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【100歳 甲子園球場物語】大鉄傘、銀傘、大銀傘 聖地の屋根は平和の象徴

スポニチアネックス 2024年7月9日 7時3分

 甲子園球場の内野スタンドには100年前の建設当初から屋根が架けられていた。後にアルプススタンドまで広がり「大鉄傘」と呼ばれ、女性ファンを呼んだ。戦時中、軍への金属供出で解体され、戦後は銀傘として生まれ変わった。さらに拡張して「大銀傘」とする計画は、猛暑対策に加え、平和の象徴としての思いもこもっている。 (編集委員・内田 雅也)

 甲子園球場のスタンドには1924(大正13)年の誕生完成から屋根があった。鉄傘と呼ばれた。

 建設構想を進めていた前年、ニューヨークに出張していた阪神電鉄車両課長・丸山繁が持ち帰ったポロ・グラウンド設計図に屋根があった。完成間もないヤンキースタジアムも屋根があった。

 代表取締役・三崎省三から設計を命じられた入社2年目の野田誠三(後の社長、球団オーナー)が「鉄傘も三崎さんの肚(はら)一つで決まったのです」と社史『輸送奉仕の五十年』で語っている。

 三崎の四男・悦治が書いた小説『甲子の歳』に完成直後、満員となった全国中等学校優勝野球大会を眺めながら、三崎が場内の女性ファンを探す様子が描かれている。野田に語りかける。「大鉄傘が淋(さび)しがって泣いているよ」「なあに、時間の問題だよ。これだけの野球熱が女性ファンを置き去りにするわけがないよ」

 三崎は日よけとなる鉄傘で女性を呼び込もうとしていた。元毎日新聞記者で『甲子園球場物語』の著書がある大阪スポーツマンクラブ会長・玉置通夫が同会午さん会の講演で「女子たちにスポーツ観戦の門戸を広く開いた」と語っている。「モダンガールたちもさっそうと現れる。甲子園は今までにない風俗文化をつくりだした」

 鉄傘は31(昭和6)年7月、アルプススタンド(29年完成)を覆うまで拡張された。大鉄傘と呼ばれた。

 本連載ですでに書いたが、谷崎潤一郎が36年に発表した小説『猫と庄造と二人のをんな』で、福子に誘われ、庄造が甲子園球場にデートにいく。野球観戦はハイカラでモガ(モダンガール)の流行でもあった。

 35年12月創設のプロ野球・タイガースの選手も親しんだ。評論家・大井広介によると、二塁後方から大鉄傘の屋根にボールを投げる競争をしていた。高さはビル10階に相当する約30メートルもある。多くの選手が失敗するなか、景浦将は次々と放り上げていた。戦後も若手の川藤幸三が放り上げるのを吉田義男が感心して見ていた。

 そんな名物も戦争の犠牲となった。春夏の甲子園大会は41年から中止となった。同年施行の金属類回収令が43年3月の戦時行政特例法で徹底された。

 大鉄傘は格好の標的となり、海軍から「毎日ヤイヤイ言ってきた」と当時阪神電鉄専務の泉谷平次郎が社史で語っている。大日本体育協会(体協)会長の下村海南にかけ合ったが、8月に取り壊されることになった。

 当時球場職員、戦後第14代球場長となる川口永吉が著書『甲子園とともに』で<痛恨事はなんといっても名物大鉄傘の供出>と書いた。<鉄傘が外されたとき、われわれ球場関係者はそのといの中で名残を惜しんで寝た。(中略)大の男がゆっくり横たわれるほど大きなものだった>

 界隈(かいわい)に住んでいた作家・佐藤愛子は当時18歳だった。エッセー集『これが佐藤愛子だ』で嘆いている。<それは戦争が負け戦になりはじめた頃のことだ。大鉄傘は取り去られ、兵器になるのだった。私の近くの家でも鉄の門扉を供出させられた家があった。私の家では青銅の門燈の笠を供出した>

 戦争による甲子園の悲劇を伝える象徴シーンと考えたのだろう。全国高校野球選手権大会の第50回を記念した68年の記録映画『青春』(監督・市川崑)では大鉄傘の解体風景をミニチュアで再現し、作中に挿入している。

 本格的な解体工事に入る前日の8月18日、タイガース・若林忠志は名古屋戦で完封を飾った。大鉄傘に別れを告げる快投だった。

 買い主は神戸製鋼で1トン=90円、計9万円の安値だった。戦後、海軍省人事部長が明かした話では「あれで駆逐艦が半分しかできん。それも造らずじまいであった」。放置されたままだった。

 戦後、野球は再開されたが、屋根のない青天井の下で行われた。51年、ジュラルミン製の銀傘として復活。大鉄傘より小さく、一・三塁内野スタンドの半ばまでだった。82年にはアルミニウム合金製にふき替えられた。

 2009年、平成の大改修で4代目の屋根としてガルバリウム鋼板製に架け替えられた。両翼に40メートル延びて内野スタンド全体を覆い、開設当初の大きさとなった。

 昨年7月、開場100周年記念事業の一環として、銀傘をアルプススタンドまで拡張する計画が発表された。大鉄傘と同じ大きさで「大銀傘」と呼ぶべきだろう。

 猛暑対策に加え「平和の象徴として本来の姿に完全復活する」との思いがある。着工時期や工期は未定だが、大阪・関西万博閉幕後の25年オフ着工、数年後の完成を目指すとみられている。 =敬称略=

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