イリュージョニストのプリンセス天功(年齢非公表)が11日に放送されたABEMAエンタメ「NO MAKE」に出演。壮絶なイリュージョンの舞台裏を明かした。
3歳からキッズモデルなどで芸能界を歩み、1976年、母のいとこが社長を務める初代・引田天功の事務所に入って舞台女優を志した。しかし「初代の引田天功さんのアシスタントが誰もいなくなってしまって、マジックの箱の中に入ってくれないかと言われて。マジックってそれまで知らなくて、初代の引田天功さんのことも知らなくてそんな世界もあるのかなと」となし崩し的にマジックの世界へ。
翌年、初代が心筋梗塞で倒れ、「代わりに日テレの『大脱出』をやってほしいと。ほかにも男性とか役者さんとか代わりはいたんですけど、“女の子の方が視聴率とれるから頑張ってやりなさい”って言われて」と大脱出に臨むことになった。
「『大脱出シリーズ』ってなんだ?ってビデオも見せてもらって。こんな危険なことするんだって。爆破とかも初めてだったので、ダイナマイトが爆発したらどうなるんだろうとかその時経験して。今だから言えるですけど、1発目の大爆破で耳が聞こえなくなってしまって…インタビューにも答えられないという感じになっちゃって。10メートル上から1回目の爆発で下まで落っこちて、まだ肩には傷が残ってます」と回想。当時、両耳の鼓膜を破りながらも代役を務めた。
翌年、マジックを披露するアイドル歌手「朝風まり」としてデビュー。2枚目を発表したところで初代が死去し、1980年に2代目を襲名した。「(マジックの歴史を)すべて覚えないといけないと言われて、たまたまショートスリーパーだったのでずっと勉強して勉強して…」と振り返った。
命の危機に直面したこともあった。ある時「水槽大脱出って2トンの水槽の中に入って、あっという間に客席へ出てくるというをやらなきゃいけないという契約があったんですけど。風邪をひいて、水槽の中に入った途端に咳込んでしまって溺れてしまったんです。救急車と消防車が来て、開けてくれて引っ張り出してもらって。その時に緞帳が下りて、蘇生してもらって。ウフフ。そういうのが5回ありました。水槽で5回救急車乗りました。いつ死んでも仕方ない運命なのかなと思っていたところがあって」と苦笑した。