宜野座村野球場センターポールの球団旗を半旗としていた。3日に永眠した阪神のレジェンド、吉田義男(当時91歳)の功労をたたえ、弔意をあらわしていた。
OB会長・掛布雅之と球団オーナー付顧問・岡田彰布は「感謝しかない」と話した。監督と主力選手として1985(昭和60)年、球団初の日本一を勝ち取った。本部席で少し会話を交わした。
掛布は「おすしを食べている光景を思いだしていた。吉田さんはキャンプでの昼食時、よく食べられていた」とほほえんだ。岡田は5日に自宅を弔問し、ご遺体と対面してきた。「おだやかなお顔だった。安らかで眠っているようだった」
黙とうをささげ、練習は始まった。大物OB2人はともに今キャンプ初視察だった。どう映っただろうか。掛布は「いいすべり出しなんじゃないですか」、岡田は「まだまだこれからよ」と静かに見つめていた。
ただ、掛布は「僕の土台をつくってくれたのは吉田さんでした。それは守りの野球です」と話したように、どうしても守備面に目がいく。広く、本塁打が出づらい甲子園球場を本拠地とする阪神は昔も今も「守りの野球」が根底にある。
シーズン219本塁打を放ち、ダイナマイト打線で日本一となった、あの85年も、吉田の自慢は守備にあった。二塁・岡田、三塁・掛布をはじめ、遊撃・平田勝男、捕手・木戸克彦がダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を受賞している。
だから、佐藤輝明や前川右京など左打者の成長ぶりを問われた掛布は打撃面で一定の評価を与えたうえで「前川の場合は打つことより守りの面をどうするか。守りの意識を高めるべき。佐藤はサードを守る力がどうなのか。つまらないエラーを減らしてもらいたい」と注文をつけたのだ。
岡田は85年、それまで外野でくすぶっていたのを二塁手転向でよみがえった。「守りでも攻めろと言われたのは吉田さんが初めてだった」
シートノック。自身が監督だった昨年まで外野手の送球は全球、中継の内野手がカットしていた。昨秋からは直接送球もOKとなった。この日は中継24、直送18。打球の質や送球の距離によるが、それでも悪送球が目立ったのは確かだ。
「守りで勝て」と声が聞こえた。半旗の下、吉田スピリットは生きていた。 =敬称略=
(編集委員)