Infoseek 楽天

【ノア】11月引退の齋藤彰俊 松永光弘から長州力まで…レスラー人生34年〝強烈〟だった出会い

東スポWEB 2024年8月20日 11時10分

ノアの齋藤彰俊が、11月17日の愛知・ドルフィンズアリーナ大会で引退する。約34年間の現役生活を振り返る上で、大きな影響を与えたのが同期の〝ミスターデンジャー〟こと松永光弘、平成維震軍、ザ・グレート・カブキ、長州力、そして故三沢光晴さんだ。プロレスラー・齋藤彰俊をつくり上げた5人の選手&ユニットとの思い出を中心に、波乱万丈の半生を語る――。

――同級生の松永とは高校時代に出会った

齋藤 中京高(現中京大中京高)だったんですけど、学校内で「こんな強いヤツがいる」っていううわさが出る者同士でした。松永が相撲部で、自分は水泳部。松永は全日プロレス派で、当時の自分は新日プロレス派でした。「いつか2人でタッグ(ベルト)を取ろうよ」みたいな話をしたのを覚えています。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の(プロレスラー予備校)企画で、「たけし猫まねき仮面」のオーディションに松永が出たことがあって、タイガーマスクの覆面を貸したこともありました。

――齋藤選手自身は競泳の実力者だった

齋藤 中京大時代にユニバーシアードや、パンパシフィックで日本代表に入りました。合宿では(1988年ソウル五輪男子100メートル背泳ぎ金メダル)鈴木大地たちと一緒に「水泳維新軍をつくろう」とか言ってやっていたんです。長州さんが好きだったので。あとロード・ウォリアーズ(ホーク&アニマル)が好きだったので「水泳は力だ!」と言って筋トレをしていたんですけど、ソウル五輪の選考会で5位になって、その後の国体を最後に引退しました。鈴木大地たちがそこまでウエートには力を入れず五輪に行き、自分だけ行けなかったんで、水泳は力じゃないんですね…。

――92年に青柳政司館長率いる誠心会館の空手家として、新日本プロレスとの抗争が勃発した

齋藤 同級生で松井啓悟という男がいまして、彼から(91年12月に)「館長に呼ばれて荷物を(後楽園ホールの)控室に持っていったら、ドアを閉めた閉めないで(小林邦昭に)殴られた」と電話がきたんです。そのころ松井はアパレルの会社に勤めていたんですが「話が大きくなって会社にいられない」ということで「じゃあ、俺が行くよ」と新日本に乗り込んだ形ですね。館長と乗り込んだわけじゃないんですよ。

――小林、越中詩郎との抗争を経て結託。反選手会同盟から平成維震軍が結成された

齋藤 維震軍の絆がすごいなと思ったことがあって…。(95年11月23日に)とどろきアリーナ(神奈川)でこけら落とし大会があったんです。新しくできたばかりだから壊してはいけないのに、越中さんがイスを投げちゃって、壁に穴が開いたんですよ。そうしたら越中さんがひと言「連帯責任だな」って…。

――維震軍はエピソード抱負だ…

齋藤 博多に有名な鉄板焼き屋があって、橋本(真也)さんが若手を連れて「好きなだけ食え」みたいな感じで食べていた。「お前らも来い」と言われたけど、敵対していたんで、行かなかったんです。そのあと歩いていたら、サンダルにワールドプロレスリングのTシャツを来た越中さんがラーメン屋に並んでいたんですよ。それを見た時に「本隊には勝てないな…」と思いました。

――維震軍は7年くらいだったが、多くのファンの記憶に残っている

齋藤 当時は(蝶野正洋率いる)nWoがあって、そっちはファッショナブルでかっこよかった。自分たちは商店街のオヤジの集まりみたいな感じだった。そういう人間味の臭さも良かったのかもしれないですね。それに維震軍は誰もかっこつけてなかった。ていうか、かっこいい人がいなかったですから(笑い)。

――維震軍で出会ったカブキが師匠になった

齋藤 最初、越中さんに言われたのが「いいか、カブキさんと一緒に飲みに行ったらダメだぞ」だった。でも、いつも飲みに行ってましたね。師匠が「テキサススタイル」っていう飲み方を教えてくれたんです。ジャックダニエルのショットとビールが並んで、それを交互に全部〝一気〟していく。これ、みんな倒れます。「テキサスってすごい飲み方をするんだ」と思っていて後輩にも伝えたんですけど、2年前ですかね。「あれは俺が考えたんだよ」って言ってました(笑い)。師匠からプロレスの心構えや受け身を教えてもらいましたし、出会えたことは大きかったですね。

――新日本には憧れだった長州さんもいた

齋藤 新日本に乗り込んだころ、小林さんとの試合が盛り上がったからだと思うんですが「お前は10年かかるのを1日でやったよ」と言ってくれた。うれしかったですね。あとK―1が世に出てきたころ、自分にオファーがあったみたいなんですよ。その時、長州さんから「お前は負けるわけない。考えてみろよ、新日本プロレスの選手がいてスタッフがいて、それぞれ家族がいる。そういうやつらを背負っているんだから、負けるわけねえだろ」と言われました。K―1には出ませんでしたが、あの言葉は今でも心にしみていますね。

――怖さもあったと思うが

齋藤 サイパン合宿に行く時なんですが…。空港でトイレに入ったんです。そうしたらトントンって叩かれて「入ってるな?」と。声で長州さんだってわかるじゃないですか。落ち着いてできないから、他のところにいってくれないかなと思っていたら、洋式トイレが少ない時代だったからずっとおられるんですよ。またトントンとノックされ。これはダメだと思って外に出たら「テメー、いつまでクソしてんだコラー!」と怒られました(笑い)。

――三沢さんのノアでキャリアを終える

齋藤 やっぱりノアに来て、あのようなこと(三沢さんの死去)があったので、これが正しいだろうし、自分が求めていることなんだろうなっていうことですね。だから、最後はノアで終わりたいっていうのは本心ですし。いまだにアゴの骨が変形しているんですよ。あのすごかった、三沢さんのエルボーです。自分は毎朝手を合わせていますし、変形した部分は三沢さんを身近に感じ、戦えたことを感じられる部分ではありますよね。

――34年のプロレス人生は

齋藤 小さいころにこんな楽しいことがあるんだろうなと思っていましたが、こんな壮絶な人生が来るとは思わなかったです。自分がこの世に生を受け、人生を歩んでいるんだと教えてもらった場所ですね。(インタビュー・小坂健一郎)

☆さいとう・あきとし 宮城・仙台市出身。1990年12月20日のパイオニア戦志・愛知大会で金村ゆきひろ相手にデビュー。W★INGを経て、92年から新日本プロレスの平成維震軍で活躍。2000年からノアに参戦し、09年6月13日の広島大会で死去した故三沢光晴さんの最後の相手となった。必殺技はスイクルデス。177センチ、123キロ。

この記事の関連ニュース