昭和や平成に比べ、格段に有名人の訃報が多くなった令和。イギリスBBCの訃報担当編集長であるニック・サーペルは「テレビや大衆文化が花開き、有名人の数が一気に増えた1960年代から半世紀経ったことの自然な帰結だ」と述べている。第一次ベビーブーム世代も、そろそろ80歳前後。残念だが、自然の道理なのだろう。
というわけで、2024年に亡くなった著名人・有名人を偲んでいきたい。
◆【1月】冠二郎さん
1月1日、歌手の冠二郎さんが心不全のため亡くなった。享年79歳。冠さんといったら「アイアイアイライク演歌~♪」の歌詞が度肝を抜く92年のヒット曲『炎』がまっさきに思い浮かぶ。なぜ、「ラブ」ではなく「ライク」なのか? いろいろな意味でものすごいインパクトの曲だった。
続く93年には、なぜかマイクを2本持ちながら歌う曲『ムサシ』で畳み掛けた。大谷翔平より30年近く早い“マイク二刀流”は、「演歌もここまできたか」とリスナーを唸らせるに十分な革新性。なにしろ、冠さんは自らの楽曲を“ネオ演歌”と名付けていた。
そのユニークなキャラクターで、バラエティ番組に呼ばれることもしばしばだった。忘れられないのは、『ダウンタウン汁』(TBS系)に出演した際の勇姿。ダウンタウンと今田耕司から「背中に入れ墨があるのでは?」と迫られ、意を決したようにシャツを脱ぎ始めた冠さん。それまで無責任に囃し立てていたダウンタウンも、冠さんの思い詰めた様子を見て顔面蒼白に……。結果、晒されたのは何も描かれていない冠さんのツルンとした背中であった。つまり、彼の背中に入れ墨はなかったということ。あまりに完璧な形で一本取られた、若き日のダウンタウン。なかなか見られない光景なので、今も鮮烈に記憶に残っている。
◆【1月】篠山紀信さん
1月4日、写真家の篠山紀信さんが老衰で亡くなった。享年83歳。その時代を象徴する人物を撮り続けていた篠山さんだが、世界的に有名なのはジョン・レノンのアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケット写真だろう。ジョンとオノヨーコがキスをする瞬間を収めた、素晴らしい一枚だ。
「大物女優を脱がせるのがうまい」という一面に触れないわけにもいかない。特に、91年に発表された宮沢りえのヌード写真集『Santa Fe』(朝日出版社)の衝撃には震えた。未公開の予定だったものの後になぜか流出した、山口百恵さんのヌード写真を撮っていたのも驚きだった。
最近では、撮影中の藤原竜也に対し「射精しなさい」と注文したり、田中みな実が篠山さんの押しに負けてニップレスを外した話を明かしたり、老いてなお盛んであった。氏の逝去が報じられた当日、ライターの吉田豪氏がXに投稿した「逃げ切っちゃったなー。」というポストは意味深だ。
◆【1月】エスパー伊東さん
1月16日、元お笑い芸人のエスパー伊東さんが亡くなった。享年63歳。特異なキャリアを歩んだ人である。当初は超常現象肯定派として真面目にメディア出演していたはずが、いつの間にやらボストンバッグの中に入り込む人になっていた。
この“カバン芸”が売りでもあり、ネックでもあった。実は、中学生の頃に変形性股関節症と診断されていた伊東さん。つまり、股関節が悪いのに営業で小さいバッグに入りまくっていたわけである。ゴム手袋を鼻息で膨らませるという芸も、体に負担がかかっていないわけがない。2018年には股関節の治療のため芸能活動の休止を発表し、休業中には多発性脳梗塞を発症した。まさに、命を削る芸だったのだ。
近所のラーメン屋で「ぶつかった」と因縁をつけてきた男から定期的に金を脅し取られ、被害総額は1000万円以上にのぼったとされる恐喝事件も彼を追い詰めた。すぐに警察に相談すれば解決する話だが、伊東さんいわく「怖かったからすぐに相談できなかった」とのこと。なんとも脱力する話ではないか。しかし、こういう輩をすぐに撃退できたらエスパー伊東ではないという気もする。
振り返ると、この人が出演した回の『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系)はハズレなしだった。めちゃイケ世代の多くは「はい〜」といえば、やすこよりもエスパー伊東だろう。「辛子饅頭ニコニコ食い」がもう見られないかと思うと、悲しい。合掌。
◆【1月】利根川裕さん
1月29日、作家の利根川裕さんが下肢閉塞性動脈硬化症のため亡くなった。享年93歳。ドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)で、主役の阿部サダヲが「昭和に戻ってトゥナイト見た〜い」と連呼していたが、なにを隠そう『トゥナイト』(テレビ朝日系)の初代司会者は利根川さんである。
『トゥナイト』がスタートしたのは1980年。番組前半では政治・経済を、後半ではセクシーな情報を扱う構成が多かった『トゥナイト』。80年代はビデオデッキが急激に普及していた過渡期で、当時の若い男子からすると『トゥナイト』は貴重なオカズ番組だった。胸を丸出しにした女性に山本晋也監督がインタビューし、「ほとんどビョーキ!」とお約束のセリフをキメる定番のくだり。もう、思い出すだけでうれしくなってくる。その一方、真顔で東京佐川急便を巡る汚職事件を扱う硬派な側面も断じて忘れない。今考えると、極めてカオスな情報番組だった。
ちなみに、『トゥナイト』の司会を務めたのは、『婦人公論』(中央公論新社)の副編集長を経て作家になった利根川さん。そして、1994年にスタートした『トゥナイト2』の司会を務めたのは『POPEYE』(マガジンハウス)を創刊した石川次郎である。「CMのうちにトイレへどうぞ」という乱一世の失言が放送されたのは、『トゥナイト2』のほうだ。現在、神田伯山が自身のラジオ番組のCM明けに「楽しいCMも終わりまして」とよく口にするが、もしかしたら『トゥナイト2』の乱一世を反面教師にしているのかもしれない。
◆【2月】山本陽子さん
2月20日、日本を代表する女優の山本陽子さんが亡くなった。享年81歳。山本さんといえば「両国予備校」「山本海苔店」「コーミソース」のCMを思い浮かべる人が多いだろう。ドラマでいえば、『黒革の手帖』(テレビ朝日系)の原口元子役が出色。2004年には米倉涼子が元子を演じたが、初代は山本さんなのだ。
『ザ・ハングマンV』(テレビ朝日系)で演じたパピヨン役も印象深い。普段は専業主婦だが、裏の顔は犯罪者たちを処刑するハングマンの女性リーダー。そして、そんなパピヨンをサポートする武闘派サブリーダー・ファルコンを演じたのは若き日の佐藤浩市で、さまざまな武器を開発する頭脳派のエジソンを演じたのは火野正平だった。
また、“車好き”としても有名だった山本さん。赤のポルシェ911Sの日本初の納車先は、なにを隠そう彼女であった。「緑の中を走り抜けてく真っ赤なポルシェ」という歌詞が登場する山口百恵の代表曲『プレイバックPart2』のモデルは、もしかしたら山本さんでは? という都市伝説まで存在する。昭和の強い女性を体現する美人女優であった。
◆【3月】寺田農さん
3月23日、俳優の寺田農さんが肺がんのため亡くなった。享年81歳。寺田さんといえば、若い人たちの多くは『天空の城ラピュタ』のムスカの声の人という印象になるのだろうが、少し待ってほしい。寺田農といえば、ポッと出の新人時代になぜか主役に大抜擢された故・岡本喜八監督の傑作『肉弾』がやはり挙がるはずだ。
ドラマ『前略おふくろ様』(日本テレビ系)では萩原健一演じる主人公・片島三郎のすぐ上の冷たい兄・修役を務めたり、映画『オルゴール』では主演の長渕剛から日本刀で斬殺されたり、クズを誇張した嫌な役どころが本当にうまかった。物腰の柔らかさを維持しつつ、怖さも伝えられる俳優。加えて、自ら監督としてセクシービデオを制作したこともあり、若き日の椎名桔平を付き人にして面倒を見たエピソードも有名。なんとも稀有な存在だった。
そして、前述の『ラピュタ』について。後年、寺田さんはこう振り返っている。
「僕はラピュタを観たことがなかったからね。それはなぜかと言うと、声を録るときに宮崎駿監督とモメてさ」(「テレ朝POST」2022年11月8日)
作品がヒットしたら嫌な思い出に蓋をし、手のひらを返して代表作としてアピールする役者は多いはず。こんなふうに当時を正直に吐露する寺田さんからは、実直な人柄を感じた。
◆【4月】曙太郎さん
4月6日、第64代横綱・曙太郎さんが心不全のため亡くなった。享年54歳。
今では当たり前となった外国人横綱だが、曙さんは“史上初の外国人横綱”である。特に膝を壊す前、両手突きで相手を土俵外に吹き飛ばす大関時代の曙さんはまさしく史上最強。曙さんと貴乃花、若乃花の三力士で優勝決定戦が三つ巴になった93年名古屋場所の盛り上がりは、もはや伝説である。筆者は若貴相手に孤軍奮闘し、圧倒的な強さで優勝をもぎ取った曙さんを応援したものだ。
そんな彼の歯車が狂いだしたのは、やはり結婚にまつわる騒動だろう。曙さんの将来を心配するテイで結婚相手を紹介しようとする後援会をよそに、ハワイにいる交際相手・クリスティーン麗子さんが妊娠したのだ。
次第に相撲界での居場所をなくしていった曙さんは、2003年に格闘技界へ進出。同年の大みそかにK-1ルールでボブ・サップと対戦し、1ラウンドKO負けを喫した。しかし、この試合を中継したTBSの瞬間最高視聴率は43.0%を弾き出し、『NHK紅白歌合戦』の視聴率を上回るという快挙を達成! 日本の歴史上、民放が紅白の視聴率を上回ったのは後にも先にもこのときだけである。
その後、総合格闘技を経てプロレスラーに転向した曙さん。実は、曙というレスラーはその場の空気を敏感に察知するかなり“うまい”選手だった。「相撲上がりはプロレスの水に馴染みにくい」と言われがちだが、曙さんに関してはそれは当てはまらない。非常にプロレス頭の冴えた選手だった。
2017年の福岡での試合後、急性心不全で緊急搬送された曙さん。37分間も心肺停止状態が続いたため、それからは闘病生活を余儀なくされた。そんな彼のもとをかつてのライバル・花田虎上が訪ねた場面は、晩年のハイライトだ。2018年放送『今夜解禁!ザ・因縁』(TBS系)の企画でお見舞いに来た虎上から「誰だかわかる?」と尋ねられた曙さんは「わかるよ〜」と返答。当時、息子も判別できない状態だったはずなのにである。医師も驚く回復ぶりを見せたのだ。
できることなら、若乃花だけでなく貴乃花との再会も果たしてほしかった。曙さんと貴乃花の対戦成績は、25勝25敗の五分。どう考えても、運命的な間柄の両雄であった。合掌。
◆【5月】キダ・タローさん
5月14日、作曲家でタレントのキダ・タローさんが亡くなった。享年93歳。つい最近まで活発に活動していたので、不意にXデイが訪れたという感覚だ。早朝までゲームし続けるゲーマーとしても有名だったキダさん。亡くなるまで元気だったのは、ゲームとビアノのおかげだろうか?
“浪花のモーツァルト”の異名どおり、生み出した名曲は数多い。「プロポーズ大作戦」「2時のワイドショー」「日清出前一丁」「かに道楽」「小山ゆうえんち」「アサヒペン」「アホの坂田のテーマ」など、妙に印象に残る変な曲ばかりである。
故・上岡龍太郎さんの奥様がキダ宅の前を通りかかった際、髪の生えていない見知らぬ紳士が車を洗っていたというエピソード(ネタ話?)は有名。腹を抱えて笑った記憶がある。要するに、多くの人から愛される人だった。
ちなみに、上岡さんが亡くなったのは2023年5月19日。それから約1年後にキダさんは逝った。『探偵!ナイトスクープ』(ABCテレビ)の最高顧問でもあったキダ先生である。初代局長・上岡さんの旅立ちを見届け、「ほな、そろそろ行こか」という感覚だったのかもしれない。
◆【5月】中尾彬さん
5月16日、俳優の中尾彬さんが心不全のため亡くなった。享年81歳。
武蔵野美術大学油絵学科へ入学、その頃に遊んでいた仲間たちとともに「野獣会」と呼ばれ、六本木で目立ちまくりの存在となったヤング中尾彬。まさに、漫画の世界のような青春時代を送った後、俳優になった彼は映画『本陣殺人事件』で金田一耕助を演じるなど男っぽいイケメンとして脚光を浴びた。
その後、次第にアクの強い役回りが目立つようになった中尾さん。2時間もののサスペンスドラマでは女性の首を締めて殺す男をやたら演じるようになり、映画『アウトレイジ ビヨンド』では加瀬亮から好き放題されるなど、年齢のわりに変な大物感がないのが良かった。
悪役として三番手くらいのポジションだった中尾さんがバラエティ番組へ活路を見出し、功を奏したのも痛快だった。特に忘れられないのは、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(日本テレビ系)で江守徹と2人してバナナマン・日村勇紀を呼び出し、どちらが演技が上手かを問い詰めた「人間性クイズ」である。2人に強い圧を掛けられ、「どちらも上手いから決められません」と日村が泣き出した場面は今なお思い出す名場面だ。
最期は病室ではなく、愛妻・池波志乃に看取られて眠るように逝ったという中尾さん。最高の死に際ではないだろうか? さすが、芸能界を代表するおしどり夫婦だ。
◆【5月】今くるよさん
5月27日、お笑い芸人の今くるよさんが膵がんのため亡くなった。ちなみに、相方・今いくよさんが亡くなったのは2015年5月28日。相方と命日はたった1日違いである。
京都明徳高校ソフトボール部の頃からの付き合いの2人だ。「私はピッチャーでエース、くるよちゃんはキャッチャーでロース」といういくよくるよの漫才があるが、本当のところはいくよさんがセンターを守る強打者でくるよさんは控えのキャッチャーだった。
俗に「いくよがボケでくるよがツッコミ」と言われるが、明確に2人をボケツッコミで分けるのは難しく、実際は「両ボケ両ツッコミとするほうが合っている。第2回「花王名人大賞」最優秀新人賞を受賞したコンビで、キャリアはオール阪神巨人よりも上。だから、劇場ではいくよくるよがトリで登場することが多かった。
『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)の栄えある第1回は、ビートたけしがくるよさんに「ブスだねえ」と言ってから、全員で「オレたちひょうきん族!」とタイトルコールを発するオープニングだった。今も男社会のお笑い界だが、この世代の女性芸人は本当に大変だったと思う。
大御所になっても変にご意見番にはならず、あくまで芸人として生きた漫才師だった。
◆【6月】桂ざこばさん
6月12日、落語家の桂ざこばさんが喘息のため亡くなった。享年76歳。
88年より「桂ざこば」を襲名したが、やはり桂朝丸時代の活躍が印象深い。『テレビ三面記事 ウィークエンダー』(日本テレビ系)では泉ピン子と双璧をなすおもしろさを誇り、まくし立てるようなあのしゃべり方は強烈なインパクトだった。
正直、お世辞にも落語がうまいとは言えず、タレントとしてもどう評価してよいかわからない人だった。若手時代、「男同士でほんまにできるんやろか?」という話になり、笑福亭鶴光と実践を試みた逸話は有名。つまるところ、彼の最大の武器は人間的魅力だったのだと思う。
仲の良かった後輩・北野誠が謹慎を食らった際、ラジオ番組で「何を言うたんや、北野誠? バーニング!」と叫んだざこばさん。選挙特番に出演した際は、公明党の候補者について「落選したのは信心が足らんということですか?」と口にし、場を騒然とさせたシーンも忘れられない。芸とは結局、生き様のことである。それをまざまざと見せてもらった。
◆【9月】ピーコさん
9月3日、ファッション評論家のピーコさんが敗血症による多臓器不全のため亡くなった。享年79歳。
文化服装学院を卒業した経歴を持つが、「ファッション評論家」よりも好き放題言えるタレント業こそがこの人の本業だったと思う。それは、「映画評論家」が肩書きの弟・おすぎさんも同様。それほど、2人のマシンガントークはすごかった。おすぎとピーコがテレビ界の天下を取っていた時代は確実にある。
晩年は認知症を患ったおすぎさんを介護しようと2人で同居したものの、結局おすぎさんは施設へ引き取られることになり、しばらくしたらピーコさんも認知症を発症したと伝えられている。ピーコさんの葬儀の喪主はおすぎさんが務めたが、おすぎさんがピーコさんの死を理解することは難しかったそうだ。
つい4年前まで2人の冠ラジオ番組は存在したし、ピーコさんは3年前まで『5時に夢中!』(TOKYO MX)などテレビにも出演していた。時の流れの無情さを感じる。
ピーコさんが亡くなるまでに、社会のLGBTに対する理解は多少なりとも進んだ。それは、ピーコさんとしても浮かばれた気持ちだっただろうか? 合掌。
◆【9月】小林邦昭さん
9月9日、元プロレスラーの小林邦昭さんが膵臓がんのため亡くなった。享年68歳。
初代タイガーマスク(佐山聡)をターゲットに見据えた「虎ハンター」として脚光を浴びた小林さん。タイガーをボコボコにし、マスクをビリビリに破く闘いぶりは全国の虎ファンからヘイトを集めた。しかし、バックステージにおける2人の仲は良好、小林さんのブレイクを誰よりも喜んだのは佐山だといわれている。一方、のちに小林さんからも「佐山には感謝してもしきれない」というコメントが。プロレスとは底が丸見えの底なし沼である。
引退後は、新日本プロレス合宿所の管理人になった小林さん。団体創設者である故・アントニオ猪木さんと新日の関係が悪化していた2000年代後半、道場に飾られていた猪木さんのパネルが外され、パネルを外した実行犯は棚橋弘至とされた。しかし、本当に外したのは小林さんである。つまり、暗黒時代にあった新日を救う“復興の祖”棚橋を前面に押し出すエッセンスとして、この「パネル撤去事件」は活用されたということだ。驚くべきは小林さんのプロレス頭である。
業界内で小林さんを悪く言う人を見たことがないし、女性からモテまくったという“伝説”は他の追随を許さない。誰からも愛された人間性が、小林邦昭の素顔だ。
◆【9月】大山のぶ代さん
9月29日、声優で俳優の大山のぶ代さんが老衰のため亡くなった。享年90歳。
40代の筆者は大山さんの声のドラえもんで育ったため、脳内には“大山ドラえもん”の声が完全インプットされている。現在、ドラえもんの声を務める水田わさびさんの“ドラえもん歴”は来年で20年目に到達。一方、大山さんの“ドラえもん歴”は通算26年なので、差はそこまでないはずなのにだ。幼少期に見た長寿アニメの声優が替わったとしても、改めてそのアニメをじっくり見る機会が大人にはない。だから、新しい声にどうしても慣れにくくなってしまう。
晩年は認知症を発症し、自分がドラえもんの声を担当していたことを忘れてしまったとも伝えられた大山さん。しかしドラえもんでなくなった余生は、それはそれで本人にとって幸せだったと信じたい。我々世代にとって、“大山ドラえもん”は今も一番である。
◆【10月】服部幸應さん
10月4日、料理評論家の服部幸應さんが急性心不全のため亡くなった。享年78歳。約30年前に放送されていた『料理の鉄人』(フジテレビ系)の頃から白髪で「かなり年長者なのでは?」という印象は当時からあったが、実はまだ40代だったのだから驚きである。
かつて、マスコミから「服部先生は調理師免許を持ってない!」とスッパ抜かれた騒動を今も覚えている。当の服部さんは「だって、私は調理師免許の試験問題をつくる側だから」とケロッとしており、今振り返ると「あれはなんだったんだ?」と思わず笑ってしまう事件だ。
自らが理事長を務める服部栄養専門学校で倒れる……という最期だったとのこと。自分が作った学校で逝ったのだから、本望だったのではないか? 不謹慎かもしれないが、素晴らしい死に様だと思う。
◆【10月】西田敏行さん
10月17日、俳優の西田敏行さんが虚血性心疾患のため亡くなった。享年76歳。近年も北野武や宮藤官九郎や三谷幸喜らから引っ張りだこだった、昭和の名優がついに逝ってしまった。
あまりに多数の作品に出演しているため、代表作を挙げるのはなかなか難しい。やはり、ドラマ『池中玄太80キロ』(日本テレビ系)と映画『釣りバカ日誌』辺りになるだろうか? お人好しの役は地で振る舞い、悪役は迫真の演技力でこなす名俳優である。
『西遊記』(日本テレビ系)で共演した堺正章や、家族ぐるみの仲だったという武田鉄矢など、どちらかと言うと性格的にクセがあると言われる人たちも西田さんのことは決して悪く言わない。コロナ禍の時期は日本俳優連合・理事長として俳優の救済を国へ訴えたり、反戦平和や反原発の活動にも熱心だったり、西田さんは人間の鑑だった。
◆【10月】楳図かずおさん
10月28日、漫画家の楳図かずおさんが胃がんのため亡くなった。享年88歳。3月1日には鳥山明さんも亡くなっており、楳図かずおと鳥山明が同じ年に亡くなったという事実に今も実感がわかないでいる。
生み出した作品はどれも傑作で、『漂流教室』は日本漫画史に残る作品。だからこそ、映像化された際に原作の良い部分がまったく活かされていなかったことは残念至極だ。
さらに残念なのは、60歳手前の頃から休筆状態に入ってしまったこと。SF漫画『14歳』を執筆していた頃、連載していた『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)の新人編集者から「手はこうやって描くんですよ」と“指導”されたことに怒り、描くことをやめてしまった楳図さん。つくづく、彼の新作を読んでみたかった。
手塚治虫が“天才”と称賛した画力の持ち主でもある。一方、楳図さんは手塚治虫から一定の距離を置いていたことを公言している。中学時代、「僕の絵を見てください」と自ら描いた絵を手紙にして送った後、手塚の絵のタッチに自身のテクニックが入っていると思い込み、ショックを受けた楳図さんは手塚治虫が嫌いになってしまったという。
バラエティ番組にも数多く出演し、『クイズタレント名鑑』(TBS系)や『ダウンタウンDX』(日本テレビ系)では常連と言ってもいい存在だった。これだけのメディア出演をこなし、並行して音楽活動も行っていた楳図さん。「よく漫画を描く時間があるな」と、いつも驚いていた。要するに、才気あふれる人だったのだ。
◆【11月】クインシー・ジョーンズ
11月3日、音楽プロデューサーでミュージシャンのクインシー・ジョーンズが膵臓がんのため亡くなった。享年91歳。
最も有名なのは、マイケル・ジャクソンのアルバムのプロデュースである。売上でいったら『Thriller』(82年)が取り上げられがちだが、なんといっても『Off The Wall』(79年)だ。この作品に収録された『I Can’t Help It』は大名曲なのでぜひ聴いてほしい。この2枚のアルバムにより、“ジャクソン5の可愛い末っ子”だったマイケルはそのイメージから脱却することができた。
クインシーは毒舌家としても有名。たとえば、ビートルズについては以下のようにコメントしている。
「世界最低のミュージシャンだった。まるで演奏がなってないあほんだら連中で、ポール(・マッカートニー)は俺が聴いたことのあるなかで一番下手クソなベーシストだった。それから、リンゴ(・スター)? お話にもならないよ」
日本では作曲家・久石譲の芸名の由来としても知られている。「エドガー・アラン・ポー→江戸川乱歩」といった具合で「クインシー・ジョーンズ→久石譲」という名前は誕生した。いろいろな意味で、後世に残した影響は大きい。
◆【11月】火野正平さん
11月14日、俳優の火野正平さんが亡くなった。享年75歳。
数々の女性と浮名を流した元祖プレイボーイで、のちに“平成の火野正平”“令和の火野正平”と呼ばれる存在まで現れた。しかし、火野さんの火野さんたる所以は、別れた相手から恨み節の一つも出てこない特異性だ。それどころか、別れた女性が目の前で火野さんの悪口を言う芸能リポーターにブチギレていた。
“火野正平の7番目の愛人”を自称する歌手の仁支川峰子は「たくさんの男に貢いだが、ちゃんと返してくれたのは火野正平だけだった」と告白している。また、番組で歌を歌うことになり、練習していた光浦靖子が歌うのをやめたら「お嬢さん、歌続けてよ」と火野さんが声をかけてきたという逸話も有名。数々のエピソードを聞くだけでうっとりしてしまう。
晩年には『にっぽん縦断 こころ旅』(NHK BS)で、日本を旅する自転車おじさんのイメージを身につけた。しかし、根っからのプレイボーイである。番組を見ると、火野さんがモテる理由がわかってしまうのだ。チャーミングで人たらし。スタッフが慕っているのも伝わってきた。町で女性から握手を求められると「握手すると妊娠するぞ」と、自らのキャラクターをネタ化した火野さん。この過激なギャグがNHKでもアリになってしまうのだから、殿堂入りの存在だった。
『こころ旅』で、キツイ坂を上りきった後に訪れる下り坂を堪能しながら「人生下り坂、最高!」と笑顔を浮かべながら吐いた名文句は忘れられない。いちいち、痺れさせてくれる人である。
◆【12月】中山美穂さん
12月6日、俳優で歌手の中山美穂さんが亡くなった。享年54歳。ちょい色黒で目元がキツイ、エキゾチック系の美人であった。まさしく、美人薄命。この頃のアイドルには、確実に“選ばれて出てきた感”があった。
80年代のアイドルのなかでは、SSランクの松田聖子や中森明菜、小泉今日子に次ぐポジションだったと言っていい。『毎度おさわがせします』(TBS系)、『ママはアイドル!』(TBS系)、『卒業』(TBS系)、『すてきな片想い』(フジテレビ系)……と、主演した名作ドラマは枚挙にいとまがない。あの頃、中山美穂という時代は確実にあった。
また、楽曲にも恵まれていた印象がある。「色・ホワイトブレンド」「ただ泣きたくなるの」「世界中の誰よりきっと」「You’re My Only Shinin’ Star」「遠い街の何処かで…」など、同年代のアイドルのなかでも群を抜いて名曲揃いだ。
振り返ると、彼女は「アイドル」から「俳優・歌手」へうまく移行できた人だった。その点では、松田聖子や中森明菜に勝っていたように思う。
できることなら、中山さんと木村拓哉のダブル主演で制作されたドラマ『眠れる森』(フジテレビ系)を追悼として再放送してほしい。正直、今放送されているドラマより視聴率は取れると思う。同作以降、似たようなミステリードラマは数多く作られたが、どれも『眠れる森』に勝っていない。まごうことなき名作である。
◆【12月】小倉智昭さん
12月9日、キャスターの小倉智昭さんが膀胱がんのため亡くなった。享年77歳。
小倉さんといえば、個人的に『タミヤRCカーグランプリ』(テレビ東京系)と『世界まるごとHOWマッチ』(TBS系)でのまくし立てるナレーションがまっさきに思い浮かぶ。声だけでワクワクさせる絶品ナレーションは、今も忘れられない。
つまり、小倉さんの知名度が上がったきっかけは“声”だった。テレビ東京を退社し、全国的に小倉さんの顔を知る人は少ないはずなのに、あの甲高い声と江戸っ子風のしゃべりだけで人気が上昇したのはすごい。
その後、92年にスタートした『ジョーダンじゃない!?』から2021年に終了した『とくダネ!』まで、約30年間もの長きにわたりフジテレビ情報番組に出続けた小倉さん。テレビの向こう側で小倉さんが呼びかける「あざまぁぁーーーーす!」の声は、多くの視聴者にとって「いってきます」代わりだった。テレビで当たり前のように見ていた人が亡くなってしまうのは、正直、結構くるものがある。
◆【12月】渡邉恒雄さん
12月19日、読売新聞グループ本社の代表取締役主筆・渡辺恒雄さんが肺炎のため亡くなった。享年98歳。
2024年の最後にこんな大ボスの訃報が届くとは思わなかった。これまでも“ナベツネ死去”の誤報は数度あったため、「本当に亡くなったの?」としばらく半信半疑だった。故・中曽根康弘氏は101歳まで生きていたし、てっきりナベツネも100歳を越えてもまだ生き続けると思っていたのだ。ちなみに、今年は読売新聞創刊150周年イヤー。こういう年に亡くなるとは、逆にしぶとささえ感じる。
巨人軍のオーナーになる前は野球のルールを知らず、「なぜ、右打者は打った後に三塁へ走らないのか?」と真顔で部下に聞くほどの野球音痴だったそう。04年の球界再編騒動の際に口にした「たかが選手」発言により、ナベツネは野球ファンから完全にそっぽを向かれてしまった。
田中角栄、笹川良一、池田大作、渡邉恒雄と、昭和から平成の日本の方針を作った人たちはみな亡くなった。「憎まれっ子世に憚る」という言葉があるが、やっと昭和が終わった気がする。
=====
2024年は本文で言及した篠山紀信、曙太郎、西田敏行だけでなく、小澤征爾や鳥山明、谷川俊太郎など各分野で頂点を極めた人の訃報が多かった。大物がこれほど立て続けに亡くなった年は、これまでなかったように思う。
年を取るということは、知っている人の死をたくさん見送らなければならないということ。そしていつしか同世代は減っていき、やがて自らも逝くのだ。それは誰も避けられない。
<TEXT/寺西ジャジューカ>
というわけで、2024年に亡くなった著名人・有名人を偲んでいきたい。
◆【1月】冠二郎さん
1月1日、歌手の冠二郎さんが心不全のため亡くなった。享年79歳。冠さんといったら「アイアイアイライク演歌~♪」の歌詞が度肝を抜く92年のヒット曲『炎』がまっさきに思い浮かぶ。なぜ、「ラブ」ではなく「ライク」なのか? いろいろな意味でものすごいインパクトの曲だった。
続く93年には、なぜかマイクを2本持ちながら歌う曲『ムサシ』で畳み掛けた。大谷翔平より30年近く早い“マイク二刀流”は、「演歌もここまできたか」とリスナーを唸らせるに十分な革新性。なにしろ、冠さんは自らの楽曲を“ネオ演歌”と名付けていた。
そのユニークなキャラクターで、バラエティ番組に呼ばれることもしばしばだった。忘れられないのは、『ダウンタウン汁』(TBS系)に出演した際の勇姿。ダウンタウンと今田耕司から「背中に入れ墨があるのでは?」と迫られ、意を決したようにシャツを脱ぎ始めた冠さん。それまで無責任に囃し立てていたダウンタウンも、冠さんの思い詰めた様子を見て顔面蒼白に……。結果、晒されたのは何も描かれていない冠さんのツルンとした背中であった。つまり、彼の背中に入れ墨はなかったということ。あまりに完璧な形で一本取られた、若き日のダウンタウン。なかなか見られない光景なので、今も鮮烈に記憶に残っている。
◆【1月】篠山紀信さん
1月4日、写真家の篠山紀信さんが老衰で亡くなった。享年83歳。その時代を象徴する人物を撮り続けていた篠山さんだが、世界的に有名なのはジョン・レノンのアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケット写真だろう。ジョンとオノヨーコがキスをする瞬間を収めた、素晴らしい一枚だ。
「大物女優を脱がせるのがうまい」という一面に触れないわけにもいかない。特に、91年に発表された宮沢りえのヌード写真集『Santa Fe』(朝日出版社)の衝撃には震えた。未公開の予定だったものの後になぜか流出した、山口百恵さんのヌード写真を撮っていたのも驚きだった。
最近では、撮影中の藤原竜也に対し「射精しなさい」と注文したり、田中みな実が篠山さんの押しに負けてニップレスを外した話を明かしたり、老いてなお盛んであった。氏の逝去が報じられた当日、ライターの吉田豪氏がXに投稿した「逃げ切っちゃったなー。」というポストは意味深だ。
◆【1月】エスパー伊東さん
1月16日、元お笑い芸人のエスパー伊東さんが亡くなった。享年63歳。特異なキャリアを歩んだ人である。当初は超常現象肯定派として真面目にメディア出演していたはずが、いつの間にやらボストンバッグの中に入り込む人になっていた。
この“カバン芸”が売りでもあり、ネックでもあった。実は、中学生の頃に変形性股関節症と診断されていた伊東さん。つまり、股関節が悪いのに営業で小さいバッグに入りまくっていたわけである。ゴム手袋を鼻息で膨らませるという芸も、体に負担がかかっていないわけがない。2018年には股関節の治療のため芸能活動の休止を発表し、休業中には多発性脳梗塞を発症した。まさに、命を削る芸だったのだ。
近所のラーメン屋で「ぶつかった」と因縁をつけてきた男から定期的に金を脅し取られ、被害総額は1000万円以上にのぼったとされる恐喝事件も彼を追い詰めた。すぐに警察に相談すれば解決する話だが、伊東さんいわく「怖かったからすぐに相談できなかった」とのこと。なんとも脱力する話ではないか。しかし、こういう輩をすぐに撃退できたらエスパー伊東ではないという気もする。
振り返ると、この人が出演した回の『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系)はハズレなしだった。めちゃイケ世代の多くは「はい〜」といえば、やすこよりもエスパー伊東だろう。「辛子饅頭ニコニコ食い」がもう見られないかと思うと、悲しい。合掌。
◆【1月】利根川裕さん
1月29日、作家の利根川裕さんが下肢閉塞性動脈硬化症のため亡くなった。享年93歳。ドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)で、主役の阿部サダヲが「昭和に戻ってトゥナイト見た〜い」と連呼していたが、なにを隠そう『トゥナイト』(テレビ朝日系)の初代司会者は利根川さんである。
『トゥナイト』がスタートしたのは1980年。番組前半では政治・経済を、後半ではセクシーな情報を扱う構成が多かった『トゥナイト』。80年代はビデオデッキが急激に普及していた過渡期で、当時の若い男子からすると『トゥナイト』は貴重なオカズ番組だった。胸を丸出しにした女性に山本晋也監督がインタビューし、「ほとんどビョーキ!」とお約束のセリフをキメる定番のくだり。もう、思い出すだけでうれしくなってくる。その一方、真顔で東京佐川急便を巡る汚職事件を扱う硬派な側面も断じて忘れない。今考えると、極めてカオスな情報番組だった。
ちなみに、『トゥナイト』の司会を務めたのは、『婦人公論』(中央公論新社)の副編集長を経て作家になった利根川さん。そして、1994年にスタートした『トゥナイト2』の司会を務めたのは『POPEYE』(マガジンハウス)を創刊した石川次郎である。「CMのうちにトイレへどうぞ」という乱一世の失言が放送されたのは、『トゥナイト2』のほうだ。現在、神田伯山が自身のラジオ番組のCM明けに「楽しいCMも終わりまして」とよく口にするが、もしかしたら『トゥナイト2』の乱一世を反面教師にしているのかもしれない。
◆【2月】山本陽子さん
2月20日、日本を代表する女優の山本陽子さんが亡くなった。享年81歳。山本さんといえば「両国予備校」「山本海苔店」「コーミソース」のCMを思い浮かべる人が多いだろう。ドラマでいえば、『黒革の手帖』(テレビ朝日系)の原口元子役が出色。2004年には米倉涼子が元子を演じたが、初代は山本さんなのだ。
『ザ・ハングマンV』(テレビ朝日系)で演じたパピヨン役も印象深い。普段は専業主婦だが、裏の顔は犯罪者たちを処刑するハングマンの女性リーダー。そして、そんなパピヨンをサポートする武闘派サブリーダー・ファルコンを演じたのは若き日の佐藤浩市で、さまざまな武器を開発する頭脳派のエジソンを演じたのは火野正平だった。
また、“車好き”としても有名だった山本さん。赤のポルシェ911Sの日本初の納車先は、なにを隠そう彼女であった。「緑の中を走り抜けてく真っ赤なポルシェ」という歌詞が登場する山口百恵の代表曲『プレイバックPart2』のモデルは、もしかしたら山本さんでは? という都市伝説まで存在する。昭和の強い女性を体現する美人女優であった。
◆【3月】寺田農さん
3月23日、俳優の寺田農さんが肺がんのため亡くなった。享年81歳。寺田さんといえば、若い人たちの多くは『天空の城ラピュタ』のムスカの声の人という印象になるのだろうが、少し待ってほしい。寺田農といえば、ポッと出の新人時代になぜか主役に大抜擢された故・岡本喜八監督の傑作『肉弾』がやはり挙がるはずだ。
ドラマ『前略おふくろ様』(日本テレビ系)では萩原健一演じる主人公・片島三郎のすぐ上の冷たい兄・修役を務めたり、映画『オルゴール』では主演の長渕剛から日本刀で斬殺されたり、クズを誇張した嫌な役どころが本当にうまかった。物腰の柔らかさを維持しつつ、怖さも伝えられる俳優。加えて、自ら監督としてセクシービデオを制作したこともあり、若き日の椎名桔平を付き人にして面倒を見たエピソードも有名。なんとも稀有な存在だった。
そして、前述の『ラピュタ』について。後年、寺田さんはこう振り返っている。
「僕はラピュタを観たことがなかったからね。それはなぜかと言うと、声を録るときに宮崎駿監督とモメてさ」(「テレ朝POST」2022年11月8日)
作品がヒットしたら嫌な思い出に蓋をし、手のひらを返して代表作としてアピールする役者は多いはず。こんなふうに当時を正直に吐露する寺田さんからは、実直な人柄を感じた。
◆【4月】曙太郎さん
4月6日、第64代横綱・曙太郎さんが心不全のため亡くなった。享年54歳。
今では当たり前となった外国人横綱だが、曙さんは“史上初の外国人横綱”である。特に膝を壊す前、両手突きで相手を土俵外に吹き飛ばす大関時代の曙さんはまさしく史上最強。曙さんと貴乃花、若乃花の三力士で優勝決定戦が三つ巴になった93年名古屋場所の盛り上がりは、もはや伝説である。筆者は若貴相手に孤軍奮闘し、圧倒的な強さで優勝をもぎ取った曙さんを応援したものだ。
そんな彼の歯車が狂いだしたのは、やはり結婚にまつわる騒動だろう。曙さんの将来を心配するテイで結婚相手を紹介しようとする後援会をよそに、ハワイにいる交際相手・クリスティーン麗子さんが妊娠したのだ。
次第に相撲界での居場所をなくしていった曙さんは、2003年に格闘技界へ進出。同年の大みそかにK-1ルールでボブ・サップと対戦し、1ラウンドKO負けを喫した。しかし、この試合を中継したTBSの瞬間最高視聴率は43.0%を弾き出し、『NHK紅白歌合戦』の視聴率を上回るという快挙を達成! 日本の歴史上、民放が紅白の視聴率を上回ったのは後にも先にもこのときだけである。
その後、総合格闘技を経てプロレスラーに転向した曙さん。実は、曙というレスラーはその場の空気を敏感に察知するかなり“うまい”選手だった。「相撲上がりはプロレスの水に馴染みにくい」と言われがちだが、曙さんに関してはそれは当てはまらない。非常にプロレス頭の冴えた選手だった。
2017年の福岡での試合後、急性心不全で緊急搬送された曙さん。37分間も心肺停止状態が続いたため、それからは闘病生活を余儀なくされた。そんな彼のもとをかつてのライバル・花田虎上が訪ねた場面は、晩年のハイライトだ。2018年放送『今夜解禁!ザ・因縁』(TBS系)の企画でお見舞いに来た虎上から「誰だかわかる?」と尋ねられた曙さんは「わかるよ〜」と返答。当時、息子も判別できない状態だったはずなのにである。医師も驚く回復ぶりを見せたのだ。
できることなら、若乃花だけでなく貴乃花との再会も果たしてほしかった。曙さんと貴乃花の対戦成績は、25勝25敗の五分。どう考えても、運命的な間柄の両雄であった。合掌。
◆【5月】キダ・タローさん
5月14日、作曲家でタレントのキダ・タローさんが亡くなった。享年93歳。つい最近まで活発に活動していたので、不意にXデイが訪れたという感覚だ。早朝までゲームし続けるゲーマーとしても有名だったキダさん。亡くなるまで元気だったのは、ゲームとビアノのおかげだろうか?
“浪花のモーツァルト”の異名どおり、生み出した名曲は数多い。「プロポーズ大作戦」「2時のワイドショー」「日清出前一丁」「かに道楽」「小山ゆうえんち」「アサヒペン」「アホの坂田のテーマ」など、妙に印象に残る変な曲ばかりである。
故・上岡龍太郎さんの奥様がキダ宅の前を通りかかった際、髪の生えていない見知らぬ紳士が車を洗っていたというエピソード(ネタ話?)は有名。腹を抱えて笑った記憶がある。要するに、多くの人から愛される人だった。
ちなみに、上岡さんが亡くなったのは2023年5月19日。それから約1年後にキダさんは逝った。『探偵!ナイトスクープ』(ABCテレビ)の最高顧問でもあったキダ先生である。初代局長・上岡さんの旅立ちを見届け、「ほな、そろそろ行こか」という感覚だったのかもしれない。
◆【5月】中尾彬さん
5月16日、俳優の中尾彬さんが心不全のため亡くなった。享年81歳。
武蔵野美術大学油絵学科へ入学、その頃に遊んでいた仲間たちとともに「野獣会」と呼ばれ、六本木で目立ちまくりの存在となったヤング中尾彬。まさに、漫画の世界のような青春時代を送った後、俳優になった彼は映画『本陣殺人事件』で金田一耕助を演じるなど男っぽいイケメンとして脚光を浴びた。
その後、次第にアクの強い役回りが目立つようになった中尾さん。2時間もののサスペンスドラマでは女性の首を締めて殺す男をやたら演じるようになり、映画『アウトレイジ ビヨンド』では加瀬亮から好き放題されるなど、年齢のわりに変な大物感がないのが良かった。
悪役として三番手くらいのポジションだった中尾さんがバラエティ番組へ活路を見出し、功を奏したのも痛快だった。特に忘れられないのは、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(日本テレビ系)で江守徹と2人してバナナマン・日村勇紀を呼び出し、どちらが演技が上手かを問い詰めた「人間性クイズ」である。2人に強い圧を掛けられ、「どちらも上手いから決められません」と日村が泣き出した場面は今なお思い出す名場面だ。
最期は病室ではなく、愛妻・池波志乃に看取られて眠るように逝ったという中尾さん。最高の死に際ではないだろうか? さすが、芸能界を代表するおしどり夫婦だ。
◆【5月】今くるよさん
5月27日、お笑い芸人の今くるよさんが膵がんのため亡くなった。ちなみに、相方・今いくよさんが亡くなったのは2015年5月28日。相方と命日はたった1日違いである。
京都明徳高校ソフトボール部の頃からの付き合いの2人だ。「私はピッチャーでエース、くるよちゃんはキャッチャーでロース」といういくよくるよの漫才があるが、本当のところはいくよさんがセンターを守る強打者でくるよさんは控えのキャッチャーだった。
俗に「いくよがボケでくるよがツッコミ」と言われるが、明確に2人をボケツッコミで分けるのは難しく、実際は「両ボケ両ツッコミとするほうが合っている。第2回「花王名人大賞」最優秀新人賞を受賞したコンビで、キャリアはオール阪神巨人よりも上。だから、劇場ではいくよくるよがトリで登場することが多かった。
『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)の栄えある第1回は、ビートたけしがくるよさんに「ブスだねえ」と言ってから、全員で「オレたちひょうきん族!」とタイトルコールを発するオープニングだった。今も男社会のお笑い界だが、この世代の女性芸人は本当に大変だったと思う。
大御所になっても変にご意見番にはならず、あくまで芸人として生きた漫才師だった。
◆【6月】桂ざこばさん
6月12日、落語家の桂ざこばさんが喘息のため亡くなった。享年76歳。
88年より「桂ざこば」を襲名したが、やはり桂朝丸時代の活躍が印象深い。『テレビ三面記事 ウィークエンダー』(日本テレビ系)では泉ピン子と双璧をなすおもしろさを誇り、まくし立てるようなあのしゃべり方は強烈なインパクトだった。
正直、お世辞にも落語がうまいとは言えず、タレントとしてもどう評価してよいかわからない人だった。若手時代、「男同士でほんまにできるんやろか?」という話になり、笑福亭鶴光と実践を試みた逸話は有名。つまるところ、彼の最大の武器は人間的魅力だったのだと思う。
仲の良かった後輩・北野誠が謹慎を食らった際、ラジオ番組で「何を言うたんや、北野誠? バーニング!」と叫んだざこばさん。選挙特番に出演した際は、公明党の候補者について「落選したのは信心が足らんということですか?」と口にし、場を騒然とさせたシーンも忘れられない。芸とは結局、生き様のことである。それをまざまざと見せてもらった。
◆【9月】ピーコさん
9月3日、ファッション評論家のピーコさんが敗血症による多臓器不全のため亡くなった。享年79歳。
文化服装学院を卒業した経歴を持つが、「ファッション評論家」よりも好き放題言えるタレント業こそがこの人の本業だったと思う。それは、「映画評論家」が肩書きの弟・おすぎさんも同様。それほど、2人のマシンガントークはすごかった。おすぎとピーコがテレビ界の天下を取っていた時代は確実にある。
晩年は認知症を患ったおすぎさんを介護しようと2人で同居したものの、結局おすぎさんは施設へ引き取られることになり、しばらくしたらピーコさんも認知症を発症したと伝えられている。ピーコさんの葬儀の喪主はおすぎさんが務めたが、おすぎさんがピーコさんの死を理解することは難しかったそうだ。
つい4年前まで2人の冠ラジオ番組は存在したし、ピーコさんは3年前まで『5時に夢中!』(TOKYO MX)などテレビにも出演していた。時の流れの無情さを感じる。
ピーコさんが亡くなるまでに、社会のLGBTに対する理解は多少なりとも進んだ。それは、ピーコさんとしても浮かばれた気持ちだっただろうか? 合掌。
◆【9月】小林邦昭さん
9月9日、元プロレスラーの小林邦昭さんが膵臓がんのため亡くなった。享年68歳。
初代タイガーマスク(佐山聡)をターゲットに見据えた「虎ハンター」として脚光を浴びた小林さん。タイガーをボコボコにし、マスクをビリビリに破く闘いぶりは全国の虎ファンからヘイトを集めた。しかし、バックステージにおける2人の仲は良好、小林さんのブレイクを誰よりも喜んだのは佐山だといわれている。一方、のちに小林さんからも「佐山には感謝してもしきれない」というコメントが。プロレスとは底が丸見えの底なし沼である。
引退後は、新日本プロレス合宿所の管理人になった小林さん。団体創設者である故・アントニオ猪木さんと新日の関係が悪化していた2000年代後半、道場に飾られていた猪木さんのパネルが外され、パネルを外した実行犯は棚橋弘至とされた。しかし、本当に外したのは小林さんである。つまり、暗黒時代にあった新日を救う“復興の祖”棚橋を前面に押し出すエッセンスとして、この「パネル撤去事件」は活用されたということだ。驚くべきは小林さんのプロレス頭である。
業界内で小林さんを悪く言う人を見たことがないし、女性からモテまくったという“伝説”は他の追随を許さない。誰からも愛された人間性が、小林邦昭の素顔だ。
◆【9月】大山のぶ代さん
9月29日、声優で俳優の大山のぶ代さんが老衰のため亡くなった。享年90歳。
40代の筆者は大山さんの声のドラえもんで育ったため、脳内には“大山ドラえもん”の声が完全インプットされている。現在、ドラえもんの声を務める水田わさびさんの“ドラえもん歴”は来年で20年目に到達。一方、大山さんの“ドラえもん歴”は通算26年なので、差はそこまでないはずなのにだ。幼少期に見た長寿アニメの声優が替わったとしても、改めてそのアニメをじっくり見る機会が大人にはない。だから、新しい声にどうしても慣れにくくなってしまう。
晩年は認知症を発症し、自分がドラえもんの声を担当していたことを忘れてしまったとも伝えられた大山さん。しかしドラえもんでなくなった余生は、それはそれで本人にとって幸せだったと信じたい。我々世代にとって、“大山ドラえもん”は今も一番である。
◆【10月】服部幸應さん
10月4日、料理評論家の服部幸應さんが急性心不全のため亡くなった。享年78歳。約30年前に放送されていた『料理の鉄人』(フジテレビ系)の頃から白髪で「かなり年長者なのでは?」という印象は当時からあったが、実はまだ40代だったのだから驚きである。
かつて、マスコミから「服部先生は調理師免許を持ってない!」とスッパ抜かれた騒動を今も覚えている。当の服部さんは「だって、私は調理師免許の試験問題をつくる側だから」とケロッとしており、今振り返ると「あれはなんだったんだ?」と思わず笑ってしまう事件だ。
自らが理事長を務める服部栄養専門学校で倒れる……という最期だったとのこと。自分が作った学校で逝ったのだから、本望だったのではないか? 不謹慎かもしれないが、素晴らしい死に様だと思う。
◆【10月】西田敏行さん
10月17日、俳優の西田敏行さんが虚血性心疾患のため亡くなった。享年76歳。近年も北野武や宮藤官九郎や三谷幸喜らから引っ張りだこだった、昭和の名優がついに逝ってしまった。
あまりに多数の作品に出演しているため、代表作を挙げるのはなかなか難しい。やはり、ドラマ『池中玄太80キロ』(日本テレビ系)と映画『釣りバカ日誌』辺りになるだろうか? お人好しの役は地で振る舞い、悪役は迫真の演技力でこなす名俳優である。
『西遊記』(日本テレビ系)で共演した堺正章や、家族ぐるみの仲だったという武田鉄矢など、どちらかと言うと性格的にクセがあると言われる人たちも西田さんのことは決して悪く言わない。コロナ禍の時期は日本俳優連合・理事長として俳優の救済を国へ訴えたり、反戦平和や反原発の活動にも熱心だったり、西田さんは人間の鑑だった。
◆【10月】楳図かずおさん
10月28日、漫画家の楳図かずおさんが胃がんのため亡くなった。享年88歳。3月1日には鳥山明さんも亡くなっており、楳図かずおと鳥山明が同じ年に亡くなったという事実に今も実感がわかないでいる。
生み出した作品はどれも傑作で、『漂流教室』は日本漫画史に残る作品。だからこそ、映像化された際に原作の良い部分がまったく活かされていなかったことは残念至極だ。
さらに残念なのは、60歳手前の頃から休筆状態に入ってしまったこと。SF漫画『14歳』を執筆していた頃、連載していた『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)の新人編集者から「手はこうやって描くんですよ」と“指導”されたことに怒り、描くことをやめてしまった楳図さん。つくづく、彼の新作を読んでみたかった。
手塚治虫が“天才”と称賛した画力の持ち主でもある。一方、楳図さんは手塚治虫から一定の距離を置いていたことを公言している。中学時代、「僕の絵を見てください」と自ら描いた絵を手紙にして送った後、手塚の絵のタッチに自身のテクニックが入っていると思い込み、ショックを受けた楳図さんは手塚治虫が嫌いになってしまったという。
バラエティ番組にも数多く出演し、『クイズタレント名鑑』(TBS系)や『ダウンタウンDX』(日本テレビ系)では常連と言ってもいい存在だった。これだけのメディア出演をこなし、並行して音楽活動も行っていた楳図さん。「よく漫画を描く時間があるな」と、いつも驚いていた。要するに、才気あふれる人だったのだ。
◆【11月】クインシー・ジョーンズ
11月3日、音楽プロデューサーでミュージシャンのクインシー・ジョーンズが膵臓がんのため亡くなった。享年91歳。
最も有名なのは、マイケル・ジャクソンのアルバムのプロデュースである。売上でいったら『Thriller』(82年)が取り上げられがちだが、なんといっても『Off The Wall』(79年)だ。この作品に収録された『I Can’t Help It』は大名曲なのでぜひ聴いてほしい。この2枚のアルバムにより、“ジャクソン5の可愛い末っ子”だったマイケルはそのイメージから脱却することができた。
クインシーは毒舌家としても有名。たとえば、ビートルズについては以下のようにコメントしている。
「世界最低のミュージシャンだった。まるで演奏がなってないあほんだら連中で、ポール(・マッカートニー)は俺が聴いたことのあるなかで一番下手クソなベーシストだった。それから、リンゴ(・スター)? お話にもならないよ」
日本では作曲家・久石譲の芸名の由来としても知られている。「エドガー・アラン・ポー→江戸川乱歩」といった具合で「クインシー・ジョーンズ→久石譲」という名前は誕生した。いろいろな意味で、後世に残した影響は大きい。
◆【11月】火野正平さん
11月14日、俳優の火野正平さんが亡くなった。享年75歳。
数々の女性と浮名を流した元祖プレイボーイで、のちに“平成の火野正平”“令和の火野正平”と呼ばれる存在まで現れた。しかし、火野さんの火野さんたる所以は、別れた相手から恨み節の一つも出てこない特異性だ。それどころか、別れた女性が目の前で火野さんの悪口を言う芸能リポーターにブチギレていた。
“火野正平の7番目の愛人”を自称する歌手の仁支川峰子は「たくさんの男に貢いだが、ちゃんと返してくれたのは火野正平だけだった」と告白している。また、番組で歌を歌うことになり、練習していた光浦靖子が歌うのをやめたら「お嬢さん、歌続けてよ」と火野さんが声をかけてきたという逸話も有名。数々のエピソードを聞くだけでうっとりしてしまう。
晩年には『にっぽん縦断 こころ旅』(NHK BS)で、日本を旅する自転車おじさんのイメージを身につけた。しかし、根っからのプレイボーイである。番組を見ると、火野さんがモテる理由がわかってしまうのだ。チャーミングで人たらし。スタッフが慕っているのも伝わってきた。町で女性から握手を求められると「握手すると妊娠するぞ」と、自らのキャラクターをネタ化した火野さん。この過激なギャグがNHKでもアリになってしまうのだから、殿堂入りの存在だった。
『こころ旅』で、キツイ坂を上りきった後に訪れる下り坂を堪能しながら「人生下り坂、最高!」と笑顔を浮かべながら吐いた名文句は忘れられない。いちいち、痺れさせてくれる人である。
◆【12月】中山美穂さん
12月6日、俳優で歌手の中山美穂さんが亡くなった。享年54歳。ちょい色黒で目元がキツイ、エキゾチック系の美人であった。まさしく、美人薄命。この頃のアイドルには、確実に“選ばれて出てきた感”があった。
80年代のアイドルのなかでは、SSランクの松田聖子や中森明菜、小泉今日子に次ぐポジションだったと言っていい。『毎度おさわがせします』(TBS系)、『ママはアイドル!』(TBS系)、『卒業』(TBS系)、『すてきな片想い』(フジテレビ系)……と、主演した名作ドラマは枚挙にいとまがない。あの頃、中山美穂という時代は確実にあった。
また、楽曲にも恵まれていた印象がある。「色・ホワイトブレンド」「ただ泣きたくなるの」「世界中の誰よりきっと」「You’re My Only Shinin’ Star」「遠い街の何処かで…」など、同年代のアイドルのなかでも群を抜いて名曲揃いだ。
振り返ると、彼女は「アイドル」から「俳優・歌手」へうまく移行できた人だった。その点では、松田聖子や中森明菜に勝っていたように思う。
できることなら、中山さんと木村拓哉のダブル主演で制作されたドラマ『眠れる森』(フジテレビ系)を追悼として再放送してほしい。正直、今放送されているドラマより視聴率は取れると思う。同作以降、似たようなミステリードラマは数多く作られたが、どれも『眠れる森』に勝っていない。まごうことなき名作である。
◆【12月】小倉智昭さん
12月9日、キャスターの小倉智昭さんが膀胱がんのため亡くなった。享年77歳。
小倉さんといえば、個人的に『タミヤRCカーグランプリ』(テレビ東京系)と『世界まるごとHOWマッチ』(TBS系)でのまくし立てるナレーションがまっさきに思い浮かぶ。声だけでワクワクさせる絶品ナレーションは、今も忘れられない。
つまり、小倉さんの知名度が上がったきっかけは“声”だった。テレビ東京を退社し、全国的に小倉さんの顔を知る人は少ないはずなのに、あの甲高い声と江戸っ子風のしゃべりだけで人気が上昇したのはすごい。
その後、92年にスタートした『ジョーダンじゃない!?』から2021年に終了した『とくダネ!』まで、約30年間もの長きにわたりフジテレビ情報番組に出続けた小倉さん。テレビの向こう側で小倉さんが呼びかける「あざまぁぁーーーーす!」の声は、多くの視聴者にとって「いってきます」代わりだった。テレビで当たり前のように見ていた人が亡くなってしまうのは、正直、結構くるものがある。
◆【12月】渡邉恒雄さん
12月19日、読売新聞グループ本社の代表取締役主筆・渡辺恒雄さんが肺炎のため亡くなった。享年98歳。
2024年の最後にこんな大ボスの訃報が届くとは思わなかった。これまでも“ナベツネ死去”の誤報は数度あったため、「本当に亡くなったの?」としばらく半信半疑だった。故・中曽根康弘氏は101歳まで生きていたし、てっきりナベツネも100歳を越えてもまだ生き続けると思っていたのだ。ちなみに、今年は読売新聞創刊150周年イヤー。こういう年に亡くなるとは、逆にしぶとささえ感じる。
巨人軍のオーナーになる前は野球のルールを知らず、「なぜ、右打者は打った後に三塁へ走らないのか?」と真顔で部下に聞くほどの野球音痴だったそう。04年の球界再編騒動の際に口にした「たかが選手」発言により、ナベツネは野球ファンから完全にそっぽを向かれてしまった。
田中角栄、笹川良一、池田大作、渡邉恒雄と、昭和から平成の日本の方針を作った人たちはみな亡くなった。「憎まれっ子世に憚る」という言葉があるが、やっと昭和が終わった気がする。
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2024年は本文で言及した篠山紀信、曙太郎、西田敏行だけでなく、小澤征爾や鳥山明、谷川俊太郎など各分野で頂点を極めた人の訃報が多かった。大物がこれほど立て続けに亡くなった年は、これまでなかったように思う。
年を取るということは、知っている人の死をたくさん見送らなければならないということ。そしていつしか同世代は減っていき、やがて自らも逝くのだ。それは誰も避けられない。
<TEXT/寺西ジャジューカ>