スポニチでは「火の玉ルーキーズ」と題し、阪神が今秋ドラフト会議で指名した9選手が歩んできた足跡を連載する。2位・今朝丸裕喜投手(18=報徳学園)は高校2年春、3年春と2年連続で選抜準優勝を経験した大型右腕。小学生までは体格も平均的だったが、幼少期からの一貫した“自分推し”が進化の原動力となり、今や世代No・1投手にまで成長を遂げた。本人や家族、恩師らの証言をもとに、計3回にわたって知られざる右腕の素顔、野球人生の分岐点に迫る。
1メートル87、77キロの大型右腕も、生まれた時は体重3000グラムと平均的なサイズだった。今朝丸家の次男として産声を上げた裕喜。6歳上の兄・慎さん、4歳上の姉・萌花さんとの3人きょうだいの末っ子だったこともあり、人一倍の甘えん坊だった。幼少期から常に家族の中心で注目を浴びることが好きだった。そして自分のことが誰よりも大好きだった。
そんな生まれ持った性格が、すでに投手気質だった。父・裕さんが「裕喜は本当に自分が大好きですね。小さい頃から写真やビデオを何度も何度も見ていた。大きくなってからもそれは変わらない」と当時を回想すれば、母・宏美さんも「めっちゃ好きですね。自分の映っているシーンだけを何回も確認していました」とにこやかにうなずく。ただ、そんな裕喜の“自分推し”気質がプロ入りの原動力となるとは、当時は誰も、思いもしなかったことだろう。
野球を始めたのは自然な流れだった。先に慎さんがプレーしていた影響で、幼少期から身近にあるスポーツだった。外で体を動かすことも大好きだった。ただ幼稚園児のころは「最初はバスケやサッカーに興味があった」という。たぐいまれなる才能が他競技に流出する危機だったが、最終的には「一番、面白そう」と野球を選択。小学3年時に地元の横屋川井少年野球部へと入部した。
今でこそ1メートル87の長身右腕と呼ばれるが、意外にも小学生時代は大柄ではなかった。卒業時の身長も1メートル60。野球のポジションも投手一本ではなく、内野手として三塁と遊撃も守った。当時、日本ハムで活躍していた中田(現中日)をテレビで見て憧れ、同じ背番号6を手に入れるために必死に練習する、普通の野球少年だった。
ただし。その頃から裕喜の“自分推し”気質は、より顕著となっていた。たとえば小学6年時。ある試合で本塁打を打った日には、帰宅するやいなや「ちゃんと見てた?」。両親への猛烈な自己アピールを終えると、今度は自らの雄姿を動画で何度も繰り返し再生して、見入った。
そのサイクルは、いつの間にやら習慣化。大好きな自分自身のプレーを穴があくほど見つめ直すことが、最高の自己分析と反省となった。生粋の“自分推し”が高じて根付いた自己分析のルーティンは、いつしか“研究”レベルにまで昇華。その結果がフォームやボールに反映され、最速151キロ右腕に育つ下地の一つとなったのは間違いなかった。
研究熱心な“自分推し”裕喜は、中学進学に伴うチーム選びにもこだわった。求めたのは自身のパフォーマンスを最大限に発揮してくれる環境。元プロ野球選手などのコーチ陣を擁してハイレベルな指導を行い、中学1年時は50球までの投球制限を設けるなど肩肘を酷使しないチーム方針があることに加え「他チームにない、トレーナーさんが常にたくさんいる(環境)」と裕さんからの勧めもあった、関メディベースボール学院へ進む。
(杉原 瑠夏)
◇今朝丸 裕喜(けさまる・ゆうき)2006年(平18)6月2日生まれ、神戸市出身の18歳。小学3年時に横屋川井少年野球部で野球を始め投手。中学では関メディベースボール学院でプレー。報徳学園では2年春から2年連続で選抜大会準優勝。3年夏の甲子園は初戦敗退。50メートル走6秒5、遠投100メートル。1メートル87、77キロ。右投げ右打ち。