元横綱で相撲解説者の北の富士勝昭さん(本名・竹沢勝昭=たけざわ・かつあき)が死去していたことが20日、分かった。82歳だった。
北海道生まれ。中学時代は野球少年でプロを目指していたという。だが、千代の山の後援会長の誘いもあって上京し、出羽海部屋に入門。57年初場所に初土俵を踏んだ。細身で脚が長く非力。下積み時代は、自分の弱点をカバーするために絶対に下がらない、ひたすら前に出る相撲を徹底した。そんな取り口からつけられたニックネームは将棋の駒に例えられ「きょうす(香車)」だった。
序二段卒業までに2年。三段目時代には盲腸炎にかかるなど出世は遅れたが、入門から6年後の63年春場所で十両に昇進。体重が100キロ台になると徐々に頭角を現し、同年九州場所では15戦全勝を成し遂げた。新入幕の64年初場所は13勝の好成績を挙げ、非凡な才能を開花。左四つから一気に出る速攻相撲に磨きをかけ、65年からは三役に定着すると66年名古屋場所後に大関に昇進。直前3場所は28勝だったが、大関1人の状況もあって抜擢された。
翌67年初場所後に九重親方(元横綱・千代の山)が分家独立を許さない出羽海部屋の伝統を破って独立したため、それに従う形で破門となった。心機一転、高砂一門の九重部屋の部屋頭となると春場所では14日目に出羽海部屋の兄弟子だった横綱・佐田の山との対戦。取り直しとなった激戦を制し単独首位となり、千秋楽も横綱・柏戸を破って初優勝。師弟涙の感動的な瞬間となった。
その後、夜遊びにふけるなど一時期不振に陥るが、玉の海(玉乃島)の躍進で目覚め、巡業などでも猛稽古を積み重ねた。北の富士は69年九州場所で2度目の優勝を果たすと、翌70年初場所は玉乃島との優勝決定戦を制して連続優勝。場所後にライバルと同時に横綱昇進を果たした。
好敵手を得た北の富士は昇進2場所目の70年夏と翌名古屋場所を連覇。71年夏場所で大鵬が引退すると、その場所で初の全勝優勝。玉乃島が翌名古屋場所で全勝優勝すると北の富士は秋場所で全勝優勝を成し遂げ、「北玉時代」の全盛期を迎えた。
しかし、生涯のライバル玉乃海が同年10月に急死。翌九州場所で優勝したものの、ショックは隠しきれず、72年秋場所では全勝優勝を果たし、1人横綱の責任は果たしたが、輪島、北の湖の台頭を許すことになり74年7月に引退した。
独立騒動やライバルの急死など、波瀾万丈の相撲人生。相撲には華があり、明るく破天荒な一面も備えた「現代っ子横綱」は甘いマスクに加え、美声の持ち主で女性ファンも多かった。また「夜の帝王」「プレーボーイ横綱」と呼ばれるように派手な私生活は、エピソードに事欠かなかった。
引退後は年寄「井筒」を襲名し、部屋を起こしたが、九重親方の死去に伴い九重部屋を合併。師匠としても千代の富士、北勝海の2横綱を育てた。
98年には理事選挙に絡む騒動もあって相撲協会を退職。その後、NHKの解説者として活躍。的確な解説はもちろん歯に衣(きぬ)着せぬ発言は視聴者の支持を集めた。また放送席では着物を格好良く着こなすなど「粋」な一面ものぞかせた。