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【内田雅也の追球】鎮魂と祈りの場となっている東遊園地は日本野球のふるさと

スポニチアネックス 2025年1月18日 8時1分

 神戸・三宮の東遊園地では今年もまた追悼行事「1・17のつどい」が開かれた。阪神大震災から30年、地震発生時刻の午前5時46分、参列者は黙とうをささげた。

 東遊園地の歴史は古く、明治元年となる1868年、神戸居留地の外国人が使う、日本初の西洋式運動公園「外国人居留遊園」として始まっている。園内で野球、サッカー、ラグビーなど、多くのスポーツが行われた。日本にスポーツが広まる起点となった。

 神戸は明治時代から野球熱が高かった。日本に野球が伝わったのは1872(明治5)年、米国人教師ホーレス・ウィルソンが第一大学区第一番中学(後の開成学校、現東京大)で生徒に教えたのが始まりとされる。

 この定説の1年前に行われていたとの新説がある。日本野球機構(NPB)の伊藤修久が昨年4月19日(日本時間20日)、米クーパーズタウンの野球殿堂博物館であった米国野球学会(SABR)で発表した。

 米巡洋艦コロラド号が1871(明治4)年、朝鮮半島に向かう途中、神戸に立ち寄った。その際、乗組員は大阪・川口居留地にあった広場で陸軍部隊・大阪鎮台の兵士たちに野球を教え、プレーしたという。

 伊藤が確定させた日付は154年前のこの日、1月17日だった。

 コロラド号の水兵たちは停泊中の神戸で上陸し野球を親しんだに違いない。その場所は東遊園地ではなかったろうか。

 昭和初期、第一神港商(後の市神港高)は全国最強と言われた。山下実、小柴重吉、島秀之助、二出川延明……ら日本を代表する選手を輩出した。1929、30(昭和4、5)年と選抜大会を連覇している。後にセ・リーグ審判員、阪神でコーチも務めた小柴は「野球博士」と呼ばれた。「負ける気がせんかった」のは東遊園地などで最先端の技術と知識を学んでいたからだろう。

 戦後、虹のような大ホームランを放ち、人気をさらった強打者、大下弘は三宮で生まれ育った。神戸小学校4年時、体育教師の勧めで初めて軟式ボールを握った。中宮高等小学校に進むと野球チームを作った。<大下が総大将だった>と辺見じゅん『大下弘 虹の生涯』(新潮社)にある。<練習は三宮の海側にある東遊園地でやった>。

 鎮魂と祈りの場となっている東遊園地は、日本野球のふるさとでもあった。 =敬称略=

 (編集委員)

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