多くの人の日常を奪った中越地震から10月で20年となります。
地震による土砂崩れで川がせき止められ、約半数の民家が水に沈んだ長岡市旧山古志村の木籠集落……。
あの日から集落はどう歩んできたのか……震災の記憶を伝え続ける女性の思いに迫りました。
◆地元の伝統野菜「神楽南蛮」
畑で採れた自慢の野菜を並べるのが毎朝の日課です。
この時期に収穫できるのは地元の伝統野菜「神楽南蛮(かぐらなんばん)」。
〈松井キミさん〉
「形のいいのを作りたいと思うんだけど、なかなか難しい、辛くて皮の風味があるってことでね。みんなに喜ばれる」
長岡市旧山古志村の木籠集落に住む松井キミさん・80歳。
集落にある直売所「郷見庵」で毎日欠かさず店番をしています。
◆震災の記憶を伝える
野菜の販売のほかにも大事な役目……それはあの日の出来事を伝えることです。
〈松井キミさん〉
「この部落はそこから14軒埋まっちゃった。地震じゃそんなに被害なかった。ちょっとうちにヒビが言った程度で」
一見するとわからない被害の爪痕……
〈松井キミさん〉
「この一山が崩れて50メートル下の川をせき止めた。もう早20年、切なかったってみんなそう」
◆68人が犠牲となった中越地震
2004年10月23日に起きた中越地震。
最大震度7……68人が犠牲となり、10万人が避難しました。
旧山古志村は震度6強の激しい揺れに襲われ、多くの建物や道路が崩壊……きのうまで当たり前だった日常が奪われました。
住民はムラを離れる「全村避難」を強いられ、ヘリコプターで避難所へ向かいました。
山間にある木籠集落では亡くなった人はいませんでしたが、大規模な土砂崩れが発生。
集落を流れていた川がせき止められ、次々と民家が水没しました。
◆自宅が浸水
川の側に建っていたキミさんの自宅も3階まで浸水。
一時帰宅できたのは水が引いた翌年の春のこと。
〈夫・治二さん〉
「ここにみんな牛を縛って」
キミさんは夫の治二さんとともに木籠集落に向かいました。
変わり果てた姿に衝撃を受けました。
〈夫・治二さん〉
「しょうがないですよ」
なにかもが泥水をかぶっていました。
〈松井キミさん〉
「ひどいです……ひどいけどやっぱりまた戻ってきたい。このまま春になったら、みんなで子どもらと一緒に、ここでお茶を飲みたいです」
◆「やっぱりここが自分のふるさと」
キミさんの夫・治二さんは地震当時、闘牛会の会長を務めていました。
1000年の歴史を途絶えさせてはいけない……そう誓い、集落の区長としても復興に力を尽くしました。
体育館での避難生活は約50日……仮設住宅で3年間に及びました。
ふるさとに戻って来られたのは震災から3年後。
山を切り開き、 集落を高台に移転させました。
〈松井キミさん〉
「お父さんについて帰ってきました。率直に幸せだな……帰ってきて」
〈夫・治二さん〉
「やっぱりここが自分のふるさとですからここが一番ですよ」
伝統を守り、ふるさとの復興に全力を注いできた治二さん。
9年前に75歳で亡くなりました。
◆夫の治二さんから託されたもの
キミさんは夫の治二さんから託されたものがありました。
それが郷見庵です。
〈松井キミさん〉
「建てたからにはお前はここの店番、ずっと休むんじゃないよって宣告されながら闘牛にも1回もいかないで」
復興に向けて支援してくれた人に感謝を伝える場所、そして、これからも集落を守るための仲間の集う場所として地震から6年後に治二さんが作った郷見庵。
「おかあはここの当番」
キミさんは治二さんの言葉を守り続けてきました。
今は娘の智美さんとともに毎日、郷見庵に立っています。
〈松井キミさん〉
「見よう見まねで頑張っている。いつバトンタッチしてもいいよね。頑張ってください」
〈娘・智美さん〉
「まだまだ野菜は作ってくださいって感じですよね」
採れたての野菜を持ってきてくれるのは山古志に住む人だけではありません。
〈ふるさと会の男性(山古志の元住民)〉
「もう付き合ってだいぶ経つ、こっちのおっかあちゃんは、俺の元同級生だっけさ、中学3年生まで一緒に机並べて勉強したんだから」
郷見庵があるから今も続く“つながり”
そして支援してくれた人やいまも震災を気にかけてくれる人が訪れてくれます。
◆「震災遺構」として保存
郷見庵のすぐそばには震災後に水に浸かった民家が2棟残されています。
その一つがキミさんの自宅。
「震災遺構」として保存され、被害を伝える象徴となっています。
水没した自宅は建ててまだ2年でした……
〈松井キミさん〉
「これを建てたときはお父さんと一生懸命、お父さんは東京通いしたり、牛を飼ったり、 その間に鯉をしたりして最盛期だった、頑張った証だったんだけどこんな形になってしまった」
子どもを育て、その後は、夫とのんびり過ごすつもりでいました。
それが……
〈松井キミさん〉
「写真だってみんな泥だらけ、でも子どもの写真だけでもと思って出しただけであとはほとんどそのままの状態だな」
◆自宅から持ち出した写真
水没した自宅から持ち出した、その写真を見せてもらいました。
〈松井キミさん〉
「これだけは自分が持ってきた覚えがある。子どもの4人の」
それはキミさんの子ども4人の卒園式の写真。
水に浸かった跡はあるものの3人の顔は今でも映し出されています。
しかし、次女の智美さんの写真だけは完全ににじんでしまっていました。
そして、智美さんが自宅から持ち出したというアルバムも……
〈娘・智美さん〉
「たぶん水に1回浸かっていますよね」
〈松井キミさん〉
「水に浸かって、3階に置いたんだけどもさ」
アルバムには中学の入学式に参加する智美さんの写真がしっかりと残されていました。
〈松井キミさん〉
「いくら汚れても写真は写真、子どもの思い出だ。こんなことがあったなって」
20年経っても写真の中は変わらない笑顔……地震が起きなければ……また違った人生を 歩んでいたはずです。
◆被災者として当時の記憶を伝える
地震の爪痕を伝える震災遺構には週末になるといまも全国から人々が訪れています。
〈埼玉から訪れた人〉
「テレビでずっと流されていたでしょ。”孤立したまち”って、ヘリコプターが来てその様子も見てたし」
そして、キミさんのいる郷見庵にも。
〈観光客〉
「揺れたときどうしてはったんですか?」
〈松井キミさん〉
「牛舎で仕事をしていました。牛さんは半分はなくなったけど、半分は生きていたから闘牛も復活したし」
地震によって水没した集落のこと。 そして、これまでの復興の歩み。
キミさんは被災者として当時の記憶を伝えます。
〈松井キミさん〉
「体育館で50日間、3年間仮設で生活して。うちらは大変な思いはしたけど、でもどうにもできないことってあるんだよね。あそこは地震の記憶を伝えて地震のときは自分の身を守るってことを学んでいってもらえば、こういうことがあっても立ち直ればこういうふうになるんだよっていうのを、来て感じてくれれば私はそれでいい」
ふるさとが水に沈んだ中越地震から20年。
あの日の出来事を……そしてあの日があったから生まれた人との交流の大切さを……心に刻みきょうもキミさんは郷見庵に立ち続けます。