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故橋本真也さん側近が明かす破壊王の〝本当の姿〟「9割がマジで腹立つんですけど…」

東スポWEB 2024年7月11日 5時1分

ゼロワン創設者の〝破壊王〟こと故橋本真也さん(享年40)が2005年に死去してから、19年が経過した。命日となる11日には、01年1月の団体立ち上げメンバーであり、橋本さんのマネジャーも務めたリングアナのオッキー沖田氏(50)が、この日付でゼロワンを退団した。愛する団体を離れるにあたり、走馬灯のように駆け巡るのが橋本さんとの思い出だ。数々の伝説を残した破壊王の〝本当の姿〟を元側近の沖田氏が語る――。

――7月11日付でゼロワンを退団

沖田氏(以下沖田)取締役として橋本さんのゼロワンを維持していければと思ったんですけど、若い子たちを見て、もう安心だなと思いまして。(頚髄損傷でリハビリ中の)大谷(晋二郎)にも報告したら「橋本さんも怒らないと思うよ」と言ってくれた。11日は橋本さんの命日ですしね。

――立ち上げから橋本さんのゼロワンに参加

沖田 橋本さんは芸能とかの仕事が多かったのでお付きの仕事をしました。葛西(純)くんは付け人をして「ノイローゼになった」って言うじゃないですか。僕は大人だったんで、うまくあしらっていましたね。「どこにおるんや?」「カナダにいます」「女か?」「それに近くて」って答えたりして。橋本さん、特に用事はないんですけど、寂しがり屋だったんです。(生まれた岐阜の)家は大きいんですけどブルーシートで穴をふさぐくらい貧乏だった。お父さんが2歳で蒸発しちゃって、お母さんが早く亡くなって、おばあちゃんに面倒をみてもらう環境で育ったのもあって。

――マネジャー業は大変だったと想像がつく

沖田 人に迷惑かける遅刻が多かった。(フジテレビ系)「笑っていいとも!」で女装した橋本さんの写真から本人を当てるクイズコーナーに出たことがあった。出演者にバレちゃいけないから午前10時半に(東京・新宿の)アルタ(スタジオ)入りだったのに電話に出ないんです。11時半くらいになって「おはよう」って…。遅刻でコーナーの順番を変えてしまったんです。しかも、ゲストのせいで変わったと知ったかっちゃん(勝俣州和)がキレている。最後に橋本さんが登場したんですけど、仲良しだったかっちゃんがシカトしましたからね(笑い)。

――豪快な人だった

沖田 突然「400万すぐに振り込め」と言ってきたことがあった。何に使ったのか聞いたら「これから日本全国のコンビニにソフトクリームの機械がつくんや。カートリッジ1店舗につき5円、俺に入ってくる。俺は2000万円だった権利を400万円で手に入れたんや」と。東京プリンスホテルの喫茶店で隣の席の人から「橋本さんですよね?」と声をかけられて即断したとかで…。橋本さんが亡くなってから、そのカートリッジを見たのは1回だけです。

――なのに憎めない

沖田 9割がマジで腹立つんですけど、悔しいのは一瞬で帳消しにしちゃう。たまたま千葉に行くことがあって、僕の母が働いている居酒屋で車を止めろと言われた。店内が「橋本だ!」と大騒ぎになる中、ズカズカと入っていった橋本さんは母の前で90度腰を曲げて「沖田くんにはいつもお世話になっています。ありがとうございます」って言ってくれて…(涙)。母はそれまでイジメられていたんですが「息子さん、橋本さんのマネジャーやってるなんてすごい」ってイジメられなくなった。「ありがとう」という言葉を計算しないで素直に言えるんです。

――だが次第に疎遠に

沖田 当時の橋本さんの月給はかなり高額だった。〝武士は食わねど高楊枝〟で「俺らが軽自動車に乗ってたら夢がないやろ」って。しかも(小川直也との)OH砲で全国を回っていたときのイメージがあるから生活水準を下げられない。次第にお客さんが入らなくなって、団体が苦しくなってきた。だけど橋本真也の名前でお客さんが入らないのは、本人のプライドが傷つきますよね。そうすると橋本さんに適当なことを言う人が増えてきて、本人は素直だから信じちゃう。次第に僕と(当時の専務)中村祥之さんの話がうるさくなったんでしょうね。

――たもとを分かち橋本さんは最期を迎えた。あれから19年だ

沖田 7月11日になると「橋本が亡くなった日だ」と言ってくれる。みんな忘れていないので、ありがたい。9割ふざけるなと思うことばかりでしたけど、やっぱりテレビで見てた橋本さんは強いしすごかった。橋本さんは「まだやってるのか?」って言うかもしれませんが、今後もお世話になったプロレスで一生を終えたいと思います。

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