた。
◆ギャルサー総代表に抜擢。ギャルとして有名に
渋谷を歩けばギャルだらけの時代。山城さんは差別化を図るため、コンセプトを決めてスタイリングしていたという。彼女は笑いながら「自分のことマーメイドとか言ってたんですよ!」と振り返る。当時の写真を見せてもらうと、ブロンド×ピンクのロングヘアーに、全身ブルーのコーディネートで、確かにマーメイドのようだった。
そんな山城さんはサークル内でも目立っており、2代目総代表にも抜擢。サークルの顔として活動することとなる。さらには知人からの誘いで、ギャル関連のプロデュース業として会社も任されていたとか。密着取材、モデル業、番組出演、商品企画、学業……と多忙を極める日々。学校との両立は大変だったが、仕事はとにかく楽しかったという。
「高校生で会社をやることってあんまりない経験じゃないですか。これだ、という感覚がありました。会社員には向いていないと思ってたんですけど、これなら私に合ってると思いましたね。ギャルを経験したことで自己プロデュースの面白さがわかった気がします」
だが、高校卒業とともにギャルファッションからも離れた。「ギャルは高校生まで」とあらかじめ決めていたという話はギャルたちの間でよく聞くが、山城さんもそう考えていたようだ。
それから15年以上経つ今では、モード系のファッションモデルとして活躍している。それに加えて、グラフィックデザイナー、マーケティング、DJなどと活動の幅を広げている。いきいきとしている彼女の姿がまぶしくみえる人もきっと多いのだろう。「苦労してなさそうだとよく言われます」と山城さんは話す。
だが、そんな山城さんには、療養のためにモデル業を休んでいた時期もあるようだ。山城さんのInstagramにはしばらく大病を患っていたことが書かれている。
筆者がそれについてふれると、彼女はまず「強制離婚させられて……」と思いがけない話を聞かせてくれた。
◆強制離婚と手術で疲弊する日々
「5年間、結婚してたんですよ。その間は色々大変でした。彼のメンタルが不安定になって、私に対する当たりも強くなっていったんです。それでも私は好きだったんですけど、話し合う余地もなく、一方的な感じで別れることになりました。かなり落ち込みましたね」
ちょうどその頃、山城さんは婦人科系の検査で異常が見つかり、手術をすることになっていた。離婚の話が進むなかでの体の不調。精神的にかなりまいっていた。
そんな中で手術は無事に終了。疲れ切っていた山城さんだったが、その翌日に離婚届を提出されてしまったという……ショックは大きく、傷が癒えぬままひとりの生活をはじめて1週間。山城さんにさらなる困難が降りかかる。
◆離婚から1週間でがん宣告
なんと手術によって、子宮頸がんが見つかったのだ。医師からは薬で治すことは無理だと診断され、子宮を全摘出するように言われた。
「ここまでくると笑っちゃいましたね。でもこれは人生を切り替えるチャンスだなって。両親に報告したときも『これを乗り越えて絶対見違える人生にするから!』って話したりして。こんな状況、人によっては絶望してるとは思うんですけど。自分を信じることにしました」
心配した両親からは帰省を提案されたが、決して帰ることはなかった。ここで甘えたら負けると自分を奮い立たせ、山城さんはどん底の中をひとりで耐えたという。
SNSでガンを患っている人たちと繋がりを持ち情報交換、セカンドオピニオンも受けた。それでも子宮全摘出という診断は変わらなかったが、山城さんは諦めなかった。自ら治療のエビデンスを調べあげ、できるだけのことは全て試し、どうにか摘出せずに治す方法をひたすら探し続けた。
そして、それから2年以上が経った現在。なんと今は寛解を保っているという。
あれだけ治療は難しいとされていたにもかかわらず、3、4回の治験で治ったとか。これにはさすがに医師も驚いていたようだ。山城さんも「これはギャルじゃなかったら絶対乗り越えられない」と言う。
「自分を信じることって本当に大事だなと思いますよね。離婚とガンを数週間で経験したことは辛かったし、本当は経験したくないことではあるんですけど、結果的には経験してよかったです」
今は仕事がいちばん欠かせないという。どこでも仕事ができる状態にしておけば自分の好きなことができると意欲的だ。無駄な時間は過ごしたくないという。
「時間は有限なのでやりたいことをやるようにしてます。私は普通に生きることは無理なので。だからもう色々起きてもいいやって。もうちょっとやそっとで驚かない。どうでもいいことで悩んだりしなくなりました。この人生に後悔はないです、結婚も離婚もしたし(笑)」
「離婚とガン」という苦難ですら、すでに過去の話というようにさらっと話す。そんな山城さんの物ともしない姿勢がカッコいい。絶望的な状況をどんどん好転させていった山城さんの話には、今ギャルマインドが支持されている理由が詰まっている気がした。
<取材・文/奈都樹、撮影/長谷英史>
【奈都樹】
1994年生まれ。リアルサウンド編集部に所属後、現在はフリーライターに。『リアルサウンド』『日刊サイゾー』などで執筆。またnoteでは、クォーターライフクライシスの渦中にいる20代の声を集めたインタビューサイト『小さな生活の声』を運営している。
―[“ギャル”のその後]―
今回登場するのは、モデル/DJの山城奈々さん(36歳)。中学時代にはファッション誌の専属モデル、高校時代にはギャルサー(ギャルサークル)の2代目代表としてメディアにも出演し、一時期はタレントとして活躍していたが、高校卒業とともにギャルファッションからは離れていった。
それから15年以上が経った今、有名ブランドのランウェイモデル、グラフィックデザイナー、DJなど、幅広い分野で活動している。そんな華やかなキャリアを築いている山城さんだが、実はその裏で激動の人生を歩んでいたようだ。モデルデビュー、離婚、病気発覚……「普通に生きることは無理なので」という山城さんの半生とは。
◆ギャルになったきっかけは、ヤンキーな親友とトランス
山城さんがギャルに目覚めたのは小学校高学年の頃。もともとは内向的な性格だったが、親友との出会いによって生き方が変わった。
「今の性格になれたのは親友の影響が大きいと思います。親友はヤンキー一家で育ってきた子だったんですよね。一方、私はエリート一家のお堅い家庭で育てられてきて。門限は18時、スウェットで歩くのはダメ、ガムを食べるのもダメみたいな厳しい家だったんです。家庭の事情も色々あってゴタゴタしてたこともあってとにかく息苦しかった。そんな時期に、親友やその家族の自由な生き方には刺激を受けましたね」
2000年初頭。当時はギャルブーム真っ只中でもあった。雑誌『Popteen』『Cawaii!』『egg』や、漫画『GALS!』、パラパラやトラパラなどが大流行。山城さんはそうしたカルチャーにも刺激を受けていく。派手な格好ってかわいい、こういう生き様になりたい……とギャルへの思いは次第に強くなっていった。
なかでも音楽には多大な影響を受けたという。
「小学校5年生の頃に、初めてサイバートランスを聴いたんです。それまでスピッツばっかり聴いてたんですけど、そこでトランスミュージックにもハマって。どんな人がこういう音楽聴いてるんだろうと思って調べたら“ギャル”だったんですよね」
服装やヘアメイクはどんどん派手になっていった。親にとめられようが、先生から指導されようが、自分が今いちばんしたい格好を貫きたい。派手なだけで何が悪いのか、と大人たちに堂々と主張できるようにもなった。
そんななか渋谷109の下でスカウトされ、中学2年生にしてティーン雑誌の専属モデルとしてデビュー。モデルとしてバリバリ働き、自分で稼ぐ楽しさを知る。
家庭の事情も色々あって——そう言っていた山城さんだが、実はバブル崩壊の影響で、父親の仕事が上手くいかなくなっていたという。そうした背景もあり、学生の頃から自立心が強かった。
「自分で生きていくためにはどう稼ごうかなってことを考えてました。父は子どもにいい暮らしをさせてあげられていないという罪悪感で精神的に病んでいて。小さい頃からそんな親の姿を見ていたので、早く自立しなきゃなと思ってましたね」
モデルとして活躍するようになると、親も先生もなにも言わなくなったそうだ。そうか、やりたいことを認めてもらうには成功すればいいのか、周囲の変化を見てそう感じたという。そのうち“ギャル”として有名になりたいと考えるようになった。
肌を黒くし、髪はハイトーンカラーに染め、個性的なギャルファッションに身を包む山城さん。そんな彼女の姿は地元・埼玉でも存在感があったに違いない。
地元の祭りで遊んでいたところ、先輩から「今度東京に新しくできるギャルサーに入らないか」と声をかけられたという。ギャルサーにも興味があった山城さんは、その場ですぐに加入を決めた。
◆ギャルサー総代表に抜擢。ギャルとして有名に
渋谷を歩けばギャルだらけの時代。山城さんは差別化を図るため、コンセプトを決めてスタイリングしていたという。彼女は笑いながら「自分のことマーメイドとか言ってたんですよ!」と振り返る。当時の写真を見せてもらうと、ブロンド×ピンクのロングヘアーに、全身ブルーのコーディネートで、確かにマーメイドのようだった。
そんな山城さんはサークル内でも目立っており、2代目総代表にも抜擢。サークルの顔として活動することとなる。さらには知人からの誘いで、ギャル関連のプロデュース業として会社も任されていたとか。密着取材、モデル業、番組出演、商品企画、学業……と多忙を極める日々。学校との両立は大変だったが、仕事はとにかく楽しかったという。
「高校生で会社をやることってあんまりない経験じゃないですか。これだ、という感覚がありました。会社員には向いていないと思ってたんですけど、これなら私に合ってると思いましたね。ギャルを経験したことで自己プロデュースの面白さがわかった気がします」
だが、高校卒業とともにギャルファッションからも離れた。「ギャルは高校生まで」とあらかじめ決めていたという話はギャルたちの間でよく聞くが、山城さんもそう考えていたようだ。
それから15年以上経つ今では、モード系のファッションモデルとして活躍している。それに加えて、グラフィックデザイナー、マーケティング、DJなどと活動の幅を広げている。いきいきとしている彼女の姿がまぶしくみえる人もきっと多いのだろう。「苦労してなさそうだとよく言われます」と山城さんは話す。
だが、そんな山城さんには、療養のためにモデル業を休んでいた時期もあるようだ。山城さんのInstagramにはしばらく大病を患っていたことが書かれている。
筆者がそれについてふれると、彼女はまず「強制離婚させられて……」と思いがけない話を聞かせてくれた。
◆強制離婚と手術で疲弊する日々
「5年間、結婚してたんですよ。その間は色々大変でした。彼のメンタルが不安定になって、私に対する当たりも強くなっていったんです。それでも私は好きだったんですけど、話し合う余地もなく、一方的な感じで別れることになりました。かなり落ち込みましたね」
ちょうどその頃、山城さんは婦人科系の検査で異常が見つかり、手術をすることになっていた。離婚の話が進むなかでの体の不調。精神的にかなりまいっていた。
そんな中で手術は無事に終了。疲れ切っていた山城さんだったが、その翌日に離婚届を提出されてしまったという……ショックは大きく、傷が癒えぬままひとりの生活をはじめて1週間。山城さんにさらなる困難が降りかかる。
◆離婚から1週間でがん宣告
なんと手術によって、子宮頸がんが見つかったのだ。医師からは薬で治すことは無理だと診断され、子宮を全摘出するように言われた。
「ここまでくると笑っちゃいましたね。でもこれは人生を切り替えるチャンスだなって。両親に報告したときも『これを乗り越えて絶対見違える人生にするから!』って話したりして。こんな状況、人によっては絶望してるとは思うんですけど。自分を信じることにしました」
心配した両親からは帰省を提案されたが、決して帰ることはなかった。ここで甘えたら負けると自分を奮い立たせ、山城さんはどん底の中をひとりで耐えたという。
SNSでガンを患っている人たちと繋がりを持ち情報交換、セカンドオピニオンも受けた。それでも子宮全摘出という診断は変わらなかったが、山城さんは諦めなかった。自ら治療のエビデンスを調べあげ、できるだけのことは全て試し、どうにか摘出せずに治す方法をひたすら探し続けた。
そして、それから2年以上が経った現在。なんと今は寛解を保っているという。
あれだけ治療は難しいとされていたにもかかわらず、3、4回の治験で治ったとか。これにはさすがに医師も驚いていたようだ。山城さんも「これはギャルじゃなかったら絶対乗り越えられない」と言う。
「自分を信じることって本当に大事だなと思いますよね。離婚とガンを数週間で経験したことは辛かったし、本当は経験したくないことではあるんですけど、結果的には経験してよかったです」
今は仕事がいちばん欠かせないという。どこでも仕事ができる状態にしておけば自分の好きなことができると意欲的だ。無駄な時間は過ごしたくないという。
「時間は有限なのでやりたいことをやるようにしてます。私は普通に生きることは無理なので。だからもう色々起きてもいいやって。もうちょっとやそっとで驚かない。どうでもいいことで悩んだりしなくなりました。この人生に後悔はないです、結婚も離婚もしたし(笑)」
「離婚とガン」という苦難ですら、すでに過去の話というようにさらっと話す。そんな山城さんの物ともしない姿勢がカッコいい。絶望的な状況をどんどん好転させていった山城さんの話には、今ギャルマインドが支持されている理由が詰まっている気がした。
<取材・文/奈都樹、撮影/長谷英史>
【奈都樹】
1994年生まれ。リアルサウンド編集部に所属後、現在はフリーライターに。『リアルサウンド』『日刊サイゾー』などで執筆。またnoteでは、クォーターライフクライシスの渦中にいる20代の声を集めたインタビューサイト『小さな生活の声』を運営している。
―[“ギャル”のその後]―