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【ザ・グレート・カブキ連載#1】63年力道山への入門直訴を敢行! 1か月後に悲劇が…

東スポWEB 2024年8月19日 16時9分

【ザ・グレート・カブキ 毒霧の真実(1)】米国マットでもっとも成功を収めた日本人プロレスラー、ザ・グレート・カブキ(75)の新連載「毒霧の真実 ザ・グレート・カブキ自伝」がスタートする。日本プロレスや全日本プロレスで活躍し、米国へ本格進出すると「東洋の神秘」として大ブレーク。グレート・ムタなど多くのプロレスラーに影響を与えた男が激動のキャリアを振り返った。

自分は「米良明久」として1948年9月8日に宮崎県延岡市で生まれました。父の夏治はもともと海軍。戦後は自転車屋を営んでいました。身長が178センチあって「草相撲」によく出ていました。九州では「子白浜」というしこ名で大関だった。当時は素人相撲が盛んで各地で大会がいろいろあったんです。

母のアサエは優しかった。自分が小学校5年生のころに親父が亡くなってからは、食堂を始めて育ててくれました。夏には家の前に流れていた五ヶ瀬川を泳いでウナギをとったもんですよ。冬は山でアケビを採って…。学校では水泳と柔道をやっていました。

プロレスを初めて見たのは中学1年生の時です。隣人がテレビを買ったので誘われて力道山の戦う姿を初めて見て「面白い。相撲と全然違う!」って、すぐにとりこになった。それからは柔道部でもプロレスの技ばかりやるようになりましたね。練習中に吉村道明さんをマネして、フライングヘッドシザースをやったら、先生に「バカヤロー!」って怒られたなあ(笑い)。

中学2年の時に愛知の知立に引っ越したんだけど、3年生になる前にはもう卒業したらプロレスを仕事にしたいと思って、日プロ(日本プロレス)に直接行って憧れの力道山に入門を直訴すると決めたんです。それで1963年11月9日の夜行列車で東京・赤坂にあった日プロの合宿所に行ったんだけど、この時は巡り合わせもあって会うことはできず、出直すことにしました。

すると、その直後に大事件が起きました。12月8日に力道山がナイフで刺され、1週間後に亡くなってしまったんです。自分も心配になったけど、改めて翌年の1月に上京して合宿所へ行ったら渋谷にあるリキパレスの事務所に行くようって言われて。そこで「新弟子希望です」って入ったらイスに座るように指示されてね。そしたらそこへ豊登さんが来て「坊や、いくつだ?」と聞かれた。それで「中学3年の15歳です」って答えたら「卒業したらおいで」って。それで「え、いいんですか?」って聞いたら「いいよ。いいよ」って…。でも口約束じゃ困るから「一筆書いてください」って「念書」も書いてもらいました。

実は自分には名古屋の複数の高校から推薦入学の話も来ていたんだけど、それをすべて断ったんです。そういうのもあって中学の先生から卒業後の進路を何度も聞かれていた。それまではぐらかしていたんだけど「プロレスに入ります」と伝えて、もらった念書を見せたら驚いていましたね。卒業後は合宿所に入ったんですが、その生活は…。

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