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【吉田義男さんを悼む】パリでの初対面から36年 今では座右の銘「徹」の意味が分かる

スポニチアネックス 2025年2月5日 5時19分

 吉田義男さんと初めて会ったのはパリだった――と書けば、しゃれているが、内情はそんな格好のいいものではない。

 1989年夏、編集局長から「吉田の所へ行け」と命じられた。バブル期、日本航空(JAL)のマスコミ向けキャンペーンでヨーロッパ線の無料航空券を渡された。入社5年目、阪神担当2年目の26歳だった。

 吉田さんとスポニチは自他ともに認める犬猿の仲だった。現役晩年から2度の監督在任中、紙面で批判的な記事を掲載していた。「吉田放出」のトレード話は幾度も1面を飾った。たばこに「吉」と書くほどのケチと書いた。「責任を感じている」と聞けば「引責辞任か」と迫った。

 だから、吉田さんのもとへ、それも海外へ1人で行くと聞いた先輩は「かわいそうに」と気遣ってくれた。吉田さんはこの89年からフランスへ野球指導に出向いていた。

 事前に滞在先に国際電話したが「あ、そう」と素っ気ない。ファクスで行程を伝え、手土産に高級マツタケ昆布を買った。9月初め、アンカレジ経由でパリに着いた。

 押しかけてきた憎きスポニチの若造だが、さすがに追い返すわけにもいかない。吉田さんはカフェで「ドゥ・カフェ」とコーヒーを2杯頼んでくれた。英字紙ヘラルド・トリビューンを読みながら「あんたのところに随分嫌な思いをさせられました。わかってまっか」とずばり言われた。

 それでも車に同乗させてくれた。競馬場内や公園内に急造したグラウンドで当時56歳の吉田さんは文字通り汗を流していた。パリジャンの選手たちは「ムッシュ」の言う「レンシュウ」の大切さを知り「ガンバロウ」は合言葉になっていた。

 あの特派は「関係修復の糸口に」との意図だったと後に知った。氷は溶けだし、雪どけが始まっていた。

 5年がたった94年夏、再びJALの航空券を手に局長が「アメリカ、好きな所に行っていいぞ」。大リーグ・オールスターなどに加え、今度は望んでフランス代表が合宿中のジョージア州コックランまで足を延ばした。もう笑いながら話ができた。試合中、場内放送で「日本から野球記者が来ている」と紹介され、ベンチで吉田さんも笑っていた。

 スポニチとの不仲の一因には村山実さんとの対立構図があった。マスコミも巻き込んでの派閥争いである。だが吉田さんは「村山とけんかしたことなんて一度もありません」と話していた。キャンプ地・安芸や吉田邸での「相合い傘」をことさらに取り上げる論調を笑い飛ばしていた。

 96年秋、監督問題が紛糾し「吉田氏に要請へ」と他紙に先んじて書けた。特ダネはもちろん、吉田さんの復帰がうれしかった。自身も驚く、球界でも異例の3度目就任だった。

 篤子夫人は「フランス生活で主人におおらかな広い心が備わりました」と話していた。当時63歳。丸くなり、マスコミとの関係にも気を配った。もう「反・吉田」は皆無だった。

 涙腺も緩くなっていた。開幕2試合目(97年4月6日・広島市民)で初勝利をあげると感激で声をあげて泣いた。グラウンドでの涙は85年のリーグ優勝後、甲子園でペナントを手に場内一周して以来2度目だった。

 98年で監督退任となった。望んだ通りの円満退団で、辞意表明して迎えた最終戦の朝、夫人は赤飯を炊いた。あれほどの負けず嫌いが語った「負けたのは悔しいが、人生に負けたわけじゃありません」が胸に染み入った。

 ユニホームを脱いだ吉田さんとは会うたびによく話をした。大リーグや阪神、高校野球など、昔と今を語り合った。思えば、ともに無類の野球好きという共通項があった。吉田さんは「あんたが日本の野球報道を引っ張っていかなあきまへんで」と励ましてくれた。

 座右の銘は「徹」。現役時代に修行した京都・大徳寺の盛永宗興老師から授かった。「ひたむきに歩む。集中して徹底的にやり通す。突き詰めて考える。苦しくても逃げずに立ち向かう……と理解しています」

 あの初対面から36年になる。今では吉田さんの「徹」の意味がわかる。懸命に生き抜いた末での大往生だった。(編集委員・内田 雅也)

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