Infoseek 楽天

「何もできなかった」日米通算170勝の岩隈久志が熟慮したチームに残る意味【平成球界裏面史】

東スポWEB 2024年8月18日 9時9分

【平成球界裏面史 近鉄編66】幾度となく逆境を跳ね返した右腕も、晩年の故障には勝てなかった。平成31年(2019年)、巨人の一員としてプロ20年目を迎えた岩隈久志は、2月の春季キャンプ初日に投げられる状態を整えることができなかった。

平成29年(2017年)の秋に手術した右肩の状態が思うように改善されず。メジャー最終年となった平成30年(2018年)もMLB公式戦に登板することなくマリナーズを退団していた。巨人監督に就任した原辰徳監督からのラブコールで日本球界復帰となったが、右肩に不安を持ったままの移籍だった。

「近鉄時代からずっと応援してくれたファンの方々もいる。そういう皆さんに勇気を届けるような投球をしたいと思う」。自主トレ期間中の取材ではそう意気込みを語っていたが、一軍組で招集された春季キャンプでは右肩のリハビリに終始した。

キャンプ最終盤となりブルペンでの投球が可能となったが、原監督は「もう少し時間が必要」と開幕二軍を決断。実戦登板が可能になったのは8月21日のイースタン・日本ハム戦にまでずれ込んだ。1イニングを三者凡退と結果は残したが、もうペナントレースは終盤戦。NPBでは新人だった平成12年(2000年)以来の一軍登板ゼロに終わった。

「何もできなかった」。日米通算170勝の実績をリスペクトされていても、その事実を岩隈本人は重く受け止めていた。17年オフに右肩を手術して18年、19年と2年連続で公式戦登板なし。2020年に39歳になる右腕は自覚していた。

それでも、巨人は岩隈と令和2年(2020年)の契約を更新した。年俸は60%ダウンの2000万円。だが、そんなことは問題ではなかった。19年限りで巨人で一時代を築いてきた阿部慎之助が現役を引退。二軍監督に就任した。巨人が世代交代の岐路に立っている中で、自身がチームに残った意味を考えていた。

「今年も投げられなかったら引退しようと考えていました。これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない」

球団関係者も若手選手も、惜しみなく自らの経験や技術を伝授する岩隈の姿勢に感銘を受けていた。一軍戦力として投げられないという事実、単調なリハビリに耐えながら右肩の状態は一進一退。それでも他者を尊重し優先できる精神性に周囲の評価は上々だった。

ただ、岩隈が立っていたのはプロ野球の現場。2年連続登板なしの39歳に現役選手としての居場所がないことなど重々分かっていた。20年も一軍登板がないまま時間が過ぎていった。そして10月7日、原監督からの提案で東京ドームで行われるシート打撃に登板することとなった。

指揮官は「どうしても今年後半、彼を戦いの場に入れたい」という思いでセッティング。岩隈自身も「そこが期限と思いながら勝負しようと。僕の今できる限りの全力で投げた」と全身全霊を込めて1球を投じた。

だが、結果は初球が打者に当たってしまい、自身の右肩は脱臼という結末だった。「その1球で体力的な限界を含め引退を考えた。めちゃくちゃ痛かった」。約1週間、熟考を繰り返し、各方面への連絡を済ませ岩隈は引退を決断した。

近鉄バファローズ消滅から16年の時を経て猛牛最後のエースが燃え尽きた。これで平成16年(2004年)に近鉄のユニホームを着ていた現役選手はヤクルト・坂口智隆、近藤一樹のみとなった。

この記事の関連ニュース