数多くのアナウンサーやタレントを輩出し、大学の学園祭で花形イベントとして注目されてきた“ミスコン”。昨今は世の中の風潮もあり、「美しさ」よりも「生き方」や「自分らしさ」など、求められる視点が変わってきている。
こうしたなか、京都の龍谷大学で毎年行われる「Ryukoku Contest 2023」(旧 Miss&Mr.Ryukoku)のファイナリストであり、審査員特別賞を受賞したのが小南 ゆ乃さん(23歳)だ。
大学時代は「アイドルコピーダンス」のサークル活動に励み、コンテストでも活躍した小南さん。しかし、そんな華々しい大学生活を送った彼女が選んだ就職先は、テレビ局などのマスコミ系や芸能関係、誰もが知る大企業ではなく、兵庫県にある中小企業だった。
華やかさとは一見無縁に思える、その選択の裏には何があったのか——。
幼少期の思い出や大学のコンテストで学んだこと、今の会社を就職先に選んだ理由について小南さんに伺った。
◆AKB48を目指した幼少期「10回以上オーディションに落ちても応募した」
小さい頃からテレビアニメ『プリキュア』が好きで、“キラキラ”した女性に憧れていたという。その一方で、祖父が工務店を経営していたこともあり、物心ついた時からものづくりに囲まれた暮らしを送っていた。
「学校に登下校する際に、職人さんから『いってらっしゃい』とか『おかえり』と声をかけてもらえるのがとても嬉しかったのを覚えています。あとは近所にある神社の屋根や小学校の下駄箱などは祖父が作ったりしていたんですが、それを見つけるたびに友達に自慢していましたね」(小南さん、以下同)
アイドルになりたいと思ったのは、テレビでAKB48の総選挙を観たときだった。
「AKB48の総選挙では、普段テレビで見かけないメンバーもこんなにたくさんいるんだということを知って。自分もこういう世界で戦ってみたいと思ったのがアイドルになりたいと思ったきっかけでした。
ただ、48グループのオーディションを受けられるのが小学校6年生からだったので、それまでは親を説得するために、自分がオーディションを受けたいと思っていることを何回も伝えていました。
それで、AKB48の曲の振り付けを覚えて、職人さんの前で披露してみたり、結構本気で取り組んでいました」
小学校6年生になってからは、48グループのオーディションが開催されるたびに応募を繰り返したそうだが、結果としては全て書類選考で落ちてしまったとのこと。
「AKB48にすごく憧れていて、10回以上は応募したと思います。それでも通過することはできず、アイドルになるための道がいかに険しいかを実感しました」
◆大学進学で出合った「アイドルコピーダンス」
小南さんの心情に変化があったのは、高校1年生の時だった。父の他界を機に、実家の工務店が事業承継者不足の危機に陥ってしまったのだ。「アイドル」になることよりも「安定した暮らし」を手に入れたい……。そのために、とにかく大学へ進学するという気持ちに変わったという。
以来、アイドルを目指す道ではなく、志望校へ合格するために勉強をする日々だった。その後、第一志望だった龍谷大学へ進学が決まったが、ちょうどコロナ禍で入学式や新入生歓迎会などのイベントが中止に。
このような状況下で、小南さんは「アイドルコピーダンス部の存在をネットで検索して知った」と語る。
「私が1回生の時に3つ上の先輩が踊っている動画を見る機会があり、すごく可愛いなと感じたんです。『私もこの人と一緒に踊りたい』と強く思ったことから、アイドルコピーダンス部に入ることに決めました」
◆可愛い衣装でダンスを披露「まるで本当のアイドル」
アイドルコピーダンスとは、日本の女性アイドルの楽曲をカバーし、歌は歌わずにダンスを披露するもので、2012年からは大学対抗の女子大生アイドルコピーダンス日本一決定戦「UNIDOL(ユニドル)」が開催されるなど、ダンスサークルのひとつとして認知されている。
小南さんも、年2回行われるUNIDOLの大会前は週5〜6日ほどコピーダンスの練習に打ち込み、それ以外の時期でも月1のライブに備えて全体練習のほかにも自宅の庭で踊っていたという。
「私はアイドルになるという夢を一度あきらめてしまったのですが、“推し”のアイドルの踊りを真似して披露するのが楽しくて。ライブの時は可愛い衣装を着てダンスをしますし、自分たちのサークルの様子や魅力を伝えるためにSNSで発信してファンづくりをするなど、本当にアイドルのような活動をしていましたね」
◆「地道に続けてよかった」“赤色”のペンライトに励まされた初舞台
しかし、2020年に入部した当初はコロナ禍でステイホームを余儀なくされ、サークル活動が思うようにできなかったそうだ。それでも翌年3月には、アイドルコピーダンスを始めるきっかけとなった先輩の卒業公演にて初のステージに立つことに。
その舞台に出たことで、「アイドルコピーダンスを続ける大きな原動力になった」と小南さんは振り返る。
「コロナの影響でサークル活動ができない間も、SNSでの情報発信やライブ配信をコツコツ続け、いつかステージに立てるのを目標に頑張っていました。ですが、正直なところ、何度も『やめてしまいたい』と思ったこともあったんです。
それでも、先輩の卒業公演に初めて立たせていただいたときに、ステージ上から私の担当カラーである“赤色”のペンライトが何本か光っていたんですね。この光景を見たときには本当に嬉しくて。今までの地道な活動は無駄じゃなかったと思いましたし、4年間サークル活動を続ける原動力になりました」
◆サークルのリーダーとして心がけた「憧れられる先輩像」
コロナ禍の煽りを受け、元々加入していたアイドルコピーダンス部は廃部。そこから仲間と1から立ち上げたのが「アイリス龍星群」だった。
SNSでの情報発信や大会への出場、年1回の単独公演など、サークルのリーダーとしてチームを牽引。“みなみん”という活動名でアイドルコピーダンスに取り組んでいた小南さんは、「後輩たちから『みなみん先輩のようになりたい』って、サークルの象徴的な存在になれるように努力をしてきました」と語る。
「サークルでは、単独公演をとにかく成功させることに集中していました。衣装や構成、チケットの値段など、全てを自分たちで作り上げる集大成のようなもので、サークル活動の中でもすごく思い出に残っています。
特に4回生の時に行った卒業公演ではかなり集客に力を入れまして、最終的には動員数120名以上を達成できたんですよ。その公演では、同期で入ったメンバーと=LOVE(指原莉乃がプロデュースするアイドルグループ)の楽曲『流星群』を踊る機会もあったんですが、苦楽を共にしてきた子だからこそ、思わずうるっときたのを覚えています」
◆龍谷コンテストで学んだ「応援してもらうことのありがたさ」
さらに小南さんは、卒業公演を迎える前に「Ryukoku Contest 2023」にも出場していた。以前から友人に「ミスコンに出てみたら」と言われていたものの、「自分は出る器ではない」という思いから、なかなか踏ん切りがつかずに出場をためらっていたそうだ。
しかし、大学卒業を前にして「最後の大学生活だったら、やれることをやろう」という気持ちになり、参加を決意したとのこと。
「今まで応援してくれた方々への恩返しと、アイリス龍星群をもっと多くの人に知ってもらいたいという想いで、挑戦を決意しました。そこで学んだのは『応援してもらうことのありがたさ』です。龍谷コンテストのWeb投票は1日1回できるんですが、私自身も自分への投票を忘れるぐらい手間のかかるものでした。
そんななかでも、ファンの人から『今日も投票したよ』と言ってもらえたりすると、とても励みになっていました。どうしても普段の活動では、自分の配信や踊りを頑張ることに意識が向きがちですが、こうして応援してくれるファンがいるからこそ成り立つんだ、という大切なことに気づけたんです」
そして、結果としてファイナリストまで残り、審査員特別賞にも輝いたのだ。
◆心を動かされた「製造現場を元気にしたい」というビジョン
サークル活動や龍谷コンテストでの実績など、充実した大学生活を送ってきた小南さん。現在は製造業と製造派遣業を行う三陽工業株式会社(兵庫県)で働いている。
就職先の進路はどのように決めていったのだろうか。小南さんは「プライベートで明石に訪れたのが転機だった」とし、次のように説明する。
「大学では観光系を学んでいて、当初は旅行会社を中心に選考を受けていました。そうしたなかで、明石に行く機会があったんですが、地域の温かさや食べ物の美味しさに感動して、なんとなく明石に本社がある三陽工業の説明会にエントリーしたんです。
そこで、元レースクイーンの広報課長がTikTokやYouTubeで幅広く活動されていることを知って、私自身も自分の経験を仕事に活かせたらいいなと思うようになりました」
とはいえ、母親からは名前の知らない中小企業への就職に不安を抱かれ、心配されることもあったとか……。にもかかわらず、小南さんが三陽工業に決めた理由とは?
「最後まで就職先を決めるのに悩んだんですが、『日本の製造現場を元気にする』という三陽工業のビジョンに共感したのがひとつの決め手になりました。実は父が亡くなったことで、実家の工務店の事業承継者が見つからずに廃業になってしまったんです。
だからこそ、三陽工業のビジョンにすごく惹かれたんですね。この会社だったら、自分の強い意志を持って頑張れるんじゃないかなと思って入社しました」
◆後輩から“目標にされる存在”になりたい
現在は広報課に所属しているそうだが、仕事と大学時代に経験してきた活動は「似ている部分が多い」と小南さんは言う。
「プレスリリースを書くときも、三陽工業に興味を持ってもらえるように言葉選びにこだわりますが、大学時代の活動で気づいた『応援してもらえることに感謝しよう』という気持ちがすごく活きています。社員の方に広報活動に協力してもらうときも、感謝と敬意の念を持って接するようにしていますね」
今後の目標を聞くと、小南さんはこう話した。
「将来的に後輩が入ってきた時に“憧れられる存在”になりたいと思います。あとは昔お世話になった職人さんに、私が三陽工業で活躍している姿を見つけてほしいという野望があるので、それが叶えられるようにもっとできることを増やし、頑張っていきたいですね」
AKB48のようなアイドルに憧れていた少女は今、広報として新たなステージに立っている。これからも挑戦し続ける姿勢は変わらない。
<取材・文/古田島大介>
【古田島大介】
1986年生まれ。立教大卒。ビジネス、旅行、イベント、カルチャーなど興味関心の湧く分野を中心に執筆活動を行う。社会のA面B面、メジャーからアンダーまで足を運び、現場で知ることを大切にしている
こうしたなか、京都の龍谷大学で毎年行われる「Ryukoku Contest 2023」(旧 Miss&Mr.Ryukoku)のファイナリストであり、審査員特別賞を受賞したのが小南 ゆ乃さん(23歳)だ。
大学時代は「アイドルコピーダンス」のサークル活動に励み、コンテストでも活躍した小南さん。しかし、そんな華々しい大学生活を送った彼女が選んだ就職先は、テレビ局などのマスコミ系や芸能関係、誰もが知る大企業ではなく、兵庫県にある中小企業だった。
華やかさとは一見無縁に思える、その選択の裏には何があったのか——。
幼少期の思い出や大学のコンテストで学んだこと、今の会社を就職先に選んだ理由について小南さんに伺った。
◆AKB48を目指した幼少期「10回以上オーディションに落ちても応募した」
小さい頃からテレビアニメ『プリキュア』が好きで、“キラキラ”した女性に憧れていたという。その一方で、祖父が工務店を経営していたこともあり、物心ついた時からものづくりに囲まれた暮らしを送っていた。
「学校に登下校する際に、職人さんから『いってらっしゃい』とか『おかえり』と声をかけてもらえるのがとても嬉しかったのを覚えています。あとは近所にある神社の屋根や小学校の下駄箱などは祖父が作ったりしていたんですが、それを見つけるたびに友達に自慢していましたね」(小南さん、以下同)
アイドルになりたいと思ったのは、テレビでAKB48の総選挙を観たときだった。
「AKB48の総選挙では、普段テレビで見かけないメンバーもこんなにたくさんいるんだということを知って。自分もこういう世界で戦ってみたいと思ったのがアイドルになりたいと思ったきっかけでした。
ただ、48グループのオーディションを受けられるのが小学校6年生からだったので、それまでは親を説得するために、自分がオーディションを受けたいと思っていることを何回も伝えていました。
それで、AKB48の曲の振り付けを覚えて、職人さんの前で披露してみたり、結構本気で取り組んでいました」
小学校6年生になってからは、48グループのオーディションが開催されるたびに応募を繰り返したそうだが、結果としては全て書類選考で落ちてしまったとのこと。
「AKB48にすごく憧れていて、10回以上は応募したと思います。それでも通過することはできず、アイドルになるための道がいかに険しいかを実感しました」
◆大学進学で出合った「アイドルコピーダンス」
小南さんの心情に変化があったのは、高校1年生の時だった。父の他界を機に、実家の工務店が事業承継者不足の危機に陥ってしまったのだ。「アイドル」になることよりも「安定した暮らし」を手に入れたい……。そのために、とにかく大学へ進学するという気持ちに変わったという。
以来、アイドルを目指す道ではなく、志望校へ合格するために勉強をする日々だった。その後、第一志望だった龍谷大学へ進学が決まったが、ちょうどコロナ禍で入学式や新入生歓迎会などのイベントが中止に。
このような状況下で、小南さんは「アイドルコピーダンス部の存在をネットで検索して知った」と語る。
「私が1回生の時に3つ上の先輩が踊っている動画を見る機会があり、すごく可愛いなと感じたんです。『私もこの人と一緒に踊りたい』と強く思ったことから、アイドルコピーダンス部に入ることに決めました」
◆可愛い衣装でダンスを披露「まるで本当のアイドル」
アイドルコピーダンスとは、日本の女性アイドルの楽曲をカバーし、歌は歌わずにダンスを披露するもので、2012年からは大学対抗の女子大生アイドルコピーダンス日本一決定戦「UNIDOL(ユニドル)」が開催されるなど、ダンスサークルのひとつとして認知されている。
小南さんも、年2回行われるUNIDOLの大会前は週5〜6日ほどコピーダンスの練習に打ち込み、それ以外の時期でも月1のライブに備えて全体練習のほかにも自宅の庭で踊っていたという。
「私はアイドルになるという夢を一度あきらめてしまったのですが、“推し”のアイドルの踊りを真似して披露するのが楽しくて。ライブの時は可愛い衣装を着てダンスをしますし、自分たちのサークルの様子や魅力を伝えるためにSNSで発信してファンづくりをするなど、本当にアイドルのような活動をしていましたね」
◆「地道に続けてよかった」“赤色”のペンライトに励まされた初舞台
しかし、2020年に入部した当初はコロナ禍でステイホームを余儀なくされ、サークル活動が思うようにできなかったそうだ。それでも翌年3月には、アイドルコピーダンスを始めるきっかけとなった先輩の卒業公演にて初のステージに立つことに。
その舞台に出たことで、「アイドルコピーダンスを続ける大きな原動力になった」と小南さんは振り返る。
「コロナの影響でサークル活動ができない間も、SNSでの情報発信やライブ配信をコツコツ続け、いつかステージに立てるのを目標に頑張っていました。ですが、正直なところ、何度も『やめてしまいたい』と思ったこともあったんです。
それでも、先輩の卒業公演に初めて立たせていただいたときに、ステージ上から私の担当カラーである“赤色”のペンライトが何本か光っていたんですね。この光景を見たときには本当に嬉しくて。今までの地道な活動は無駄じゃなかったと思いましたし、4年間サークル活動を続ける原動力になりました」
◆サークルのリーダーとして心がけた「憧れられる先輩像」
コロナ禍の煽りを受け、元々加入していたアイドルコピーダンス部は廃部。そこから仲間と1から立ち上げたのが「アイリス龍星群」だった。
SNSでの情報発信や大会への出場、年1回の単独公演など、サークルのリーダーとしてチームを牽引。“みなみん”という活動名でアイドルコピーダンスに取り組んでいた小南さんは、「後輩たちから『みなみん先輩のようになりたい』って、サークルの象徴的な存在になれるように努力をしてきました」と語る。
「サークルでは、単独公演をとにかく成功させることに集中していました。衣装や構成、チケットの値段など、全てを自分たちで作り上げる集大成のようなもので、サークル活動の中でもすごく思い出に残っています。
特に4回生の時に行った卒業公演ではかなり集客に力を入れまして、最終的には動員数120名以上を達成できたんですよ。その公演では、同期で入ったメンバーと=LOVE(指原莉乃がプロデュースするアイドルグループ)の楽曲『流星群』を踊る機会もあったんですが、苦楽を共にしてきた子だからこそ、思わずうるっときたのを覚えています」
◆龍谷コンテストで学んだ「応援してもらうことのありがたさ」
さらに小南さんは、卒業公演を迎える前に「Ryukoku Contest 2023」にも出場していた。以前から友人に「ミスコンに出てみたら」と言われていたものの、「自分は出る器ではない」という思いから、なかなか踏ん切りがつかずに出場をためらっていたそうだ。
しかし、大学卒業を前にして「最後の大学生活だったら、やれることをやろう」という気持ちになり、参加を決意したとのこと。
「今まで応援してくれた方々への恩返しと、アイリス龍星群をもっと多くの人に知ってもらいたいという想いで、挑戦を決意しました。そこで学んだのは『応援してもらうことのありがたさ』です。龍谷コンテストのWeb投票は1日1回できるんですが、私自身も自分への投票を忘れるぐらい手間のかかるものでした。
そんななかでも、ファンの人から『今日も投票したよ』と言ってもらえたりすると、とても励みになっていました。どうしても普段の活動では、自分の配信や踊りを頑張ることに意識が向きがちですが、こうして応援してくれるファンがいるからこそ成り立つんだ、という大切なことに気づけたんです」
そして、結果としてファイナリストまで残り、審査員特別賞にも輝いたのだ。
◆心を動かされた「製造現場を元気にしたい」というビジョン
サークル活動や龍谷コンテストでの実績など、充実した大学生活を送ってきた小南さん。現在は製造業と製造派遣業を行う三陽工業株式会社(兵庫県)で働いている。
就職先の進路はどのように決めていったのだろうか。小南さんは「プライベートで明石に訪れたのが転機だった」とし、次のように説明する。
「大学では観光系を学んでいて、当初は旅行会社を中心に選考を受けていました。そうしたなかで、明石に行く機会があったんですが、地域の温かさや食べ物の美味しさに感動して、なんとなく明石に本社がある三陽工業の説明会にエントリーしたんです。
そこで、元レースクイーンの広報課長がTikTokやYouTubeで幅広く活動されていることを知って、私自身も自分の経験を仕事に活かせたらいいなと思うようになりました」
とはいえ、母親からは名前の知らない中小企業への就職に不安を抱かれ、心配されることもあったとか……。にもかかわらず、小南さんが三陽工業に決めた理由とは?
「最後まで就職先を決めるのに悩んだんですが、『日本の製造現場を元気にする』という三陽工業のビジョンに共感したのがひとつの決め手になりました。実は父が亡くなったことで、実家の工務店の事業承継者が見つからずに廃業になってしまったんです。
だからこそ、三陽工業のビジョンにすごく惹かれたんですね。この会社だったら、自分の強い意志を持って頑張れるんじゃないかなと思って入社しました」
◆後輩から“目標にされる存在”になりたい
現在は広報課に所属しているそうだが、仕事と大学時代に経験してきた活動は「似ている部分が多い」と小南さんは言う。
「プレスリリースを書くときも、三陽工業に興味を持ってもらえるように言葉選びにこだわりますが、大学時代の活動で気づいた『応援してもらえることに感謝しよう』という気持ちがすごく活きています。社員の方に広報活動に協力してもらうときも、感謝と敬意の念を持って接するようにしていますね」
今後の目標を聞くと、小南さんはこう話した。
「将来的に後輩が入ってきた時に“憧れられる存在”になりたいと思います。あとは昔お世話になった職人さんに、私が三陽工業で活躍している姿を見つけてほしいという野望があるので、それが叶えられるようにもっとできることを増やし、頑張っていきたいですね」
AKB48のようなアイドルに憧れていた少女は今、広報として新たなステージに立っている。これからも挑戦し続ける姿勢は変わらない。
<取材・文/古田島大介>
【古田島大介】
1986年生まれ。立教大卒。ビジネス、旅行、イベント、カルチャーなど興味関心の湧く分野を中心に執筆活動を行う。社会のA面B面、メジャーからアンダーまで足を運び、現場で知ることを大切にしている