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【菊地敏幸連載#5】巨人・原前監督はご近所の中学出身 縁あって柴田勲さんの法政二高へ進学

東スポWEB 2024年7月17日 11時12分

【菊地敏幸 辣腕スカウトの虎眼力(5)】1989年から縁あって阪神タイガースのスカウトを務めさせていただいた私ですが、実はプロ野球選手を経験したわけではありません。

どうしてもプロの世界では「どこの球団のOBだった?」と経歴を聞かれることがあります。星野仙一監督であれば明治大学出身であり当然、東京六大学出身の選手に目がいくというようなこともあります。

会話の中で「菊地はどこ出身なんだ?」というような話にもなります。反骨心ではないですが、少しずつ球団内で実績を積んで選手を発掘する手腕や人脈、眼力では負けないぞという自信を持つようになっていきました。

少年時代から野球にはご縁がありました。野球を始めたのは小学校3、4年生くらい。神奈川県出身の私は自宅と米軍基地が近かったこともあり、厚木ベースで開催されていたリトルリーグの元となるリーグで硬式野球を経験しました。外国人と日本の小学生で編成したチームのリーグが存在し、私はその時代にヒジを壊す経験もしました。6年生の時には投手として全国制覇も経験しています。

ジョンソン基地の黒人選手と体格差がずいぶんあったのは今でも記憶しています。ただ、中学からは地元の学校の野球部に入って軟式野球を経験しています。

私は大和中学で、巨人の原辰徳前監督は上鶴間中学出身でご近所だったんです。それぞれの中学校は今でも交流が盛んでOB会が行われているほどです。中学野球ですが、私はリトルリーグでヒジを壊していますから投手をやる気がなかった。内野手をやったり、最終的には捕手になって、離断性骨軟骨炎を患いながらごまかしながら野球をやっていました。

そして、中学3年の5月5日、キャプテンだったのにもかかわらず足を骨折してしまい、最後の夏の大会に出られなかったんです。だから中学時代にいい思い出は残っていません…。その年は64年で東京五輪が開催された年でした。通常、修学旅行は秋のはずですが、五輪の開会式が10月10日とあって春に変更に。ということもあり、夏の大会も修学旅行も行けていないんです。

聖火ランナーの伴走にも参加できませんでした。でも、相模湖がカヌー競技の会場になっていて、現地の開村式の旗揚げをさせてもらいました。国立競技場で練習を行った際には、女子バレー「東洋の魔女」と遭遇したのも覚えています。

中学卒業時点で野球での実績はなし。でも、野球は続けるつもりでした。第1志望は鎌倉学園でしたが、レベルが高く断念。どういうわけか法政二高に進学することになります。巨人のスターで名球会の柴田勲さんは7つ先輩です。

ただ、法政二高が強い時代は終わっていて、時代背景でいえば横浜高、武相高校が力を伸ばしていました。その武相には68年、巨人ドラ1の島野修がいました。我々の団塊世代の時代、法政二高の野球部員は1年生だけで200人を超えていました。推薦入学の選手以外はランニング、球拾いの毎日で2週間後には半分にまで減っていました。私はこの法政二高とのご縁でプロスカウトになるキーマンと出会うことになります。

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