レッド・スミスの命日だった。ニューヨーク・ヘラルドトリビューンやニューヨーク・タイムズなどでコラムを書いたスポーツライターで、ピュリツァー賞も受け、アメリカ野球殿堂入りもしている。
1982年1月15日、心不全のため、76歳で逝った。スミスは友人の告別式で弔辞を読み「死ぬことはそう大したことじゃない」と言った。著書『今はなき友へ』(東京書籍)の「序」にある。「難題なのは生きていく方だ」というわけだ。
「一生、生粋の新聞人でいたい」「タイプライターの上で死にたい」……と生涯、取材と執筆に努めた。実際、最後のコラムが掲載となったのは他界する4日前だった。
そんなスミスが残した有名な言葉がある。
「野球がスローで退屈だと思う人。それはその人が退屈な心の持ち主にすぎないからだ」
時間制限のない野球は間(ま)のスポーツである。一球一球、一投一打の合間に考える時間がある。プレーする選手たちはもちろん、見る観客や記者は次に起きることについて、あれこれ考えや思いを巡らせる。
退屈なのは何も考えていないからである。
ところが最近、超一流の目にも「退屈」と映る野球が展開されている。
昨年末12月23日放送のドキュメンタリー番組『情熱大陸』(MBS制作)でイチローが語っていた。松井秀喜から「今のメジャーの試合見てて、ストレスたまらないですか?」と問われ、「たまる、たまる。めちゃめちゃたまるよ! 退屈な野球」と断じた。
進化し続けるデータを重視する風潮に「洗脳されてしまってる」と案じた。「選手の気持ち、メンタルはまったくデータには反映されない。目で見えない大事なこと、いっぱいあるのになって」
大リーグに影響され、日本のプロ野球もデータであふれかえっている。昨年まで阪神監督を務めた岡田彰布も「データでヒットが打てるのか。データは感性まで映し出すのか」と案じていた。
もちろん、日夜データ収集と分析を行っているアナリストや裏方のフロントマンの努力は大いにたたえたい。皆、勝利を願って懸命なのだ。
ただ、元より人間的な野球がデータや数字に侵されてしまっては味気ない。スミスも生きていれば、今の「退屈」を嘆くだろう。データと感性の両立という問題は、また書きたい。 =敬称略= (編集委員)