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【ブル中野連載#15】アジャコング組との髪切りマッチ 負けるつもりだったけど井上京子が…

東スポWEB 2024年7月10日 18時51分

【ブル中野・告白(15)】1990年11月にアジャコングとの金網マッチを制しましたが、抗争はまだまだ続きます。バイソン木村が「次は私にやらせろ!」と言ってきたのです。「アジャが勝てないのにお前が勝てるわけねえだろ!」と言うと、アジャが「だったらタッグでやろう」という提案。タッグパートナーがいない私の前に「自分じゃダメですか?」と、出てきたのが井上京子です。お客さんに「京子でいいのか?」と聞いたら「ワーッ」となったので期待を感じました。

91年1月11日の川崎市体育館大会、ブル&京子VSアジャ&バイソンの髪切りマッチが組まれました。入場するとき、まだ何もしてないのにお客さんが沸いています。昔のクラッシュ・ギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)VS極悪同盟みたいな雰囲気です。実は髪の毛を立てていたんで、私としては負けた方がいいなと思っていたんです。

丸刈りになる方が(中継する)フジテレビのカメラにずっと撮ってもらえるし(笑い)。だってバイソンの長い髪の毛が切られるよりも、私の立っている髪の毛を切るほうが衝撃ですよね。そうしたら京子は「絶対に勝ちたい!」と。だから「しょうがないか。勝つしかないのか」みたいな気持ちで臨み、試合は勝利してアジャとバイソンが丸刈りになりました。

この年の「ジャパン・グランプリ」は京子が優勝して、WWWA世界シングル王座を持っていた私は9月7日の大宮スケートセンター大会で迎え撃ちました。獄門党の後輩・京子には常々「好きなようにやれ」と言っていたのですが、このころにはすごい成長していました。あの子が何をするのか全部わかっているし、あっちもわかっている。全てを出し切っての試合に「なるだろうな」と思っていました。

試合後は初めて「獄門」コールが起きたのを覚えています。「ありがとう」と感謝の言葉を口にした私は獄門党メンバーをリングに上げて「これが獄門党だ!」と言いました。お客さんが一緒に獄門党をつくってくれ、ここまで育ててくれたのです。このころには落ちていた観客動員数も回復しつつありましたね。

そうそう、実はこの年に本当は忘れたいのですが…京子、バット吉永と「鉄と鎖のレクイエム」という曲でCDデビューしていまして…。京子は歌がうまかったのでいいんですけど、私は…。何回か会場でも歌わされたんですけど、反応はあんまりで。全然売れなくて、すぐに廃盤になりました。だけど振り付けを(ダンスポップユニット)TRFさんが担当してくれたんですよね。

92年は戦いの舞台が全女だけではなくなります。女子プロ界初となる団体対抗戦の火ぶたが切られ、私も出陣することになるのです。

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