本来子どもの成長において、親の存在は必要不可欠。ただ、子どもに悪影響を及ぼす“毒親”と呼ばれる親もいる。この言葉は世間に浸透しつつあるが、実態を知るものはどれだけいるだろうか。
両親に強く男の子を望まれながらも、女の子として生を受けた まなみさん(29歳)は、生まれた瞬間からネグレクト・虐待を受け続けていた。
まなみさんが3歳の頃に生まれた弟によって、彼女はより多難な人生を極めることになる。溺愛の弟の手を握りしめた母親は、まなみさんが必死な想いでさし出した手を振り払い、決して握ることはなかった。
両親による身体的・精神的虐待、そして父親からは性的虐待の日々。「あの家族の中で、私だけが人権がありません。虫けらです」そう淡々と話す彼女の話に耳を傾ける。
◆悲劇の始まりは「弟の誕生」から
まなみさんは、和歌山県和歌山市に生まれた。「両親はとにかく男の子を授かりたかったようです」と話す。
「両親から大切にされているなんて思ったことないですね。むしろその逆です。まだ赤ちゃんだったころ、車が揺れた拍子に頭をぶつけて泣き出したことがあったらしいんです。そのときも徹底的に無視をしていたと親戚から聞かされたことがあります」
まなみさんが生まれて3年後、両親にとって待望の男の子が生まれた。それが悲劇の始まりだったという。例を挙げればキリがないようで、弟が病院で騒がしくすれば、小学1年生の彼女がビンタされ、二の腕をつねりあげられ、怒鳴られた。
「もはや、暴力を受ける理屈はわかりません。話が通じる人ではないので……。ただ、以前親戚に母が話しているのを聞いてしまったんです。『弟はかわいいから、いくら悪さをしたって殴られへんやん? だからあいつを身代わりにさせてんねん。いい気味やし』と言ってました。論理の破綻具合は両親ともそんな感じです。話を聞いている親戚も聞き流しているようでした。親族にもまともな人はいません」
◆学生時代は「何もできない」状態
たまたまイライラした親の八つ当たりとは次元が違う。もはや、人間の扱いではない。
「私を殴っていい理由の通り、母は、いや両親ともに話が通じません。待望の男の子として生まれた弟は、あらゆる場面で私より優遇されていました。大学進学を希望した私には高卒で働けと迫り、弟には大学進学をさせました。それに、弟はやりたいスポーツの遠征費10万円などを何度も払ってもらっていましたが、私は『やりたい』と言えば何が飛んでくるかわかりません。他にも、弟は当たり前に払ってもらっていた中学生からの筆記用具や部活の必要備品などは、全部自分でお年玉などから払っていました」
また、当時インフルエンザで39度の発熱をしている彼女に対し、部屋の物もクローゼットの中身もゴミ袋に投げ込まれ、「戸籍を抜くからお前なんて出て行け!」とヒステリーを起こされたこともあったようだ。まなみさんは、そんな母親について「おそらくアルコール依存症だったと思います」と続ける。
「仕事から帰るとすぐに飲み始めて、酔い出すと冷蔵庫の中を荒らして、お皿がひっくり返って中がぐちゃぐちゃ。そのそばで死んだように眠っていたり。些細なことでヒステリーを起こし、父に告げ口し、他人の怒声は今でもトラウマです。父は父でギャンブル狂いでした。自営業で建設業を営んでいましたが、多分全然儲かってなかったんだと思います」
◆父親からの性的虐待も…
そんな父親からは、暴力や怒声だけでなく「性的虐待にも苦しめられました」という。
「父は、私が制服に着替えるタイミングを狙って部屋に入ってきたりしていました。文句を言えば、また何時間怒鳴られ続けるかわかりません。『お前、胸デカなったな~』『お母さんよりデカいな』などと言われながら、黙って父の視線を受け止めるしかありませんでした。少し反抗的な表情をした時には『思いあがりやがって、勝手に色気づいてんなよ!』と言われる始末。普段は私の意志を踏みにじってばかりいる父が、このときだけニタニタして擦り寄ってきて、本当に生理的に受け付けられませんでした」
彼女の両親は、彼女をたたきのめす同志のようだった。母は気に障ったことがあればビンタ、二の腕をつねりあげ、1時間以上の怒声が待ち受ける。そして父に報告され、さらに終わりのない怒声を浴びせられることに。そのうえ、1週間は食事は与えられない。
「家の中の権力者は父親で、母には目の敵のように暴力を受けたり怒鳴られたりしていましたが、それが更に父に報告されることの方が地獄でした。父が母に『こいつにメシやるな』と指示があったときは、1日で食べるご飯は学校で食べる給食の1食だけ……。お腹がすいて堪らずに冷蔵庫の中のものをバレないように食べたりしていました」
◆毒親に育てられた後遺症
そんな両親と共に生活していたことにより、家を出て10年経つ今でも、彼女は人生を奪われ続けている。
「人が怖くて、信じられなくて、嫌われているんじゃないかと被害妄想が膨らみ、職場には馴染めず、外にも出歩けません。誰かに笑われたと思うと汗が噴き出て、体が震えて呼吸困難になります。街中のクラクションの音や他人の怒声を聞くと今でもフラッシュバックし、動悸がしてくるんです。誰からも必要とされていないし、愛されたこともない私なんかこの世にいらないな……と何度も思いました。でも、自分がこの世から消えてなくなる前に、『両親を同じ目に遭わせてからにしよう』と、今でもふとした瞬間に思います」
◆あのときの自分に伝えたいこと
時折、子どもが老いた両親を殺害するニュースを見ると、「他人事とは思えないんです」と話す まなみさん。両親から離れ、大人になった今、虐げられた自分に声をかけることができるならば何を伝えるのか聞いてみた。
「希望もなにもない話ですが……あのときできることはすべてやったと思います。自分の身を守るために両親の機嫌を伺い、求めている態度だけを取る。どんなに理不尽でも歯向かわない。これらがすべてだったと思います。私は以前、とにかく我慢が体に悪いと思い、『我慢なんかせずに暴れまくったらいい』と思っていました。でも暴れまくったところで、両親も近所の人も助けてくれませんでした。伝えられるとしたら、『とにかく早く親元から離れることを考えて、そのあとは自分の療養に専念してほしい』ということです」
親戚や学校、人並みに近い大人がいたにも関わらず、誰も彼女に救いの手を差し伸べなかった彼女の結論に胸が詰まる。
しかし、関わったすべての大人を責めることもまた難しい。まなみさんの両親ほどのモンスターを扱うには、仮にまなみさんの状況を知ったとしても、援護する側もそれなりの覚悟が必要になることも確かだ。
どうか立ち向かう勇気が必要にならないような世の中であってほしい。
文/なっちゃの
【なっちゃの】
会社員兼ライター、30代ワーママ。世の中で起きる人の痛みを書きたく、毒親などインタビュー記事を執筆。
両親に強く男の子を望まれながらも、女の子として生を受けた まなみさん(29歳)は、生まれた瞬間からネグレクト・虐待を受け続けていた。
まなみさんが3歳の頃に生まれた弟によって、彼女はより多難な人生を極めることになる。溺愛の弟の手を握りしめた母親は、まなみさんが必死な想いでさし出した手を振り払い、決して握ることはなかった。
両親による身体的・精神的虐待、そして父親からは性的虐待の日々。「あの家族の中で、私だけが人権がありません。虫けらです」そう淡々と話す彼女の話に耳を傾ける。
◆悲劇の始まりは「弟の誕生」から
まなみさんは、和歌山県和歌山市に生まれた。「両親はとにかく男の子を授かりたかったようです」と話す。
「両親から大切にされているなんて思ったことないですね。むしろその逆です。まだ赤ちゃんだったころ、車が揺れた拍子に頭をぶつけて泣き出したことがあったらしいんです。そのときも徹底的に無視をしていたと親戚から聞かされたことがあります」
まなみさんが生まれて3年後、両親にとって待望の男の子が生まれた。それが悲劇の始まりだったという。例を挙げればキリがないようで、弟が病院で騒がしくすれば、小学1年生の彼女がビンタされ、二の腕をつねりあげられ、怒鳴られた。
「もはや、暴力を受ける理屈はわかりません。話が通じる人ではないので……。ただ、以前親戚に母が話しているのを聞いてしまったんです。『弟はかわいいから、いくら悪さをしたって殴られへんやん? だからあいつを身代わりにさせてんねん。いい気味やし』と言ってました。論理の破綻具合は両親ともそんな感じです。話を聞いている親戚も聞き流しているようでした。親族にもまともな人はいません」
◆学生時代は「何もできない」状態
たまたまイライラした親の八つ当たりとは次元が違う。もはや、人間の扱いではない。
「私を殴っていい理由の通り、母は、いや両親ともに話が通じません。待望の男の子として生まれた弟は、あらゆる場面で私より優遇されていました。大学進学を希望した私には高卒で働けと迫り、弟には大学進学をさせました。それに、弟はやりたいスポーツの遠征費10万円などを何度も払ってもらっていましたが、私は『やりたい』と言えば何が飛んでくるかわかりません。他にも、弟は当たり前に払ってもらっていた中学生からの筆記用具や部活の必要備品などは、全部自分でお年玉などから払っていました」
また、当時インフルエンザで39度の発熱をしている彼女に対し、部屋の物もクローゼットの中身もゴミ袋に投げ込まれ、「戸籍を抜くからお前なんて出て行け!」とヒステリーを起こされたこともあったようだ。まなみさんは、そんな母親について「おそらくアルコール依存症だったと思います」と続ける。
「仕事から帰るとすぐに飲み始めて、酔い出すと冷蔵庫の中を荒らして、お皿がひっくり返って中がぐちゃぐちゃ。そのそばで死んだように眠っていたり。些細なことでヒステリーを起こし、父に告げ口し、他人の怒声は今でもトラウマです。父は父でギャンブル狂いでした。自営業で建設業を営んでいましたが、多分全然儲かってなかったんだと思います」
◆父親からの性的虐待も…
そんな父親からは、暴力や怒声だけでなく「性的虐待にも苦しめられました」という。
「父は、私が制服に着替えるタイミングを狙って部屋に入ってきたりしていました。文句を言えば、また何時間怒鳴られ続けるかわかりません。『お前、胸デカなったな~』『お母さんよりデカいな』などと言われながら、黙って父の視線を受け止めるしかありませんでした。少し反抗的な表情をした時には『思いあがりやがって、勝手に色気づいてんなよ!』と言われる始末。普段は私の意志を踏みにじってばかりいる父が、このときだけニタニタして擦り寄ってきて、本当に生理的に受け付けられませんでした」
彼女の両親は、彼女をたたきのめす同志のようだった。母は気に障ったことがあればビンタ、二の腕をつねりあげ、1時間以上の怒声が待ち受ける。そして父に報告され、さらに終わりのない怒声を浴びせられることに。そのうえ、1週間は食事は与えられない。
「家の中の権力者は父親で、母には目の敵のように暴力を受けたり怒鳴られたりしていましたが、それが更に父に報告されることの方が地獄でした。父が母に『こいつにメシやるな』と指示があったときは、1日で食べるご飯は学校で食べる給食の1食だけ……。お腹がすいて堪らずに冷蔵庫の中のものをバレないように食べたりしていました」
◆毒親に育てられた後遺症
そんな両親と共に生活していたことにより、家を出て10年経つ今でも、彼女は人生を奪われ続けている。
「人が怖くて、信じられなくて、嫌われているんじゃないかと被害妄想が膨らみ、職場には馴染めず、外にも出歩けません。誰かに笑われたと思うと汗が噴き出て、体が震えて呼吸困難になります。街中のクラクションの音や他人の怒声を聞くと今でもフラッシュバックし、動悸がしてくるんです。誰からも必要とされていないし、愛されたこともない私なんかこの世にいらないな……と何度も思いました。でも、自分がこの世から消えてなくなる前に、『両親を同じ目に遭わせてからにしよう』と、今でもふとした瞬間に思います」
◆あのときの自分に伝えたいこと
時折、子どもが老いた両親を殺害するニュースを見ると、「他人事とは思えないんです」と話す まなみさん。両親から離れ、大人になった今、虐げられた自分に声をかけることができるならば何を伝えるのか聞いてみた。
「希望もなにもない話ですが……あのときできることはすべてやったと思います。自分の身を守るために両親の機嫌を伺い、求めている態度だけを取る。どんなに理不尽でも歯向かわない。これらがすべてだったと思います。私は以前、とにかく我慢が体に悪いと思い、『我慢なんかせずに暴れまくったらいい』と思っていました。でも暴れまくったところで、両親も近所の人も助けてくれませんでした。伝えられるとしたら、『とにかく早く親元から離れることを考えて、そのあとは自分の療養に専念してほしい』ということです」
親戚や学校、人並みに近い大人がいたにも関わらず、誰も彼女に救いの手を差し伸べなかった彼女の結論に胸が詰まる。
しかし、関わったすべての大人を責めることもまた難しい。まなみさんの両親ほどのモンスターを扱うには、仮にまなみさんの状況を知ったとしても、援護する側もそれなりの覚悟が必要になることも確かだ。
どうか立ち向かう勇気が必要にならないような世の中であってほしい。
文/なっちゃの
【なっちゃの】
会社員兼ライター、30代ワーママ。世の中で起きる人の痛みを書きたく、毒親などインタビュー記事を執筆。