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【100歳 甲子園球場物語】甲子園カレーも親しまれ、愛されて1世紀

スポニチアネックス 2024年7月23日 7時2分

 「甲子園カレー」には100年の伝統がある。甲子園球場には1924(大正13)年の開場当時から食堂にカレーライスがあり、人気メニューだった。戦前戦後を通じて人びとに親しまれてきた。カレーの物語を書いてみる。 (編集委員・内田 雅也)

  甲子園球場が誕生した当初から球場内に食堂があり、メニューにカレーライス(ライスカレー)があった。

 この1924(大正13)年当時、カレーは家庭で作れる一般的な料理ではなかった。西洋レストランで食べる高級食だった。

 球場内食堂ではカレーライスをコーヒー付き30銭で売り出し、大評判となった。もりそば10銭、グラウンドキーパーの日当75銭の時代、高級品だったが、新しい物好きの関西人の人気を呼んだ。

 大阪・梅田で29(昭和4)年開業の阪急百貨店大食堂でもライスカレーが人気でコーヒー付き25銭だった。ところが5銭のライスだけを注文して卓上のウスターソースをかけて食べる客が出てきた。「ソーライス」と呼ばれるようになった。小林一三は「ライスだけのお客様歓迎します」という紙を入り口に貼らせ、新聞広告まで出した逸話が残る。

 本連載で書いてきたが、開場当時の甲子園球場は時代の最新スポットだった。巨大なスタジアム、野球観戦という新しい娯楽、珍しい水洗トイレ、そしてカレーライス。ハイカラ文化の象徴だった。

 昭和初期には1日1万食が売れた。売店従業員が奮闘して、1回300人前作れる大鍋で1日3回作った。

 ただ、37年突入の日中戦争が本格化した40年ごろから食材が不足するようになった。牛肉に代わりイルカの肉や貝柱を使った。牛肉の代用食にイルカというのは一流の新大阪ホテル(現リーガロイヤルホテル)でも行われていたと記録にある。

 戦争による大会中断の後、カレーライスが復活したのは47年の選抜大会からだった。戦後も人気は変わらず、朝日新聞『天声人語』で深代惇郎が<夏の甲子園の野球の味>として<球場食堂のカレーライス>と書いた。

 プロ野球・近鉄投手で通算317勝をあげた鈴木啓示(本紙評論家)にも甲子園のカレーの思い出がある。64年11月22日、育英(兵庫)2年秋の近畿大会は甲子園球場で行われた。準決勝で市和商(現市和歌山)を完封、向陽(和歌山)との決勝は延長17回完投で優勝した。翌春選抜での自身初の甲子園出場を確定させる力投だった。準決勝と決勝の合間、鈴木は「カレーを一杯だけ食べた」と覚えている。その味は感激の記憶とともにある。

 80年に食堂での手作りをやめ、ベル食品工業(大阪市鶴見区)に外注した。9キロ入りの大型缶で運び入れ、大鍋で温めて出した。88年から1食ごとのレトルトパックになった。

 同社によると「香辛料を多く混ぜたカレー粉に、タマネギを通常より多く使い、大人も子どもも食べやすい味」という。

 食堂や売店の運営はかつての阪神喫食から90年創立のウエルネス阪神が引き継ぐ。球場リニューアル工事後の2010年からは俗称だった「甲子園カレー」を正式なブランド名として売り出した。

 同社サイトには「秘伝の15種類以上のスパイスをオリジナルブレンド」「初めて食べる人にも懐かしい気持ちに」とある。100年前の味と伝統を受け継ぐ姿勢が見える。「100周年記念 甲子園国産牛カレー」も売り出している。

 グラウンドキーパーを率いる阪神園芸甲子園施設部長の金沢健児もカレーの思い出が強い。入社当時の88年、夏の大会期間中は昼食用の食券が配布された。半分が「カレー券」だった。「少なくとも2日に1度はカレーを食べていた。初心にかえる意味もこめ、今でも大会初日には必ずカレーを食べる」

 記憶は匂いや味と結びつきが深い。甲子園観戦の思い出がカレーとともにある人びとも多い。甲子園カレーは100年の間、親しまれ、愛されてきたのである。 =敬称略=

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