渡辺恒雄氏はどのようにして“政界のフィクサー”にまで上り詰めたのか。永田町関係者は「何としてでも会いたい人には会う。新聞記者らしいやり方で道を切り開いた人で、最後まで記者を貫いた」と振り返った。
鳩山一郎氏の信頼は足で勝ち取った。2年目に政治記者となった渡辺氏は首相官邸担当になり、当時の吉田茂首相のライバルだった鳩山氏を追うよう指示を受けた。新人だったため部屋にも入れてもらえなかったが、ここで案をめぐらし脳出血で体が不自由だった鳩山氏の日課の散歩に付き合うことにした。体を支え、何時間でも歩く。鳩山邸で孫の鳩山由紀夫元首相、邦夫元総務相とも遊んだという。
“からめ手”から政治家を落とすすべを得た渡辺氏は、次に自由党総務会長の大野伴睦氏に真っすぐぶつかった。総務会長担当初日、大野氏が「オフレコ」として各社記者に耳打ちした話が翌日、読売で報じられた。大野氏は激怒。家に行くと門前払いを食らった。諦めなかった渡辺氏はその翌日、再び訪ねて「私が書きました」と“白状”。実際にはデスクに「オフレコです」と報告していたが、罪をかぶった。帰ろうとした渡辺氏を、大野氏は呼び止めて家に上げた。織田信長の草履を懐に入れて温めた豊臣秀吉のように、大野邸の来客の靴をそろえる役割も買って出て、次第に秘書のように振る舞うようになった。当時、大野番だった他社の記者は「取材ではなく、アドバイスをしていた」と話している。
盟友の中曽根康弘元首相には、博学さで懐に入り込んだ。当初は会うことを躊躇(ちゅうちょ)していたが、意を決して訪ねると、中曽根氏の人柄に引かれ意気投合。週1回の読書会でさらに親交を深めていった。渡辺氏はもともと哲学書が好きで、哲学科出身。インテリだった中曽根氏に合わせた会話で楽しませ、兄弟のような関係になっていった。
政界のフィクサーと呼ばれるようになってからは、読売新聞社内では「俺の言うことに忠実に従うやつだけが優秀な社員だ」と言い、「俺は最後の独裁者」と公言。1000万部を超える部数を背景に「総理も動かせる」など威圧的な発言も増えた。