Infoseek 楽天

デビュー45周年の越中詩郎がジャンボ鶴田、長州力から授かった〝金言〟を明かす「まだまだやってやるって!」

東スポWEB 2024年8月15日 11時9分

まだまだ現役だって! 24日の全日本プロレス後楽園ホール大会は、越中詩郎(65)の「デビュー45周年記念」として開催される。1979年3月5日の全日本・館山大会でデビューし、激動の新日本プロレス、WJプロレスマットを渡り歩いた侍戦士を支え続けたのは、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2大巨頭をはじめとした先輩、後輩たちとの出会いだ。今でもプロレス人生の教訓としている、ジャンボ鶴田、長州力から授かった〝金言〟を本紙のインタビューで明かした。

――45周年を古巣で迎える

越中 全日本でデビューしたけど、7年で出ていっていろんな道をたどってきた。けどまたこういう機会に声をかけてもらって、もう感謝しかないね。馬場さんの付け人を2年くらいやっているから、やっぱり思い入れがある団体だしプロレスラー人生の原点だから。

――馬場さんの存在は

越中 いい意味でも悪い意味でも思い入れは深い。付け人のときは2人で行動していたんだけど、とにかく大変だったよ。俺らは移動中は寝るのが仕事じゃん。なのに横で寝てるとガッと(ヒジで押され)「俺が寝てないのに何でお前が寝てるんだ!」って怒られるし。とにかく自分の時間がなかったね。新日本に行ったとき、猪木さんの付け人を務めていた蝶野(正洋)を見てたら、「えっ? こんなに楽なんだ…」と思ったから。

――全日本でキャリアをスタートさせた

越中 入門して良かったのは、合宿所にジャンボさんがいたこと。プロレス界でトップを張っていた人じゃん。一つひとつのしぐさなり生活を体験できることで、「レスラーってこういうことなのか」って教わった。「偉そうにしちゃダメだよ」みたいなことはよく言ってたよ。ジャンボさん自身、先輩ヅラしたのを見たことがないし、フレンドリーだった。普段は「越中くん、あれをやってくれたまえ」という感じだったからね。

――エースとして鶴田さんが団体を支えていた

越中 馬場さんはジャンボさんと組む機会が多かったんだけど、試合の8割はジャンボさんがやっていた。俺は付け人の仕事で、試合が終わったらタオルを絞って馬場さんの体を拭くんだけど、「冷たいから水でタオルを絞るな!」って怒られたから。だって馬場さん、汗をかいてないから(笑い)。ジャンボさんは汗ビッショリなのに…。

――故三沢光晴さんは3年後輩だ

越中 普段は無口でほとんどしゃべらなかった。でも試合に入ると、あうんの呼吸で何でもこなしたね。彼と武藤(敬司)は天才だよ。「いけ!」と言ったときはもう準備が整ってるから、すぐにドロップキックを打てる。後藤(政二=後のターザン後藤)は何を言ってもダメだったね…。でも後藤に言ったことがあるんだよ。「怒られてばかりのお前みたいな方がきれいな花が咲くんだよ」って。あと当時の天龍(源一郎)さんは海外に行かれていたんであまり接点がなかった。まだ殻を破れない状態で、一番もがいていた時期じゃないかな。

――馬場さんと鶴田さん、後輩の三沢さんと後藤さんは鬼籍に入った

越中 複雑と言っちゃ複雑だよね。馬場さんも俺がここまでやるとは思ってなかったと思う。全日本での出会いと、新日本で猪木さん、坂口(征二)さん、藤波(辰爾)さん、長州さんと出会えたことに感謝だよ。特に長州さんは「この世界で生きるんだったら練習しろ。家でテレビを見る時間があるんだったら道場に来て汗を流せ」としょっちゅう言ってくれた。それもあって長く続けられたのかなって思うよ。

――メモリアル大会では田口隆祐、真霜拳號、青柳優馬と組み、諏訪魔&芦野祥太郎&黒潮TOKYOジャパン&立花誠吾と対戦する

越中 4人でヒップアタック花火を100発くらいぶち上げてやるって! 支えてくれた方たちへの感謝を込めてね。それに全日本は今、すごい盛り上がっているから、この調子で頑張ってほしい。やっぱり新日本と全日本が切磋琢磨してガンガンいってくれないことには話にならないから。

――今後のプロレス人生は

越中 何も考えてない。声をかけていただければ、それ以上のものを出していければなってだけだよ。とにかくさ、まだまだやってやるって!

☆こしなか・しろう 1958年9月4日生まれ。東京都出身。高校卒業後に電気工事関連の会社に就職するも78年に全日本プロレスに入門。79年3月5日の館山市民センター大会で公式戦デビュー(対薗田一治)した。85年に新日本プロレス移籍を決意。86年にIWGPジュニアヘビー級王座を獲得し、92年に反選手会同盟(後の平成維震軍)を結成した。2003年に新日本を退団し、WJプロレスを経てフリー。185センチ、105キロ。

この記事の関連ニュース