◇セ・リーグ 阪神0ー1広島(2024年7月19日 甲子園)
「甲子園の土守」と呼ばれた名物グラウンドキーパー、藤本治一郎の命日だった。1995年、70歳で逝った。
土と芝、グラウンドとともに生きた。「わたしから甲子園を取ったら何も残りません」。引退の際「どの試合が一番心に残っていますか」という問いかけに「グラウンドばかり見てきたのでわかりまへん」と答えた。
阪神監督・岡田彰布は現役時代、球場から引き揚げるとき、藤本が手でグラウンドをなでていた光景を覚えている。「試合中、ポーンと打球が跳ねた場所を懐中電灯で照らして、ならしていたよ」。職人の魂を見た。
そんな「土守」が天国で見守った一戦だった。阪神はよく守った。
1回表、近本光司が中前に落ちそうな飛球をダイビング好捕した。藤本が育てた、年中青い芝はいま、素晴らしいクッションとなり、外野手の思い切ったプレーや美技を生んでいる。
4回表には中野拓夢、木浪聖也が立て続けに二遊間ゴロを好捕した。
5回表の1点はやむをえない。無死満塁のピンチで二遊間は二塁併殺態勢だった。そこに遊ゴロが転がり、二塁封殺の間に三塁走者が還った。
併殺を取れなかったのは、最後のバウンドが不規則に跳ね、木浪がややジャッグルしたからである。ミスではない。ただ、藤本が見ていたら心を痛めたことだろう。
いや、痛かったのは、その直前、無死一、二塁からのバント処理を捕り損ねた坂本誠志郎の凡失だろう。焦ったか、ボールが手につかなかった。
坂本は打撃でも7回裏無死満塁で痛恨の遊ゴロ併殺打(本塁封殺)。絶好機をつぶした。
敗戦後、岡田は「せっかくの挽回のチャンス。あそこで代打はいかん」と坂本の奮起にかけたが最悪の結果となった。負け試合でいわゆる戦犯――嫌な言葉だ――をつくるのを嫌う岡田は「まだ、明日もあさってもあるからな」と前を向いた。
藤本に「自分を育ててくれた」と感謝する江夏豊の話を書いておきたい。プロ1年目、甲子園で土ぼこりが口に入り、吐き出すと「こら!」と怒声が飛んだ。藤本だった。「グラウンドにつばを吐くとは何事や。自分の職場やないか」。江夏はこの「職場」にしびれた。プロ意識である。
坂本も阪神も傷心も悔恨もあろう。だがプロは毎日が戦いだ。やり返すだけである。 =敬称略=
(編集委員)