現役時代は華麗な遊撃守備で「今牛若丸」と呼ばれ、監督として阪神を球団初の日本一に導いた吉田義男さんが3日午前5時16分、脳梗塞のため、死去した。阪神が4日、発表した。91歳だった。近く家族葬が営まれ「お別れ会」も検討されている。阪神OBで最年長。入団から70年以上、猛虎の歴史を紡いできたレジェンドが球団創設90周年に逝った。小柄な巨星が墜ちる大往生だった。
阪神球団によると、吉田さんが永眠したのは3日の早朝。死因は脳梗塞だった。永久欠番「23」に応じる「2・3」の往生だった。
高齢になっても壮健で、一昨年7月、90歳の誕生日に合わせ、甲子園のやっこ旅館で開かれた「卒寿を祝う会」で「130歳まで生きる」と宣言。禁煙や節酒に努めていた。
同年、阪神リーグ優勝、日本一を見守り、岡田彰布監督(67=現球団オーナー付顧問)とゴルフを楽しむなど、元気な姿を見せていた。
だが昨年、冬を迎えるころに体調を崩した。12月5日には西宮市の病院に入院していた。糖尿病の持病があった。
いわゆる「昭和一ケタ」世代。33(昭和8)年7月26日、京都市中京区西ノ京中保町の実家で生まれた。父は薪炭商を営み、2男3女の次男。国民学校6年生で終戦を迎えた。
旧制・京都二商から学制改革で山城高に編入。2年生の50年夏、甲子園大会に出場。3年では主将を務めた。
阪急の誘いを断り、特待生で立命大に進学。1年春から遊撃手で出場した。その52年10月から阪神・青木一三スカウトの勧誘から中退して53年入団となった。同期に小山正明、三宅秀史がいた。
1年目から松木謙治郎監督に抜てきされ、以後16年間、不動の遊撃手だった。1メートル67と小柄だが走攻守三拍子そろった名手だった。
「牛若丸」の異名は55年、NHK解説者の小西得郎氏が「何と申しましょうか。まるで牛若丸のように、ひらりひらりと敏しょうな守備をしますねえ」と語り、定着した。
62年、セ・リーグで初めての優勝に貢献。日本シリーズ首位打者、敢闘賞を受賞。64年にも優勝を経験した。
69年秋、ともに選手兼任コーチだった村山実との次期監督争いに敗れ現役を引退した。
実働17年で2007試合出場、1864安打、打率2割6分7厘、350盗塁。遊撃手で歴代最多のベストナイン9回。盗塁王2回。オールスター戦出場13回。64年に179打席連続無三振(当時プロ野球記録)を記録した。背番号「23」は後に永久欠番となった。
74年秋に阪神から監督要請され就任。3年間務めた。
84年秋、2度目の監督に就任。解雇濃厚だったランディ・バースの残留、真弓明信を外野、岡田を二塁に転向させるなど改革を行った。85年、「挑戦」「一丸」をテーマに「ダイナマイト打線」復活の猛打で21年ぶりのリーグ優勝、2リーグ制初の日本一に導いた。
だが87年には球団史上最低の勝率3割3分1厘で最下位となり解任となった。3年で天国と地獄を味わい、関係者は「天地会」として親交している。
失意の退団後、知人の紹介を受け、フランスでの野球指導に向かった。89年からパリ大学クラブ(PUC)で技術顧問、90年からフランス代表監督を95年まで務めた。
在任中の92年、野球殿堂入りを果たした。
96年秋には球団史上初となる3度目の監督に就任。98年限りで円満退団した。監督通算3期8年で1051試合、484勝。
91歳は阪神OBでは最高齢。入団から73年間、歴史をつくり、見届けてきた。創設90周年に合わせ、球団が行ったインタビューで「つらいことも多かったが、タイガースが育ててくれた。野球人としてだけでなく、人間として成長させてくれた。感謝の念だけが残っている」と語っていた。