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東京六大学 メモリアル4000号は誰が打つ…全本塁打調べた熱烈ファン楽しみ 節目にあと4

スポニチアネックス 2024年9月14日 6時1分

 来年、創設100周年を迎える東京六大学野球。リーグ戦全本塁打を数え上げている熱心なファンがいる。「東京六大学野球を愛する会」の会員・高橋章さん(76)。大半の試合を神宮球場で観戦し、1925年(大14)の第1号から膨大な時間を費やして調べた通算本塁打は現時点で3996本。14日開幕の秋季リーグ戦の第1週にも到達する可能性があるメモリアル弾を、誰が打つのか――。楽しみに待っている。(取材・構成=伊藤 幸男)

 99年前の第1号から3996号までを記した大学ノートを見つめながら、高橋さんは穏やかな笑みを浮かべて言った。「清原君かもしれませんね」。西武や巨人などで歴代5位の通算525本塁打を積み上げた清原和博氏(57)の長男で、プロ入りを狙う慶大・正吾内野手(4年)のリーグ戦1号が、節目の一発となるのか。期待を高めている。

 幼少時にテレビをつけると、東京六大学野球の中継に目がくぎ付けになった。当時はプロ野球よりも人気があった時代。立大の長嶋茂雄(現巨人終身名誉監督)が57年秋に8号を放ち、当時のリーグ通算本塁打を更新した時期と重なる。「早大の白い帽子とアンダーシャツに清潔感を持てた」と高橋さん。中2の時に神宮球場で初めて観戦すると、さらに熱中することに。高校を卒業して都内にあるノリの加工販売会社に就職してからも、定期的に神宮に足を運んだ。

 人生の転機は43歳だった91年秋。「単に見続けるのではなく、自分にできることはないか」と自問自答していたところ、当時の雑誌に掲載されていた歴代本塁打の表が目に留まった。1925年9月22日、東大の東武雄(当時の球場は中野)が放った第1号から、1500号まで掲載。観戦のさらなるモチベーションを求め「最初から自分で調べたい」と思った。だが、想像以上に労力の要る作業が待っていた。参考資料となる年鑑はあったが、昭和初期は1日3試合や平日開催など日程がバラバラ。結局、国立国会図書館で各新聞の縮刷版を1ページずつめくるなど、膨大な時間を費やして調べ上げた。休日だけでは時間が足りず“仮病”で欠勤したことも。リポート用紙に下書きし、ノートに日時、選手名、被本塁打投手を書き込むまで、10年の歳月を要した。備考欄にはサヨナラや満塁弾、大学別の通算数なども記入し、更新を続け、今春6月2日の早慶戦で早大・尾瀬雄大(3年)が放った通算3996号まで、ノートは129ページまで膨れ上がった。

 約10年前「趣味用」として「東京六大学を愛する会」の名刺を作成した。会員は高橋さんだけだが、会の名称について東京六大学野球連盟から承諾も得ている。地道な作業をいつまで続けるのか?76歳の高橋さんは「体にガタはきたけどあと10年、できる限り若い選手のプレーを見続けたい」とメモリアル弾を見届けた後も、大学野球の聖地に通い続ける。

 ≪最も印象的なアーチは…田淵のサヨナラ 66年9・25慶大戦≫高橋さんが最も記憶に残るアーチとして挙げたのは法大の田淵幸一(現本紙評論家)で、66年9月25日の慶大戦で放ったサヨナラ2ラン。左翼ポールのはるか上を越えた特大弾に「鉄の棒でボールを叩くようなグワキーンという音がした。後にも先にもあれ以上の当たりは見たことない」と振り返る。投手では、正確無比な制球を武器に64年5月17日の立大戦では完全試合も達成した慶大の渡辺泰輔(故人)を挙げた。

 ≪最も印象的な試合は…63年明大―立大 土井の負傷退場で大乱闘≫高橋さんは、63年秋の明大―立大戦も強く印象に残った試合として挙げた。8回、二塁走者だった立大の土井正三(故人、元巨人)が、けん制で帰塁した際に守備側にスパイクされ、負傷退場。土井は同僚に背負われて退いたが、グラウンドでは納得できない立大と明大の一部選手の乱闘劇に発展した。「双眼鏡でベンチを見たり、二塁ベース上を見たり、忙しかったですよ。グラブを選手の後頭部に投げたりしていたから」と懐かしそうに振り返った。

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