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【ブル中野連載#12】あおる全女「やってやるって言ってたぞ」アジャコングとの闘争前夜

東スポWEB 2024年7月4日 18時26分

【ブル中野・告白(12)】1988年12月のタイ遠征の後、台湾にも遠征しました。この時は、ある意味、大変だったです。みんな食あたりを起こしてしまい、試合では「トイレに行っていい」という特別ルールができたんです。私はアジャコングと組んでいたんですが、トイレに行ったまま帰ってこない…。「まだかよ!」ってね(笑い)。

この後、全女は引退ラッシュが続きました。クラッシュ・ギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)のブームが終わったのがみんなわかっていたので「潮時かな」という人と「まだまだここから」と思っている人が真っ二つに割れた感じです。89年5月に長与さんが引退し、そこで本当に終わりましたね。赤と青の法被で覆われ、毎試合3000~4000人いたお客さんが数百人台となり、時には50人いないことも。選手、スタッフの方が多い大会もありました。そのときにトップだったんで、すべて自分の責任だと思っていました。背負わなきゃいけないし、お客さんを入れるのはどうすればいいかを考える日々でした。

90年1月4日の後楽園大会では、初めて団体最高峰のWWWA世界シングル王座のベルトを巻きました。飛鳥さんが引退し、返上したタイトルを西脇充子と争って取った形です。日本人の悪役では初の戴冠でしたが、西脇は後輩。先輩だったりライバルに勝って手に入れたベルトじゃないので、自信がないチャンピオンになってしまったのです。自信のないチャンピオンほどみっともないものはありません。その後はくすぶっていました。

獄門党はバット吉永、渡辺智子、長谷川咲恵、そして井上京子が入ってきます。メンバーのうち、アジャとバイソン木村がユニバーサル(※)で人気になりました。実力がある2人なので「女子も面白いじゃん」となり「ゴーゴーバイソン」とか、パイルドライバーをやるときに「ウ~アジャ!」という掛け声が出るようになりました。

最初はバカにされているのかと思ったんですけど、そうじゃなくて、お客さんが楽しんでいるんですよ。自分はダンプさんと違うことをしなくちゃいけないと思うあまり、明るいことは一切やらなくなり、本当に自分がやろうとしていた動きや感情を殺していたことに気づきました。やりたいことをやっているのはアジャたちだと感じ、うらやましかったんだと思います。そのころ会社も「アジャがお前をぶっ殺すと言ってたぞ」と吹き込むようになりました。

一方でアジャには「ブルが『アジャをやってやる』って言ってたぞ」とたきつけるんです。そうやって本当にケンカさせてリングでやらせる。それが全女のやり方なんでしょうけど、こうしてアジャと対峙するようになったのです。

※90年1月に旗揚げしたルチャを主体にした団体

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