19日に肺炎のため98歳で死去した渡辺恒雄氏は、“政界のフィクサー”として永田町でも存在感を放った。読売新聞社入社2年目から政治記者として活動し、歴代首相と深い関係を築いた。時に助言を求められ、政局に大きな影響を与えた。
哲学者になることを目指していた渡辺氏は、東大時代は日本共産党員。学内の集団を率いるリーダーだったが、党と対立して除名された。その後、哲学で生計を立てるのは難しいと考えて新聞記者を志した。
読売新聞社に入社後、2年目に政治記者として頭角を現した。その発端は党人派の大物で自民党副総裁などを歴任した大野伴睦氏の全幅の信頼を勝ち取ったこと。的確な政界の情勢分析能力と、年長者の心を巧みにつかむ愛嬌(あいきょう)で大野氏の心をつかんだ。著書「闘争」の中では「閣僚人事でもなんでも大野さんは僕の意見を聞いてくれるようになった」と明かしており、大野伴睦の名義で週刊誌に池田勇人氏の批判原稿を書いたこともあった。
大野氏からの信頼を得てからは大物政治家たちとのパイプを築き、閣僚人事や政治そのものを助言する立場になった。右翼の重鎮で同じくフィクサーとして知られる児玉誉士夫氏とも親交を持った。
1950年代後半からは中曽根康弘氏と接近。同氏の総理大臣就任を積極的に後押しした。ロッキード事件で政界を引退していたがキングメーカーとして君臨していた田中角栄氏の支持を中曽根氏が取り付けたのも、その裏で渡辺氏が暗躍していた。
中曽根氏とは憲法改正の必要性で意気投合するなど深い関係を築いた。94年には読売新聞が憲法改正試案を発表し、17年の中曽根氏の白寿を祝う会でも改憲の必要性を訴えたほど。86年に中曽根氏が衆院の早期解散という奇襲策に打って出た「死んだふり解散」の進言もした。
中曽根氏が政界を引退した後も影響力は残り続けた。07年の自民党と民主党(当時)の「大連立」騒動で、渡辺氏は自民・福田康夫首相(当時)や民主・小沢一郎氏と接触。仕掛け人の一人とされた。安倍晋三元首相とも会食する間柄で、安倍氏が東京・大手町の読売新聞東京本社ビルを訪れることもあった。
時に「権力監視というジャーナリズムの一線を越えている」と批判を受けることもあった。ただ政界への発言力は現在に至るまで健在で、戦後最大の政治記者と呼ばれるのにふさわしい存在だった。
≪墓碑銘も中曽根氏に揮毫してもらった≫渡辺氏は死後に残すのは墓石だけと決め、先祖の墓地に同居すると明かしていた。墓碑銘には一番の親友だったという中曽根康弘氏にお願いをして揮毫(きごう)してもらった「終生一記者を貫く 渡辺恒雄之碑」を刻む。渡辺氏は「お互いに生きているうちに頼みたいという話をしたら、3日で書いて送ってくれた」と明かしていた。