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幻と消えた「手賀沼ディズニーランド」計画。なぜ“常磐線の我孫子駅”近くの“日本一水が汚い湖沼”に誘致しようとしたのか

日刊SPA! 2025年2月3日 8時52分

ディズニーの日本誘致は、戦災復興が終わる昭和30年代頃から始められていました。しかし、ディズニー経営陣はなかなかクビを縦に振りませんでした。やはり、アメリカ文化のディズニーが簡単に日本で受け入れられるとは考えていなかったようです。
ディズニーを国内へ誘致しようと考えていた人物は数多く、無数の“ディズニー計画”が存在します。(※本記事は、『鉄道がつなぐ昭和100年史』(ビジネス社)より抜粋したものです)

◆承諾を得られなかった「まがい物のテーマパーク」

例えば、興行師の松尾國三は昭和36(1961)年に奈良ドリームランドを、昭和39(1964)年に横浜ドリームランドを相次いで開園させました。

松尾はアメリカのディズニーランドに感銘を受けて、日本国内にもディズニーを再現しようと考えました。しかし、ディズニーからの承諾を得られず、奈良ドリームランドと横浜ドリームランドはディズニーのエッセンスを取り入れた、平たく言うところのまがい物のテーマパークになってしまったのです。

◆ディズニーを「千葉県の手賀沼湖畔」に誘致する計画

松尾のように実際に開園まで漕ぎ着けた例は少ないのですが、ディズニーを誘致する計画は無数にあり、なかには実現可能性の高い計画もありました。そのひとつが、千葉県の手賀沼湖畔に計画されたものです。

同計画の実現性が高かったと断言できるのは、自治体の広報誌でもある『広報 あびこ』に計画図が掲載されたからです。自治体の広報誌に掲載されるからには、計画は最終局面まで進んでいたと考えられます。

柏市・我孫子町(現・我孫子市)・沼南村(沼南町を経て2005年に柏市と合併)の3市町村の広大なエリアに計画されたディズニーランドは、ほかの計画や浦安沖の埋立地に結実した東京ディズニーランドと区別する意味から、関係者の間では「手賀沼ディズニーランド」計画と呼ばれることもあります。一時期は水質汚濁で国内ワースト1位という不名誉な称号を得ていた手賀沼に、なぜディズニーを誘致する計画が浮上したのでしょうか? 現在の手賀沼からは想像しにくいのですが、手賀沼の来歴を知ると決して不自然な話ではないことが透けて見えてきます。

現在の手賀沼湖畔は閑静な住宅街となっていて、東京のベッドタウンとしての役割も果たしています。手賀沼の最寄駅は常磐線の我孫子駅で、朝夕は通勤・通学の利用者で混雑します。

しかし、我孫子が東京のベッドタウンになっていくのは昭和40年代からで、それまでは農村然としていました。

◆別荘地として開発されていった我孫子

農村然としていた我孫子ですが、明治時代に変化を求められる大きな波が押し寄せていました。明治29(1896)年に日本鉄道(現・JR東日本)が駅を開設したのです。これにより、上野駅から我孫子駅までが一本の線路でつながり、東京からのアクセスが向上します。これを機に、東京近郊の景勝地として着目されて我孫子が別荘地として開発されていくのです。

別荘地開発の端緒を切り開いたのは、日本柔道の父と知られる嘉納治五郎です。嘉納は我孫子に農園を開き、嘉納後楽園と命名しました。柔道の総本山でもある講道館が東京都文京区後楽園に立地していることを踏まえると、嘉納が開いた農園は文京区の地名に由来していると推測できます。

その後、嘉納の甥だった柳宗悦が手賀沼湖畔に転居してきます。民芸運動の父と称され、美術家でもあった柳を慕うように手賀沼湖畔には文人の志賀直哉や武者小路実篤などが邸宅や別邸を構えていきました。

◆「静かな別荘地」の開発計画は昭和30年代ごろに

手賀沼湖畔に集まったのは主に白樺派と呼ばれる文人・美術家でしたが、世間に我孫子を別荘地として広めたのは朝日新聞記者の杉村楚人冠です。杉村は手賀沼湖畔に別邸を所有していましたが、関東大震災で東京が壊滅的な被害を出したことで手賀沼へと移住してきました。居住するようになった杉村は、手賀沼に関する記事を書き続けます。これらの記事が、手賀沼を全国区の別荘地へと押し上げることになったのです。

しかし、戦前までの手賀沼湖畔はあくまでも静かな別荘地でした。そうした静謐な手賀沼を開発しようという機運は、昭和30年代から芽生えます。当初、湖を活用して競艇場を建設することが考えられていましたが、競艇場は手賀沼を埋め立てなければならなかったので計画は頓挫しました。

それでも手賀沼を開発するという方向性は変更されることがなく、新たに手賀沼にディズニーランドを開園させようという計画が浮上しました。

ディズニーランドへの計画変更は、決して突拍子もない話だったわけではありません。手賀沼ディズニーランドの計画を主導した川崎千春は京成電鉄で専務取締役を務めていました。当時の京成は沿線開発の一環としてバラ園の整備に力を入れていました。

川崎はバラの買い付けをするためにアメリカへと渡り、そこでディズニーに出会います。川崎は現地でディズニーの思想に感銘を受け、帰国後に誘致へと動き出したのです。これが手賀沼湖畔へディズニーランドを建設する動きへと発展していきます。

◆思うように進まず、手賀沼から浦安へ

川崎を中心にした手賀沼ディズニーランド計画は、テーマパークを運営する法人として全日本観光開発が設立されたことで本格化していきます。同社は前東京都知事の安井誠一郎を会長に、東京都競馬会長だった米本卯吉を社長に迎えています。

そのほか東武鉄道や後楽園スタヂアムなどが出資していました。現在の京成は千葉県市川市に本社を置いていますが、当時は東京都台東区に本社を構えています。地元の千葉県も同社に出資していましたが、資本関係から見れば明らかなように手賀沼ディズニーランドは東京の政財界が主導したプロジェクトだったのです。

しかし、手賀沼ディズニーランドは思うように進まず、そのまま計画は中断。川崎は途中から手賀沼湖畔ではなく、浦安沖にも食指を伸ばしていきます。理由は、浦安沖で広大な埋立地が計画されていたからです。その埋立地にディズニーランドをつくろうとしたわけです。

◆関東大震災がきっかけだった東京湾の開発計画

浦安沖の埋め立ては、千葉県が推進する東京湾の開発計画にも合致していました。千葉県が東京湾を開発していこうと考えた出発点は関東大震災でした。関東大震災で東京は壊滅状態になり、陸軍は東京に集中していた軍事力を分散する必要性を痛感するのです。

陸軍は軍事力を分散することで災害に備えようとしたわけですが、他方で軍事力を分散してしまうと、東京が攻撃されたときに対応できません。そこで、軍部は近隣の千葉に着目したのです。千葉市なら災害のリスクヘッジができ、しかも東京が攻撃されても即座に駆けつけることができます。こうして大正末から昭和初期にかけて、千葉市一帯は軍都と化していきます。

政府は千葉市を軍都として発展させるべく、昭和15(1940)年に東京湾臨海工業地帯計画を作成。同計画に沿って、千葉市沖に埋立地を造成していくことになりました。同事業は戦争により約200ヘクタールが完了した時点で中断しますが、埋立地の造成は千葉市の発展に寄与すると考えられていたことから、戦後は計画を拡大して埋立地の整備が進められていきました。

昭和25(1950)年に千葉県知事に就任した柴田等は、千葉市の埋立地に川崎製鉄(現・JFEスチール)の工場を誘致します。これが京葉臨海工業地帯の第一歩になりますが、柴田は千葉県を農業県にすると考えていました。そのため、それ以上の工場誘致を進めることはありませんでした。

<TEXT/小川裕夫>

【小川裕夫】
フリーランスライター・カメラマン。1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーに。首相官邸で実施される首相会見にはフリーランスで唯一のカメラマンとしても参加し、官邸への出入りは10年超。著書に『鉄道がつなぐ昭和100年史』(ビジネス社)、『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)などがある Twitter:@ogawahiro

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