1488人が犠牲となった長岡空襲から8月1日で79年です。長岡市では犠牲者を悼む式典が開かれ、鎮魂と平和への祈りに包まれました。
谷芳夫さん。空襲で母を亡くしました。
当時は8歳で母、姉とともに炎の中を逃げ回ったといいます。
〈谷芳夫さん〉
「母親は何を思ったのか“突然お前たち早く逃げろ”って言って、向きを変えて家へ戻ってしまった。私は母ちゃん母ちゃんと呼んだが逃げてくる人たちで見えなくなって、それが私の母との最期の別れになる」
1945年8月1日の夜、長岡市の中心部はアメリカ軍の空襲によって焼け野原となり、わかっているだけで1488人の命が奪われました。
谷さんの母親は仕事道具を守るために家に帰っていたことが後で分かりました。
〈谷芳夫さん〉
「いまが幸せで当たり前と思っているけれども、その幸せは当たり前じゃないんだと大勢の人たちの苦労やいろんなことがあって今日があると知ることが大事なのではないか」
8月1日、アオーレ長岡で開かれた犠牲者を追悼する「平和祈念式典」。
語り部として登壇した池田ミヤ子さんも空襲で姉を亡くしました。
〈池田ミヤ子さん〉
「バタバタと焼夷弾が落ちてくるのが見えました。(防空壕から)外に出た時に見たのは倒れている姉の姿でした。罪のない人たちが死んでしまう命を失ってしまう。これほどむごいことはないですね」
語られたのは戦争の悲惨さでした。
〈参加した生徒〉
「戦争が起こることで家族が亡くなったり、親しかった友人が亡くなるなど、死を身近に感じるのが戦争だと思いました」
「戦争は無くならなければいけないものだと実感しました」
世界各地で今も続く戦争。
8月1日、1人の女性が長岡市を訪れました。
「私はウクライナへの支援は今だけではなく長期にわたる支援が必要だと思います」
ウクライナの民族楽器バンドゥーラを演奏するナターシャ・グジーさん。
ふるさと・ウクライナではきょうも命が失われている現実を、他人事ではなく身近に起こっている出来事だと感じてほしいと日本で演奏活動をしています。
〈ナターシャ・グジーさん〉
「私たちは日常の生活の中で平和って口にすることが多いと思いますがその言葉自体もすごく重み深みがあって、平和を私たちが一度手放したら取り戻すことが難しいものです。争い、戦い、戦争という言葉を口にすることのない世界、世の中にいつかなったら」
長岡空襲から79年。戦争を経験した世代も少なくなってきています。
中学3年生の船山遙花さん。語り継ぐ大切さを感じています。
〈船山遙花さん〉
「ことしで終戦から79年となり戦争世代がいなくなろうとしています。ここで風化させることは許されません。私たちの世代が戦争への意識を変える最後の砦なのです。戦争を遠いことだと思わずに、目を背けないことで平和の砦を心のうちに築くことができるのではないか」
それぞれが考えた平和の意味。
長岡市では1日夜、空襲が始まった午後10時半に慰霊の花火「白菊」が打ち上げられます。
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